神楽坂以外」カテゴリーアーカイブ

ロータリーの廃止 飯田橋交差点 昭和28年

文学と神楽坂

 飯田橋交差点は戦前は普通の五交差でしたが、戦後、ロータリー交差点に改められました。これを昭和28年12月に廃止し、また普通の交差点にしました。なおロータリー交差点とは中心部分の周囲を一方向に周回する方式の交差点です。

邪魔なロータリー取り壊し
 13信号燈で交通整理
  運転手泣かせの飯田橋交差点

 下町と山手をつなぐ交通の関門飯田橋交差点のロータリー取除き工事が近く完成、これとともに都内では珍しい13の信号燈が設けられ、いままで運転手泣かせの”関門”が解消される。このロータリーは九段、水道橋、新宿、大曲、市ヶ谷に通ずる五差路の真ん中にあって、こゝ二三年来自動車の増加で交通量が急増、昨年暮ごろから朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する始末。そこでロータリーを取除く必要にせまられ、神楽坂署や地元関係者が都、警視庁へ陳情、9月中旬着工、10月上旬完成の予定だったところロータリー用地の舗装や都電の路面引上げなどに手聞取り、ようやく2日完成することになった。
 また信号燈はすでに警視庁で取付けを終り、3日から点滅を始めるが、これで車も順調に流れるようになる。この信号燈は普通の交差点では4つだが、こゝでは歩行者専用8、車馬専用3、車馬、歩行者兼用2の13ヵ所で点滅し、80秒ごとに一めぐりして車をさぱく仕組になっている。
読売新聞 1953年12月1日

 林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)では昭和27年、ロータリーがある時点を捉えています。

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 新宿区内務部「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年)ではロータリーの撤去は失業対策の一例として登場しました。

飯田橋ロータリーの撤去

 昭和11年6月11日の地図院地図(B7-C10-10)ではこの交差点は以下の通りで、ロータリーではなかったといえます。

昭和11年6月11日 (B7-C7-10)

 昭和22年12月20日の地図院地図(USA-M698-99)では環状になっているのが分かります。それも2つの円形が合わさった変則ロータリーだったようです。

昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 しかし昭和31年3月10日(USA-M324-422)では再び、円形ではなくなります。

昭和31年3月10日(USA-M324-422)

 ちなみに2019年では歩道橋と高速道路ができています。

2019年 地図院地図

 ID 13030は、昭和28年、ロータリーを廃止した写真です。道路の真ん中にあるゼブラ柄の土台に「自動交通信号機設置記念」の立て看板があるのは、ロータリーを撤去した代わりに信号を設置したためでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 この交差点の中の信号機は、これ以後もしばらく同じ場所にありました。1962年や1968年の写真でも確認できます。

東京オリンピック時代の都電と街角

下宮比町(写真)消防訓練 昭和41年頃 ID 12317-18

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12318 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

 正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
 また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
 道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。

住宅地図 昭和42年

 中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
 ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
 ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅きざくらとカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
 1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
 はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
 目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
 停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
 空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。

目白通り(写真)昭和54年 ID 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111は昭和54年3月、飯田橋駅を背中にして五叉路を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋「ゆずり合いモデル交差点/ひとり◯◯◯◯◯◯◯に」「目白通り/新宿区下宮比町」があり、それと同じ方向で、1台の自動車が左から右に走る道路は「外堀通り」です。たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。またその奥には高速道路とそれを支える橋脚があります。高速道路の下は神田川で、昔は江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。

花埋み|渡辺淳一氏

文学と神楽坂

荻野吟子 (Wikipedia)

 渡辺淳一氏の「はなうずみ」(河出書房新社、昭和45年)です。これは初めての女性医師、荻野おぎの吟子ぎんこの一生を描いたものです。
 なお「花埋み」という言葉は多分ありません。『とみなが屋』では「埋めるという字は、不足しているものを補ったり、平らにする意味。お花と絡めると、埋葬という言葉、死のイメージが浮かびます。華やかな側面だけ見るのではなく、死や老いを含めた生命の美しさ、そして人間の痛みを伴う情景を表現したいので『花埋み』という名前は結果的にすべてを繋げてくれるのだと思っています」
 これは荻野吟子氏が初めての女医を目指して陸軍軍医監の石黒忠悳氏に会う場面です。

 永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、石黒いしぐろ忠悳ただのりであった。この人は幕府の官立医学校であった医学所をえ、その後、新政府ができるとともに医学校(大学東校)に少助教として勤めたことがある。この時、医学校長であった佐藤さとう尚中しようちゆう大博士に仕え、また先の皇漢医道復興運動の折りには岩佐純さが知安ともやすらと結んで反対論のきゅう先鋒せんぽうとなった人物である。
 彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十歳半ばの働きざかりで軍医監としてひょうしょうにいたが、同時に大学医学部そう心得として週に二日ほど文部省に出向していたのである。
 女の身でいかめしい官庁へ出かけるのはさすがの吟子もためらわれた。しかも場所は軍人の出入りする兵部省である。吟子は石黒の私邸を尋ねることにした。一度むだ足を踏んで、二度目に牛込うしごめあげちょうの石黒邸でどうやら会える機会を得た。
 石黒は顎骨あごぼねの張った、いかつい感じの男だった。彼は吟子の持っていった永井久一郎からの添書を読むと「うん」と一度、大きくうなずいた。
「成程、君が荻野吟子君か」
 維新を生きぬいてきた男らしく、石黒の声は周りに響くほど大きい。
「お初にお目にかかります」
 吟子はこの無骨な感じの男にすっかり緊張していた。女子師範で接した教授達とはいささか勝手が違う。
「君の意見には儂も賛成だ。婦人は総じて内気なもので、ことさら婦人病等をあらわに診察されることをじらってきらうものだ。きちんと診なければ分るものも分らない。これには儂も往生した経験がある。これらに対して女医が処することは大いに有益である。医学で女では学ばれぬという程の学科もないから、女がなってもおかしくはない」
 今更、何故なぜやりたいか、などと決りきった質問はしない。さすが実際に西洋医学を学んできた人だけに分りがいい、と吟子はほっとした。
「ところで、何処どこの学校をお望みかな」
「私のような者でも、いれて下さるところがあれば、選り好みは致しません」
「とにかく君も知っているように、今は何処も女人禁制だ。すぐと言われても困るが、どこか探してみよう」
「ありそうでしょうか」
「分らん。分らんからこれから探すのだ」
 石黒は掛け値のない男である。言われてみれば当り前のことであった。吟子は恐縮して石黒のもとを辞した。
 吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは、その一週間後の三月の初めである。早速出向くと石黒は例の大声で、
「いろいろ当ってみたが女学生は断わると言うて応じてれぬ」
「…………」
「ただ一つ、下谷の好寿院だけが、引き受けようと言うて呉れた」
「本当ですか」
 吟子は椅子いすから立ち上った。
すわって聞いても話は同じじゃ、坐りたまえ」
 吟子はあわてて坐った。
「風紀のことをはじめ、女ではいろいろと不便なことがある故、初めは駄目だと言いおったが、儂の懇請なら仕方がないとついには降参しおった」
「ありがとうございます」
 自慢しても石黒の場合はいやみに聞えない。
「院長の高階たかしな経徳君は私もよく知っているなかなか優秀な男だ。ちょっとこうるさいがな」
 いよいよ医者へ一歩近づいたのだ。吟子はめくるめく思いで石黒を見上げた。
「二、三日中に行ってみると良い」
「早速伺わせていただきます」吟子は深々と頭を下げた。
 皮肉なことに吟子は、皇漢医道復興問題で相対した井上頼圀、石黒忠悳という二人の人物の知遇を得たことになったのである。
 好寿院へ入ると決って吟子は再び頼圀の許を訪れた。好寿院の高階院長が宮内省侍医を兼ね、頼圀が宮内省御用掛であった以上、吟子の入学が頼圀に知れることは時間の問題であった。だが吟子が訪れたのは単なる挨拶あいさつと報告だけからの理由ではない。それよりも頼圀の近況を探るのが吟子にとっては大きな目的であった。
「そうか、西洋医になられるか」
 吟子の医学への志を初めて聞かされた頼圀は、沈痛な表情で腕を組んだ。漢方医ならともかく、西洋医では頼圀の手の及ぶところではない。といって西洋医になるのを断念させる理由もなかった。たしかに西洋医は時流にかなっている。その辺りのことは皇漢医である頼圀にも見通せた。
「長いのう」
「はあ?」
「いや、これからがじゃ」

永井久一郎 ながい きゅういちろう。漢詩人。米国留学後、工部省、文部省、衛生局第3部長、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事、帝国大学書記官をつとめ、のちに日本郵船の上海・横浜支店長。永井荷風の父。生年は1852年9月15日(嘉永5年8月2日)。没年は大正2年1月2日。
石黒直悳 いしぐろただのり。医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
大学東校 明治初期の官立の医学教育機関。明治政府は、1869年(明治2)旧幕府の昌平学校、開成学校、医学校を統合して大学校とした。同年末(旧暦明治2年12月)大学校が、大学と改称され、医学校を大学東校、開成学校を大学南校と称し、東校はドイツ人教師の指導の下で、プロシア軍医学校を模した教育改革が行われ、1874年東京医学校、1877年東京大学医学部、1886年帝国大学医科大学となった。
少助教 明治時代に政府が設置した大学の教官の職階。大博士の下に中博士・少博士、大助教・中助教・少助教の官職があった。
佐藤尚中 さとうしょうちゅう。たかなか。幕末明治の蘭方医。外科医。大学東校(東京大学医学部の前身)初代校長。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年は1827年5月3日(文政10年4月8日)。没年は明治15年7月23日。
皇漢医道復興運動 明治初期に起こった運動。漢方から発達した日本古来の医道を復興し西洋医学を排斥する活動。
岩佐純 いわさじゅん。明治時代の医学者。福井藩主の執匙侍医。医学校創立取調御用掛。医学教育制度の範をドイツにとることを力説、実現した。生年は天保7年5月1日。1836年6月14日。没年は明治45年1月5日。
相良知安 さがらともやす。幕末明治の医師。佐賀藩主鍋島閑叟の侍医。第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)校長。明治2年医学校取調御用掛。ドイツ医学の採用につとめる。生年は天保7年2月16日。没年は明治39年6月10日
荻野吟子 おぎのぎんこ。明治18年(1885年)、初めての医術開業試験に合格した女性医師。医籍に登録し、本郷に荻野医院を開業。またキリスト教婦人矯風会に参加、明治23年、牧師の志方之善と結婚し、27年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、41年東京でも医院を開いた。生年は1851年4月4日(嘉永4年3月3日)。没年は大正2年6月23日。
三十歳半ば 満34歳でした。
兵部省 ひょうぶしょう。明治2年、六省のひとつ。他は民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、外務省。明治5年に陸軍省と海軍省に分離したので、ここでは兵部省ではなく陸軍省が正しいでしょう。
大学医学部綜理心得 現在の東京大学総長特任補佐に当たるのでしょうか。石黒直悳は明治14年7年6日から明治19年1年16日まで綜理心得。
石黒の私邸 牛込区揚場町だと言いますが、そうでしょうか。

1912年、地籍台帳・地籍地図

 吉岡弥生『吉岡弥生伝』(日本図書センター、1998年)は「明治12年10月、荻野さんは、ほかならぬ石黒子爵の紹介だからというので、この好寿医院に入学を許されました」。したがってこの2人があったというエピソードが起こったのは明治12年10月以前です。一方、石黒直悳『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年)の年譜では「明治6年 29歳。1等軍医正となり、牛込へ転居」「明治13年 36歳。牛込揚場町に家を購い、ここが終生の住居となる」。終生の住居(=揚場町)を決めたのは、明治13年です。つまり、牛込区に住んでいましたが、揚場町かどうかは不明なのです。
顎骨の張った、いかつい感じの男 写真では……

石黒直悳

女子師範 正しくは「東京女子師範学校」。小学校・国民学校の女子教員を養成した旧制国公立学校。明治8年、荻野吟子氏は女子師範(現在のお茶の水女子大学)に第1期生として入学し、12年に卒業。現在、東京医科歯科大学に。
好寿院 こうじゅいん。明治12年、下谷区練塀町(現在のJR秋葉原駅の北側地域)に開設。明治16年、おそらく閉院。
高階経徳 たかしな つねのり。孝明天皇と明治天皇の侍医。「西洋医学御採用方」を著す。晩年は私塾「好寿院」を開いて医師育成に務める。生年は天保5年8月9日(1834年9月11日)。没年は明治22年3月23日。高階氏の方が石黒直悳氏よりも12歳も年寄りです。
井上頼圀 いのうえ よりくに。国学者。文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた。國學院,学習院教授。皇漢医道御用掛。生年は天保10年2月18日(1839年4月1日)。没年は大正3年7月4日。
宮内省御用掛 宮内省の役所の命を受けて用務をつかさどった職。元官僚や大学教授など有識者から構成された。
漢方医 もともと日本で行われていた医学を漢方医学。対して江戸時代に日本に入ってきた西洋医学を蘭方医学と呼ぶ。
皇漢医 皇漢こうかんとは日本と中国の意で、中国から伝来し日本で発達した医学、すなわち漢方医学をさす。

飯田橋付近(写真)地理風俗大系 昭和12年

文学と神楽坂

 誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。

飯田橋駅附近

飯田橋附近
飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。

四流八達 しつうはったつ。道路が四方八方に通じ、とても便利な交通。往来が多く、にぎやかな場所。

昭和16年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、ふなわらばしを超えて外濠そとぼり(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
 また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
 小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
 左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。

 また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には江戸時代の大下水ではなく、明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。

洋泉社MOOKの「東京ぶらり暗渠探検」(洋泉社、2010年)

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12083、85-90、94−95、98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12083、85-90、94−95、98の10件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区です。

住宅地図 昭和55年

(1)左から「ネクタイ」「(レ)ンタル」。突出し看板「珈琲専門店 珈琲館 飯田橋店」、ファサード看板「珈琲館」、ウインドーサインの1枚は「営業中」、「売店コーナー ◯◯式◯◯◯ 売店コーナー」、スタンド看板の「珈琲館」。山商ビル。袖看板「中華料理 新三陽」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12083 目白通り 飯田橋駅付近

(2)下から上を見ています。前から「美(穂美容室) TEL」サインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り 小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」、ファサード看板も同じ。次の商店は「会話 外人教授 TEL 262 5817」「遠心技研 株式会社」「FLセンター 英仏会話 4階 外人教授」。テントの「カメラのミハル」「カメラのミハル シャンス」。「KODAK film ミハル商会」「スポーツ用品 シャンス」。次の商店は「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋品 紳士物専門店 高橋洋◯」。次は「社」「なかの」「(Coc)aC(ola) や」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12085 目白通り 飯田橋駅付近

(3)おそらくカメラを(2)から下向きに変えただけでしょう。前からサインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り小屋 庄や 飯田橋東(口)」、提灯「庄や」、サントリー、サントリービール、ダンボールの「ヘ」と「イ」「タマネギ」「ホクレン じやが」、スタンド看板の「清酒 ビール 田舎料理 磯料理 山筍珍味 やき鳥 各種揚物 なべ物 どぞう 庄や」。次の商店は「英仏会話 4階 外人教授」、テントの「カメラのミハル」「Kadak 写真の楽しさを売る ミハル商店」。公衆電話。「カラー 本日出来ます」。「シャンス」ではスキーも販売中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12086 目白通り 飯田橋駅付近

(4)右の道路側では「FLセンター 英仏会話 4階 TEL 262 5817」、ゴミ置き場にポリペールとダンボール「フリーア(ル)バム」「▲キ◯」(キュウリかキャベツ)、「FIRE HYDRANT 消火栓」と消火栓広告「ハツヤ 初谷歯科 この先イワタビル 4F TEL 262-8206」、「◯◯◯科」。
 左の商店側では「小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」。サインポールと「いらっしゃいませ 只今営業中 美穂美容室」。Coca Colaの自動販売機。テントの店舗。「日刊工業新(聞)」「朝日新聞」「(日)刊スポーツ」。「KM 国際ハイヤー (飯)田橋 (営)業所 64 931」。「駒忠」。屋上に「用字便覧 小◯◯◯」。「自衛官募集中」。屋上に「◯ビル」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12087 目白通り 飯田橋駅付近

(5)左側では電柱看板「眼科保健取扱い 診療所 入口 ◯り二つ十字路先左側」「質 上値サービス 新宿区白銀町 神楽坂 フク◯」「日本労働党 政策演説会」「武見会長にもの申す 患者にも言わせてほしい 『医者にも言わせてほしい』に反論する。生天目昭一著 ¥880 泉文社」。右側の商店のテントでは「道しるべ」、スタンド看板の「Coca Cola 道しるべ coffee & snack」、窓におそらく「募集中」。 地下鉄入り口の付近では (最高速度30キロ)(区間内)(駐車禁止)(区間内)。入り口では「SUBWAY 地下鉄」「飯田橋駅」「飯田橋駅 東西線 有楽町線」。国鉄の飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」「東海銀行」「セントラル ファイナンス」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12087 目白通り 飯田橋駅付近

(6)左から「琴古流尺八教授」。(指定方向外進行禁止)8−20。寿司正 準備中。突出し看板「きし」「めん」「尾張屋」、ファサード看板「 張屋」、のれん「尾張 きしめん」、はり紙「あ◯ と◯」「きしめん なべやき」、プラスチック製品の「準備中」、食品サンプル。隣の商店は「公衆電話」「たばこ」「新宿 中村屋」。消火栓。「新宿 中村屋」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12089 目白通り 飯田橋駅付近

(7)中央に飯田橋駅、高架橋、ガード下があり、左側から飯田橋交差点(五叉路、市ヶ谷と水道橋)の交通標識、交通信号機、 (交通標識 指定方向外進行禁止)、交通信号機、(自転車及び歩行者専用)が2個、交通信号機、(指定方向外進行禁止)、交通信号機、「中央線 飯田橋駅 JNR」、「大型最徐行 制限高4.0M」、交通信号機、(左・指定方向外進行禁止)、電話ボックス。国鉄飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12090 目白通り 飯田橋駅付近

(8)右側からはり紙「紳士靴 主催 革◯」「靴の◯◯ 本日より 安い!」「◯◯◯◯◯◯◯◯ 本日より 安い!」。突出し看板の「マスミゴルフ」「コピー 飯田橋」「昭德工業」、スタンド看板「Canon NP コピーサービス」「ゴルフ マスミゴルフ」。テントの上に「フルーツパーラー」。突出し看板「◯ーンヒル 販売(株)」「高級 果実 罐詰 タキン果実店」。突出し看板「きそば」「新宿 中村屋」「めん・尾張屋」「寿司正」「(甲)玉堂」「田」「中華料理 新三陽」「珈琲館」。
 道路側には交通信号機(横型灯器)、交通信号機(歩行者灯器)、電柱看板の「質 中◯」、「SU(B)WAY 地下鉄」。
 左側は「朝日新聞」「国際ハイヤー」「みど◯」「イワタビル」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12094 目白通り 飯田橋駅付近

(9)左側は「信販 飯田橋」「こう書房」、「飯田ビル」、「鉄(か銭)道不動産」「◯和商事」。(横断歩道)と(指定方向外進行禁止)が見えますが、あとは小さくて読めません。
 中央に地下鉄出入口と(指定方向外進行禁止)8−20。交通信号機(横型灯器)。(指定方向外進行禁止)8−20。(自転車及び歩行者専用)。「千代田区」も右に見えます。最後に交通信号機(横型灯器)。
 中央の商店では「(鯉)のぼり 特別奉仕価格提供中 ◯って売る店 林商店 263 1771」「ナイロン ◯リ印 鯉のぼり 発売中」「五月鯉のぼり たこ 林商店」。「道しるべ」「なかや食堂」「Coca Cola なかや食堂」「なかや食堂」「め◯ 店」「電話会話」「現代の理論社」「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋服 洋品 紳士物専門店」「KODAK film ミハル商会」「シャン(ス)」「スキー用品大バーゲン」「英仏会話」「遠心技研」「朝日新聞」「国際ハイヤー」「イワタ」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12095 目白通り 飯田橋駅付近

(10)ガード下の「飯田橋駅 IIDABASHI STATION」。アーチ状の駅入り口の下に「レストラン」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12098 飯田橋駅ガード下 駅案内板

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12074, 76-82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12074、76-82の8件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区で、地図では見えませんが、北西方面に行くと飯田橋駅東口が出てきます。

住宅地図。昭和55年

(1)左側から電柱広告の「飯田橋診療」、歩行者用信号機、3階以上のビルの入口の名前は不明、2階建ての商店には突出し看板「カルピス」「味の玉川」「杉山商店」「Coka Cola」、次の2階の家のシャッターは閉鎖中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12074 目白通り飯田橋付近

(2)左側から飯田橋書店、路地があり、奥に進むと「陣太鼓/名物そば・うどん」「営業中 安い」「名物」。突出し看板は「揚げ立て天ぷら 蕎麦・うどん 陣太鼓」、壁面看板の「スタンド そば・うどん 納豆みそ汁 とにかく安い! うまい! 早い! 揚げ立て天ぷら 陣太鼓」、正面は「揚げ立て天ぷらいろいろご座います」「天丼 コロッケ」「名物そば・うどん コロッケ」木に立てかけた「名物/天◯」。3軒目の二階は「東洋美術創作画廊」とクーラー、一階は「さぬき名物 手打うどん 三◯」「手打/うどん/三代」。突出し看板がありますが、中身は不明、一方、(直進以外進行禁止)は見えます。4番目の店は桶らしいものがあり、壁一面にガラスが張られ、商店の名前はやはり不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12076 目白通り飯田橋付近

(3)前から「◯ン洋菓子店」「初谷歯科/AM 9:30-PM1:00/PM 2:00-PM8:00/休日 日曜 木曜 祝祭日/土曜 午前中/健康保険取扱/時間予約制/TEL 262-8206」「BRO」「サッポロビール/若鳥料理/魚貝山菜珍味/酒蔵/駒忠」「自衛隊採用中/飯田橋募集案内」。トラックが走る道路と駐車場があり、次は「国際ハイヤー」「庄や」「英仏会話」「日動火災」「サラリ/ローン」。さらに国鉄の飯田橋駅(2階にホーム)を越えると、遠くに第一勧銀と東海銀行が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12077 目白通り飯田橋付近

(4)駒忠です。上から「階上 カウンター お座席 若鳥料理 魚貝山菜 珍味もの 灘の清酒 菊川 若(鳥料理) 魚貝山菜 処」「御奉仕一途 若鳥料理 魚貝山菜 珍味 お茶づけ おにぎり めし物 駒忠」「呼小と/心◯し/家◯ ◯笑/星の間」「大小御宴会 承ります」。道路には「自(衛隊)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12078 目白通り飯田橋付近 駒忠

(5)左側から「◯ビル」。「キリン生ビール」「やき鳥 割烹 宴会 ◯亭 清酒 大信州」「吉野家 牛丼 大小 肉皿 大小」「米乃油ビル」。空間(ガソリンスタンド)。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12079 目白通り飯田橋付近

(6)左側から「米乃油ビル」「P←」(駐車場)、ガソリンスタンド、大きな道路に接して「飯田橋スナック」「(Fa)ntaスナック」、2店の看板、「アサヒビール ◯山 瓢箪」「P」。電柱看板は「つけ麺 大王」「おにぎり パン 牛乳」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12080 目白通り飯田橋付近

(7)左側には「届け用紙」「甲玉堂」「尺八」「澤之鶴 寿司正」「きしめん」交通標識「首都高速 飯田橋 北池袋 高島平 この先 150m」「中村屋」。離れて地下鉄。飯田橋交差点(五叉路)の交通標識。中央に「飯田橋駅」。右側には電柱広告「◯部歯科 895」「質 上値 サービス フクヤ」、店舗は「朝日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」スタンド看板の「CocaCola」「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店」「会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ用品 シャンプ」「KODAK film ミハル商会」(ミハルビル)「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「(セント)ラル ナン」。中央奥に「第一勧銀」「週刊現(代)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12081 目白通り飯田橋付近

参考。昭和45年。住宅地図。

(8)前から「(朝)日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」。スタンド看板の「CocaCola」。サインポール。「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店 263-5300」「英仏会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ シャンプ」「KODAK film」「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「セントラル ファイナン(ス)」。中央に「飯田橋駅」。中央奥に「東(海)銀行」「ハート(第一勧銀のロゴ)」「週刊(現代)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12082 目白通り飯田橋付近

神楽河岸(写真)加藤嶺夫氏 昭和46年

文学と神楽坂

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)から。加藤氏は1929年(昭和4年)東京都文京区に生まれて、出版社勤務のかたわら東京を散策し、新聞紙上にルポルタージュを執筆しました。2004年に他界。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 これと昭和46年と50年の地図を比較します。なお、目にみえるゴミは別項で。

全住宅案内地図帳(新宿区版)公共施設地図 1971年

S50(1975-01-19)揚場町-筑土八幡町(地理院地図)

  1. セントラルコーポラス(地上6階)
  2. 野崎栄義商店飯田橋寮
  3. 厚和寮(厚生年金病院職員寮)
  4. 津久戸小学校? または熊谷組本社ビル工事(津久戸町、昭和49年完成)
  5. 日本製乳株式会社
  6. 升本総本店
  7. 升本 倉庫
  8. 日本製乳株式会社 事務所
  9. 升本 事務所
  10. 升本 倉庫
  11. (不明)
  12. 京英自動車
  13. 土萬商店
  14. 土萬商店

 地元の人は……

1) 厚和寮の右、切妻屋根の上に見えているのが津久戸小の外壁と屋上フェンスでしょう。
2) 黒っぽいものは津久戸小より奥にあり、私には建築中のクレーンのように見えます。
3) 校倉づくりのような横縞は確かに厚和寮の一部ですね。そこに津久戸小の屋上構造物が重なって見えているようです。
(イ)厚和寮・手前側
(ロ)厚和寮・奥側(校倉づくりのような横縞)
(ハ)切妻屋根(升本)
(ニ)川島ガラス?
(ホ)津久戸小(右側が最高部)
(ヘ)建築中の熊谷組本社

厚和寮 奥の建物

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12019, 22

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019と12020は昭和54年2月、目白通り周辺を撮影したものです。撮影位置は地下鉄東西線飯田橋駅の出口を地上に出た千代田区です。ID 12019の右端に、下駄履き住宅(現「飯田橋サンポーロハイツ」)が写っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019 目白通り沿い飯田橋駅付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12022 目白通り沿い飯田橋駅付近

 目白通りの九段下方面を狙っていて、ID 12019では「山京ビル」が見えます。その奥、かすんでいる高い建物はホテルグランドパレスです。1972年開業、2021年6月営業終了、2023年現在は解体されています。
 山京ビルの手前は、片側3車線の広い道に面していながら2-3階の低い建物が目立ちます。現在は、多くが10階建てくらいのビルになっています。
 「山京ビル」は千代田区飯田橋1丁目7−9です。また、坂田一真堂は飯田橋3丁目4−3です。

千代田区飯田橋(昭和54年頃)
  1. (H)OT COFFEE/BRESSON/海外・国内旅行 新日本トラベル株式会社 春休は海外 ハワイ
  2. トヨタレンタ 案内所
  3. 北の春 おゝむら 酒亭
  4. (坂)田一真堂 ウイン
  5. 潮出版社
  1. 産図有料駐車場
  2. (自転車及び歩行者専用)(区間内)
  3. (左・指定方向外進行禁止)
  1. そば・天ぷら
  2. 山京ビル

飯田橋駅(写真)西口 ID 8267, 8269, 8270, 8286 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267と8269と8270と8286は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅西口周辺を撮影したものです。
 牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっています。ID 8269と8270の歩行者はコートやマフラー姿が目立ち、冬から早春にかけての時期と思われます。ID 8267と8286では建物の窓が何カ所も明いていて、小春日和だったかもれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8286 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

 ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課
1 立喰そば? 2 二鶴?
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8269 飯田橋、飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8270 飯田橋、飯田橋駅

 ID 8269と8270は飯田橋駅西口前から神楽坂下に向け、早稲田通りの牛込橋などを撮ったものです。牛込橋は戦前に架けられたコンクリート橋で、路面は石畳でした。
 街灯は2種類あります。中央やや左の逆円錐形は千代田区のものでしょう。そのすぐ左は新宿区で、神楽坂と同じ大きな円盤形の街灯が2本あり「神楽坂通り」の表示もあります。右側は円盤型カバーが外れているようです。
 千代田区と新宿区の境界付近の電柱には街灯放送用の拡声器がついていて、「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 早稲田通り沿いの警視庁の建物は、牛込橋の土橋の崖下に建っています。建物の右奥には銀鈴会館の屋上広告、さらに揚場町のセントラルコーポラスが見えます。

全住宅案内地図帳 昭和44年 共施設地図株式会社

箪笥町(写真)明治神宮遷宮祭、昭和33年 ID 5367

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367は昭和33年(1958)、明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレードを撮影したものです。場所は箪笥町です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367 明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレード(北町現大久保通り)

 これはID 6338やID 6340と同一の明治神宮遷宮祭のパレードでしょうか。ID 5367は雨で路面が濡れている点が大きく違います。
「データベース 写真で見る新宿」は、同じ「明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり」の写真を複数、公開しています。その中には「少女鼓笛隊」が晴天でパレードしているものもあります。(ID 70667069) 一方、花自動車パレードは写っていません。
 ウィキペディアによれば「10月31日夜、遷座の儀が行われ~14日まで都内各所で奉祝行事が行われた」とあり、このパレードはID 6338などと別の日だったかも知れません。
 遠くに東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)が見えます。屋上の丸い建物は展望室です。
 2〜3メートル先に、急に道路は下向きの坂になります。これは弁天坂です。
 パレードは神楽坂(現在は神楽坂上)交差点から大久保通りを通り、北町方向に向っています。ここでの先頭自動車はオープンカーでしたが、雨のため屋根をつけています。次の自動車は雨に降られても大丈夫、大きなアヒルの着ぐるみをきています。
 電柱は木製もコンクリート製もありそうで、左側は右側と比べて一般的には背は高く、柱上変圧器があります。横断幕は「安全速度」。路面電車の軌道があり、架線も多くなっています。右の建物などは……

  1. 看板「ベニヤ板・木曽檜・秋田杉・一般材・梚立請負/株式会社 大崎材木店販売所」
  2. トラック「株式会社 大崎材木店」
  3. 電柱広告「牛込犬猫病院」
  4. 看板「葬祭◯◯具一式御用達 ◯◯商店」「葬儀と花(輪)」

 昭和39年の住宅地図があります。大崎材木店はその時でも営業中です。現在は3階建ての「大崎ビル」になり、1階は「メゾンカイザー」です。
 葬祭店(地図の「大川」)は大川商店で、その後「神楽坂斎場」になりましたが2020年ごろ解体されました。

1964年 住宅地図

Google地図 現在(2023年4月)


南蔵院(写真)昭和44年頃か ID 14135-42

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14135からID 14142までの8枚は新宿区箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院を撮ったものです。これは「箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294」として出た写真と似ていて、同じく冬期の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14136 南蔵院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14137 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14138 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14139 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14140 南蔵院 狛犬

 2023年現在の現在の南蔵院は下の写真のように左の本堂と右の大聖歓喜天堂が並んでいます。昭和44年には本堂はありませんでした。
 本堂や墓苑が奥まっていますが、手前の部分は大久保通りの拡幅で道路になる予定です。

南蔵院

 現在の南蔵院です。左の本堂と右の大聖歓喜天堂です。 本堂は昭和44年以降にできました。

本堂

 大聖歓喜天堂は昭和44年にあったものと全く同じです。歓喜天の梵名ぼんめいはナンデイケーシユヴァラといい、仏教の守護神でした。

大聖歓喜天堂

 狛犬は右と左で口の形が違っています。右の狛犬は口を開いての音声を、左の狛犬は口を閉じてうんの音声を出しています、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴します。
 大聖歓喜天堂の右、墓苑に向かう道には小屋があり、物置のように使われています。なお、手水鉢は神社の施設で、ここにはありません。

新宿生活館(写真)ID 13228~30 昭和47〜55年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228~13230は、新宿生活館を撮ったものです。撮影時期は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13229 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13230 箪笥町 新宿生活館

 中央に見える建物は新宿生活館です。半地下だと考えるなら3階と屋上で、半地下でないとすると4階と屋上です。その手前に武田製作所と読めない「商会」。奥には日東書院があります。
 新宿区史年表では、昭和62(1987)年4月、新宿生活館を「新宿老人福祉センター」と改称しています。建物は同じですが「生活館」として記録されているので、この3枚は昭和62年より昔の写真です。
 住宅地図について、図書館では昭和50年から昭和59年まできちんと1年ごとにありますが、私のコピーは昭和50年、55年、57年の3年間だけです。昭和50年では新宿生活館のすぐ右に「幸家スポーツ」があります。55年では「喫茶 麻里」、57年には「古明地花代」に変わっています。また武田製作の左に昭和50年で「菊地電気商会」、昭和55年に「菊地電気」、57年に「つるや人形研究所」に変わっています。私は左は「菊地電気商会」、右は「幸家スポーツ」を取りたいと思います。したがって昭和55年以前です。

 「幸家スポーツ」は昭和49年には同じですが、昭和47年には「富沢」になりました。したがっておそらく昭和47年よりも新しいものだと思います。つまり昭和47年~昭和55年でしょう。

 街灯は2つあります。背の高いものと背の低いものです。前者は自動車に、後者は歩行者用でしょうか。

 

愛日小学校(写真)給食見学 昭和39年 ID 10794

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794は昭和39年、新宿区北町の愛日小学校の給食を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794 愛日小学校 給食見学

 黒板に「六月十九日」とあります。昭和39年6月19日は金曜日でした。父母の参観日の様子でしょう。教室の後ろの母親らは外出着で、就学前の子ども連れやおんぶ紐の姿もあります。暑い日らしくサッシ窓が開いています。
 黒板は低学年らしく平仮名ばかりです。生徒は木製の2人掛けの机で、横にランドセルを掛けています。
 机の数は前後6列、一番右は7列あります。左右は見切れている左側にもう1列ありそうです。4×6+1=25の机に2人ずつで、1学級50人です。
 文部省は50人だった義務教育の学級定員を昭和39年度から45人に引き下げました。ただ教室や教員が不足していて守られないケースもあったようです、
 給食は角形トレーに厚めの食パン。2枚もらっている男の子もいます。主菜と副菜の2品を先割れスプーンで食べています。小さめのお椀は脱脂粉乳と思われます。第2次大戦敗戦後の米国からの援助物資として始まり、地域によっては昭和40年代まで続きました。

愛日小学校の歴史では…

期間出来事
明治3年東京府第三校開設(愛日校の前身)
明治13年7月牛込区北町26番地に吉井学校と市ヶ谷学校の二校を合併、愛日校を創立。
昭和20年5月戦災で校舎全焼する。
昭和21年4月愛日国民学校は閉鎖し、児童は市谷、津久戸、牛込仲之小学校に移る。
昭和27年9月東京都新宿区立学校設置条例により、愛日小学校の設置が決まる。
昭和31年12月東京都新宿区北町26番地に、小学校として我が国最初の4階建て鉄筋コンクリート校舎建築に着手する。(第一期工事)
昭和32年3月東京都教育委員会より、東京都新宿区立愛日小学校設置が認可。
昭和32年4月学区域変更により、市谷、津久戸、牛込仲之小学校より、1年から5年まで786名を受け入れ、入学式を市谷小学校で行う。
昭和32年9月新校舎で第2学期始業式を行う。(第一期工事完成)

 昭和29年、学校給食法が制定されました。また農林水産省「ふるさと給食自慢」の献立例では、昭和39年、「揚げパン、ミルク(脱脂粉乳)、おでん」という献立が出ています。


箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294は南蔵院を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294 南蔵院

 石の門柱に小さく「南蔵院」の表札があります。その右に「大聖歓喜天」の石標、よく見ると左側にも同じくらいの高さの石標があります。現在は新しい門柱に代わっていますが、両脇の石標は残っています。
 本堂がやや奥まって建っているのは大久保通りの拡幅計画に備えたものです。本道の後ろのコンクリートの建物は前田建設牛込北町寮で、2016年頃までありました。
 歩道と車道との間には段差があります。昭和35年(1960年)のID 565とは違うのはガードレールができたことです。右側の電柱にはパチンコ「おおとり」と「旅荘駒」の広告があります。
 前の大久保通りには都電13系統の石畳の軌条があります。その脇の車道は、良く見るとピンコロ石で舗装してあります。この部分は「弁天坂」と呼ばれる坂なので、滑りにくくしたものでしょう。
 大久保通りの都電は昭和45年(1970)に廃止されました。
 南蔵院は真言宗豊山派の寺院で、長く読むと、天谷山竜福寺南蔵院です。住所は新宿区箪笥町42番地でした。元和元年(1615年)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天2体を上宮・下宮として祀っていましたが、御用地となり、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転し、南蔵院と改号しました。なお、もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られています。

新宿生活館(写真)昭和35〜38年 ID 5736

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736は大久保通りと新宿生活館などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736 箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

 撮影の年は不明ですが、いくつかの手がかりから推理します。
 大久保通りの中央には、石敷の都電13系統の軌条があります。13系統は昭和45年(1970)3月に廃止されます。
 左側の道路標識に「NO PARKING」などの英語表示があります。現在の文字のない標識は昭和39年(1969)の東京オリンピックを機に採用され、順次、変更が進みました。
 大久保通りの先に、昭和28年(1953)竣工の東京厚生年金病院の丸い塔屋がかすんで見えます。しかし、その右側に文英堂ビル(岩戸町)が見えません。大きな「B」の時が印象的な文英堂の旧東京支社ビルの竣工は昭和39年(1964)で、地下に郵便局が入っていました
 左手前の商店の並びは昭和35年(1960)の住宅地図とよく合致しています。また『新宿区15年のあゆみ』(昭和37年刊)の牛込生活館の写真は前面の歩道に街灯がなく、ID 5736はそれより新しい写真でしょう。昭和35〜38年頃ではないかと思います。
 写真中央のコンクリート3階建ての牛込生活館は旧・牛込区役所です。関東大震災の被災後、昭和3年に再建しました。第2次大戦でも焼け残り、昭和22年(1947)に新宿区が発足したときには区役所になりました。昭和25年(1950)年1月に区役所が歌舞伎町に移転し特別出張所に降格。さらに昭和26年5月に、東京都の「新宿生活館」として開館しました。新宿区史によれば新宿生活館は昭和40年(1965)4月に東京都から新宿区に移管されました。移管を前に撮影したのかもしれません。
 旧・四谷区役所もほぼ同時期に「文化会館」に改められました。廃止になった区役所を活用したものと思われます。
 ここの牛込生活館は戦前の区役所の1~2階部分に手を加えているようです。また3階のアーチ窓の高さに、戦前は時計のようなものが突き出していました。また、看板になっていて、無理をすれば「新宿生活館」と読めそうです。
 大久保通りの電柱は少なくても3種類あります。1番目は背が最も高い電柱でコンクリート製で配電線や柱上変圧器があります。2番目は木製で擬宝珠のような飾りがあり、これは路面電車の架線柱のようです。3番目は低く、おそらく鉄製です。左右の腕木の植えにボンボリ型2個の街灯があり、道路照明を兼ねていたようです。
 車道は舗装してあり、歩道との段差はありません。この様子は昭和20年代後半のID 9492や昭和35年(1960年)のID 565と似ています。通行人はコート姿で、街灯にはセールのような飾りがあります。年末の風景かもしれません。
 特記すべきは、複数の民家に汲み取りトイレ用の「臭突しゅうとつ」(煙突形の装置で悪臭を外に出す)があることです。この付近は戦災を免れており、戦前の建物が残っていた可能性もあります。

箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

箪笥町(昭和30年代)
  1. 街灯。駐車禁止の標識。
  2. (贈)答器・記念〇・一般家庭用品/◯漆器産地直売/漆工芸有限(会)社東京出張所都新宿区箪笥町2(2)番地/福島県会津郡
  3. 綜合保健剤/ビタホルン/〇〇元 亀井薬品株式会社
  4. 電柱広告「質は加藤質店」
  5. 宝◯ ネオンサイン(地図では「天ぷら宝来」)
  6. ショーケースのある店(地図では「堀田肉店」)
  7. 牛込◯◯(牛込印刷 路地をはさんで両側)
  8. 電柱広告「横井小児科」「松永質店」
  9. 文秀堂(電柱広告)三菱マーク(三菱鉛筆?)
  10. 店舗(地図では「東京新聞専売所」)
  11. つるや(電柱広告)(地図では「つるや人形研究所」)電柱広告「横井小児科」
  12. 新宿生活館
  13. (東)亜自動車
  1. 安くてきれいな/元祖 貸衣装/オーサトヤ/大里屋
  2. 山本貸衣装

住宅地図。昭和35年 人文社

住宅地図。昭和39年(1964年)箪笥町付近

住宅地図。昭和40年(1965年)箪笥町付近

牛込柳町(写真)昭和51年 ID 441

文学と神楽坂

全く場所はわかりませんでした。これは地元の方からです。

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441は、昭和51年(1976)6月、牛込柳町(市谷柳町)交差点付近の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441市谷柳町、箪笥町方向

 写真説明では「市谷柳町、箪笥町方向」とあり、交差点から東側の大久保通りの坂(焼餅坂)の上がりはじめであるようです。しかし当時の住宅地図と写っている店名が一致しません。
 一方、反対の西側の坂(若松町方向)の住宅地図には写真の店名があるので、説明の向きを間違えたものでしょう。

住宅地図。2013年7月牛込柳町付近(google)

住宅地図。1978年 牛込柳町付近

 街灯は2種類あるようです。1つ目は円盤形の大型蛍光灯で、首のところで大きく曲がり、その中に無名の名札らしきものがついています。2番目は高い電柱についた道路照明灯です。
 写真左側の白くて高いビルはマンション「シャトレブーケ」(1972年01月築)で、現在もあります。
 また写真中央の「カワ◯◯◯◯」は地図では「カワカミくつ店」で、2013年のストリートビューでは店名が確認できます。
 柳町交差点の地名は「市谷柳町」ですが、「牛込柳町」として親しまれてきました。かつての都電の停留所や、現在の都営地下鉄江大江戸線の駅名も「牛込柳町」です。
 空気が流れにくいスリバチ地形が原因の「排気ガス禍」で昭和45年、全国的に有名になりました。

 この写真は排ガス問題より少し後です。子どもの立つ左側の交通標識は読めませんが、おそらく交差点内に車が止まらないよう促す「ゴー・ストップ規制」でしょう。

牛込柳町(昭和51年)
  1. オリエント ROYAL CHALLENGER(洋服店)
  2. 鈴木商店 鈴木金物店
  3. カワ◯◯◯店(カワカミ靴店)DC
  4. 質 松永 松永◯◯ 松永質店
  5. 電柱。加藤産婦人科。笹川時計◯◯店
  6. 金子◯◯製作所 数軒おいて
  7. 白いマンション(シャトレブーケ)

日本新劇史

文学と神楽坂

 松本克平氏の「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から芸術倶楽部の誕生を見ていきます。新劇では一元論「金銭だけ」ではなく、二元論「研究所」も大事だとして、島村抱月は「芸術座研究所」、改名して「芸術倶楽部」を作りました。

 まず抱月が彼の牙城とたのんだ芸術倶楽部建築のいきさつ、、、、から紹介してゆきたい。
 大正4年10月号創刊の芸術座の機関誌「演劇」には、「芸術座の創立当時からの根本計画だつた芸術座研究所は今回愈々竣成を告げて名称も芸術倶楽部と改め8月20日芸術座全部移転した」という知らせと演劇学校開校の記事を掲げている。これまでの事務所は牛込区西五軒町34番地の貸席清風亭であった。
 すでにたびたび述べたように大正3年7月18日より24日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、50銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年10月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、4年2月4日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町9番地に敷地を改めて、7ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到つたのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい7000円と推定される)。抱月はこの倶楽部を文化人の憩いの場、会合の場にしようと夢みていた以外に、ここでやる研究劇に精魂を注ぎ、俳優の再教育を目ざして、須磨子中心のスターシステムに代るべき新しい俳優を育て上げる学校にしようと考えていたのであった。だが工事の挫折は予算の膨脹を招き、危機はさらに危機を生んで芸術座を窮地へ追い込んでいった。建物が完成した時、いちばん最初に訪れてきたのは恐ろしい債鬼であった。そしてこの債鬼に追い立てられて台湾へ、朝鮮、大連へ、さらに浅草常盤座へと矢つぎばやの活動を余儀なくされたのであった(中村吉蔵筆「芸術座の幕の閉るまで」より)。自分の小劇場を完成しながらそこで念願の研究劇をやる時間と経済の余裕を芸術座は当分の間持てなかったのである。
牙城 がじょう。「牙」は大将の旗。城内で大将のいる所。城の本丸。根拠地。ねじろ。
西五軒町34番地の貸席清風亭 西五軒町の北部は目白通り、首都高速と神田川に、東は新宿区東五軒町に、南は赤城元町に、西は水道町と築地町に接する。清風亭は北にあった。地図は

東京市及接続郡部地籍地図 https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

肴町停留場 現在は「牛込神楽坂駅前停留所」
9番地 9番地のほかに、8番地や10番地があります。詳細は別項で。
文化人の憩いの場 これはフランス語の客間(サロン)を意味するもので、貴族やブルジョアが日を定めて客間を開放し、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場。
債鬼 さいき。借金や掛金をきびしく取り立てに来る人。借金とり。
浅草常盤座 ときわざ。明治17年、浅草公園六区で初の劇場として始まる。歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を興行し、映画を上映した。ほかに大正6年「浅草オペラ」の発祥の場、昭和23年には「浅草ストリップ」の発祥の場である。1991年、閉鎖。
矢つぎばや 物事を続けざまに手ばやくすること。

 まことに超人的な巡業ぶりであった。
 まず大正4年早々信州をふり出しに、九州博多、長崎、鹿児島の旅に出た。その間工事は進められていた。8月20日、事務所移転の時ちょっと帰京して、8月24日には早くも出発、秋田、山形を巡り、そのまま北海道へ渡り函館、小樽、札幌、旭川を打って9月末一旦帰京、その月のうちに台湾へ渡っている。左に芸術座記録よりその長期興行を略記する。(略)
 まことに凄じい巡業である。留守中の工事は相馬御風、中村星湖、片上伸、石橋湛山、尾後家省一の諸氏が協力、学校と雑誌の方は中村吉蔵、田中介二が協力して意外に早く竣成開校の運びとなったのであった(上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件は、九州巡業中のことであることはすでに述べた)。
 新劇の堕落、新派以下の新劇と小山内たちから罵倒されながら、抱月は建築費のためにこうして苦闘していたのであった。
 泥まみれのこの頃の抱月について水守亀之助は「読むことも書くことも止めてしまつたといふ荒廃時代」と言っている(『わが文壇紀行』より)。抱月には寸暇もなかったのである。後世に金玉の文字を残すことを念願としている個人芸術家の眼には、集団のために自分を拠げ出している演劇人の自己犠牲は、荒廃としか映じなかったのである。そしてただ「実行の人」として、その文才を惜しまれただけで、その行動の底に燃えていた夢と理想は演劇人にも文壇人にも理解されなかったのである。作家と演劇人の世界の隔り、批評と行動の溝は、全然食い違っていたのであった。この乖離は昭和の現在にまで尾をひいている。

上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件 「日本新劇史」によれば…
 当時九州を巡業していた上山草人は鹿児島で須磨子の『復活』大当りの評判をきいたのであった。そして土地の記者団や興行師から懇望され、ついに千秋楽の夜は一夜稽古の「そのカチューシャを演出しなければならなかった」と言っている。以後、草人は朝鮮、支那、満州、台湾にかけて十六ヵ所で、山川浦路のカチューシャでこの『復活』を売り物にして巡業したのであった。やるに到ったその言いわけがまた振っている。「砂糖入りのロシヤパンが流行るのなら普通のパン屋でも精々甘い所を焼出さなければなるまい」
「これでは芸術座が渡鮮する時の利害に対する影響は頗る重大です」として抱月も鈴木弁護士に依頼して上山草人を相手取って興行権侵害の告訴をおこした。早稲田の師弟はこうして法廷で相見えることになったのである。
 草人は大陸巡業の帰り、四国の宇和島に来てはじめて自分が抱月に訴えられていることを大阪朝日新聞の特派員から知らされた。草人はこの事件を義侠的に引き受げてくれた鈴木弁護士の一団に一任した。その後さまざまな曲折を見せたが、結局、裁判長がものわかりのいい人で、法廷から抱月と草人を会議室に呼び入れ、法服をぬいでから、「貴君方は社会の先覚者でいらっしゃるのだから、こんな感情問題はさらりと水にお流しになったらいいでしょう」(草人著『煉獄』より)と物柔らかに和解を勧めたので至極簡単にけりがついた。つまり示談になったのだった。原作がトルストイで、脚色がアンリ・バタイユで、それを抱月が翻案したのでは著作権、上演権問題は曖昧になってくる。だが作曲の著作権があるので、中山晋平も原告の仲間に加えられ、新聞のはやし立てるなかで、審理がつづけられた結果、唄の著作権だけは侵害の事実が明白となった。晋平はこの事件の結末についてこう書いている。判決言渡しの直前、裁判長が法服をぬぎ捨てて、島村、上山の原被告に面接、「文化人同志の間で余り黒白を明白にすることも望むところではあるまいから、近代劇協会は今後この唄を使わぬということを条件に和解してはどうか」と勧告、両氏とも異議なくこれを諒として、告訴はとり下げられ、新聞は両氏の笑って握手している写真を掲げて社会面を賑わしたと。

小山内 小山内薫、おさないかおる。明治、大正で劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業し、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。松竹撮影所長から、大正13年、土方与志らとともに築地小劇場を設立。生年は明治14年7月26日、没年は昭和3年12月25日。享年は48歳。

 写真は芸術倶楽部の全景。二階正面の三つの窓の上に横に並んだ五つの○の中には、右から芸術倶楽部という浮彫りの字が一つずつはめこまれている。その上の大型の○の中には芸術座のマークである仮面(マスク)の浮彫りがはめこまれている。一階正面中央の窓の左側が事務所と応接室であったという。

芸術倶楽部の全景。松本克平「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から

 二階正面の突き出た窓の処は個室(二室とも三室ともいう)であり、個室の裏側は二階廊下を隔てて二階の客席があったという。二階の個室は脚本の読み合わせや、外部の人々の小集会にも貸したという。空いている時は劇団員の寝泊りにも使っていた。
 一階正面左手の黒い処は玄関であり試演場への入口であった。客席の両脇と後方は廊下であり、通路であった。入口のさらに左の突出た横板の一階建の部屋らしいものは手洗所であり、その奥は台所になっていた。座員は手洗所の外側を廻って台所の脇の内玄関から稽古場その他へ(下手廊下奥)出入りしていた。(次頁は筆者の想像による見取図)

芸術倶楽部

若宮町(写真)令和4年、ID 17060~62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060~17062は、令和4年(2023)3月、若宮町から善国寺方面を望む写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17061 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17062 若宮町から善国寺方面を望む

 この道は「毘沙門横丁」と呼ばれ、ほぼ同じアングルの写真が過去にもあります。左側は料亭「松ヶ枝」のあった場所でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む。平成31年

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

昭和30年代の料亭「松ヶ枝」資料提供:新宿歴史博物館(上村敏彦「東京花街・粋な街」街と暮らし社、2008年)

 松ヶ枝の創業は明治38年。廃業は不明ですが、牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第8号(1996)では

松ヶ枝は、K興業の手に渡りしばらく営業していたが、オーナーの死後、取り壊され、周囲をコンクリートで固めた駐車場となったまま今日に至っている。
K興業 国際興業です。
オーナー 小佐野賢治氏です。死亡は1986年(昭和61年)10月27日。
駐車場 平成2年(1990)には住宅地図では松ヶ枝はありますが、確かに1995年には駐車場に。クレアシティ神楽坂若宮町は2002年10月に完成。

 オーナーの死後、直ちに取り壊されたとすると、松ヶ枝は昭和62年頃に廃業し、一方、住宅地図を信用すると、廃業は平成2年以降ですが、住宅地図の印刷は数年間遅れるのが普通です。「ここは牛込、神楽坂」も平松南氏の「神楽坂まちの手帖」(けやき舎)も廃業は何年なのかを書いていません。

若宮町(令和4年)
  1. クレアシティ神楽坂若宮町
  1. (神楽坂もりのいえ)
  2. 果房 メロンとロマン
  3. (かぐらビル)
  4. サンライズ神楽坂と自動販売機
  5. 神楽坂 たれ焼肉のんき

地蔵坂(写真)藁店 ID 7804-7806, 14104、昭和41年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804-7806とID 14104は地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。時期は「昭和41年頃か?」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7805 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7806 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14104 袋町 地蔵坂入口の建物

 西側の電柱はすべてコンクリート製で細い柱上変圧器がありますが、東側には木製のものもありました。車道は滑り止めのオーリングを使い、下水は道路の側溝を流れています。
 これは昭和41年(1966年)でしょうか? まず住宅地図が正しいとして考えます。
「旅館 竹兆」は住宅地図の昭和47年(1972年)にはなく、昭和48年(1973年)では出てきます。
 昭和39年までには「松竹荘」は一軒だけですが、昭和40年から47年までは「田中医院」と一緒に出てきて、昭和48年には再び1軒だけの「松竹荘」として登場しますが、「歯科 佐々木」と一緒に出るのは全くありません。
「あかつき」は昭和49年に始めて出てきて、田口重久氏の写真でも昭和49年に出てきます。
 つまり住宅地図が正確とすると、正しいのは昭和49年だけだと考えてしまいます。
 しかし、ここで、まだ出ていない建物も考えます。地蔵坂と神楽坂通りを結ぶ場所にある武田芳進堂(現・八潮第二ビル)と中河電気(現・八潮ビル)です。武田芳進堂は昭和46年9月に、中河電気は昭和43年9月に大きなビルが完成しています。どちらも5階建てなので、見えるはずですが、ありません。ビルは完成するのに1年ぐらいかかるので、昭和42年以前にこの写真4枚が撮られたものです。つまり、この写真4枚が正しい場合、昭和42年よりも早く、たとえば昭和41年に、撮った方が正しいのです。
 住宅地図についてはただただ印刷が遅すぎたようです。

地蔵坂(昭和41年頃)
正面突き当たりに相馬屋文具店
  1. 道路標識。指定方向外進行禁止。道路標識 (逆転式一方通行を示す標識)
  2. 日本盛。〇◯ あかつき
  3. 電柱看板「すき焼 恵比寿 ココ」
  4. シャッターの降りた店(地図では八百屋)
  5. 家屋2軒
  6. 電柱看板「理髪 モリワキ ここ 」「斉藤医院」
  7. 松竹荘「歯科 佐々木」広報板
  8. 家屋1軒。「車庫につき 駐車お断り」
  9. 旅館 竹(兆)
  10. 電柱看板「質 は 上値 サ〇〇〇 のフクヤ袋町 4」「日本出版クラブ」
  11. 電柱看板「質 大久保」「日本出版クラブ」
  12. 道路標識。8-20。(駐車禁止)(区間内)
  1. 電柱看板「加藤産婦人科」
  2. BAR Hayama ニッカバー
  3. (川島)病院


松井須磨子の臨終|飯塚友一郎

文学と神楽坂

飯塚友一郎 飯塚友一郎氏は『随筆 腰越こしごえ帖』(書物展望社、昭和12年)で松井須磨子氏の自殺について書いています。飯塚友一郎氏は横寺町の飯塚酒場の子供で、演劇研究家。東京帝国大学法学部卒業後、10年間弁護士を開業し、同時に歌舞伎を研究。大正15年『歌舞伎細見さいけん』にまとめ、昭和7年に日本大学芸術学部教授。生年は明治27年11月11日、没年は昭和58年4月21日。享年は88歳。

     松井須磨子の臨終

 容易に段落のつかぬ仕事を持つ身には、暮も正月も、氣ぜはしく、あわたゞしく過ぎて今日はもう一月五日だ。さうだ、一月五日といへば松井須磨子の命日ではないか。忘れもせぬ大正八年の今日があの日だつた。

 私は、須磨子の生前中に別段の私交があつたわけでもなく、又、あんまり物覺のいゝ方でも決してないのに、何故、この日が記憶に殘つてゐるかといふと、不思議な因緣で彼女の臨終の物音を、恐らく誰よりも一番近く耳に聞いたからだ。臨終の物音といふのは、をかしな言ひ方だが、御承知の通り彼女は藝術倶樂部の一番奥まつた物置で、テーブルと椅子を踏臺にして、梁へ紐をかけて、その踏臺を足蹴りにして縊死をとげた、そのガターンといふ物音だつた。
 その頃、私は牛込横寺町の藝術倶樂部と、すぐ隣接した宅から大學に通つてゐた。殊に私の起居する奥の離れ座敷は、建仁寺垣をへだてて藝術倶樂部の建物とは三四間しか離れてゐない。その窓から、島村抱月の靜かに淋しい顏がのぞかれたり、須磨子の喚聲叫聲が洩れたりしてゐた。
 須磨子は、よく近所へ買物などに出かける時、櫛巻に白粉氣もなく洗ひざらしの浴衣か何かで、極く世帶じみた風をしてゐた。當時豪勢な帝劇女優などゝ比べて、凡そ女優らしくない、長屋のおかみさんか女工の樣だと、近所の者は陰口をきいてゐた。それに誰いふとなく須磨子は横暴で、抱月先生はじめ一座の男優までも尻に敷くといふ噂も立つて、近隣の評制はあまり芳しくなかつた。
気ぜわしい 気忙しい。あれこれと気持ちがせかれて、落ち着いていられない。
建仁寺垣 竹垣の一種。京都の建仁寺で初めて用いた。竹を敷き詰めて、縦に密に並べる。

櫛巻 くしまき。女性の髪の結い方。髪をくしに巻きつけてまげとした手軽な結い方

櫛巻 コトバンク

 ところが前年、大正七年十一月に急に抱月を失ふと、須磨子の愁嘆は實に人の見る目にも氣の毒で、さすがに世間の同情は翕然として、この孤獨の女王に集まつた。藝術座の正月興行は有樂座メリメエの「カルメン」だつた。いつも新劇などは振向きもしない家人が、珍らしく有樂座の須磨子を見ようと言ひだしたのは、恐らく須磨子その人の悲劇に關心をもつたに違ひなかつた。私共が三日に見物した有樂座の「カルメン」は、新劇には珍らしく興行價値百點の大入だつた。「煙よ煙、一切合切みな煙」と空うそぶくカルメンの頬に、ほんとうの涙が光つてゐるように、見物には見えるのだつた。
 それから、中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段氣にも止めず、叉、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞ん込でくる。
「物置で椅子卓子踏臺にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。後で聞くと、藝術倶樂部の人々はみんな、ずつと離れた表の方に寢てゐにので、誰も奥の物置の物音などには氣がつかず、夜が明けてから、たしか小使が、何かの拍子に圖らずも、死骸を發見したのだといふ。して見ると、やはり私が一番、彼女の死の床の近くに寢てゐわけになるのかしら。
翕然 きゅうぜん。多くのものが一つに集まり合うさま
有楽座 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年11月1日開場。定員は桟敷を含めて900人。従来の平土間ではなく椅子指定席。食堂と休憩室も設置。
メリメエ Prosper Mérimée。プロスペル・メリメ。フランスの作家。代表作は中編小説の「カルメン」(1845)
カルメン スペインを舞台にしてロマの女カルメンと竜騎兵ドン・ホセの恋愛悲劇
新劇 旧劇(歌舞伎)に対する明治以降に興った近代演劇,戯曲(ドラマ)が土台になる
卓子 たくし。つくえ。食卓。テーブル。
踏臺 実際に縊死した時の踏み台が出ています。https://dl.ndl.go.jp/pid/966251/1/24

 も一つ奇しき因緣は、その須磨子の遺言狀が届けられて、それを最初に手に握つたのがまだ娘時代の今の私の妻であつた。須磨子はその前夜、お詑と後事を托した遺言狀を認めて、それを翌早朝、牛込余丁町坪内家へ届けるように甥に當る青年に命じた。その青年も知らずにその書面を余丁町へ持參したが、妻の記憶によると、たしか起きぬけに玄關で受取つたといふから、朝七時頃でもあつたらうか。その頃は誰も、何も知らなかつたらしい。その時恰も兩親は熱海の別宅へ滯在中だつた。妻は、その受取つた書面を何の氣なしに懷にはさんで、朝の用事などを片づけてゐると、それから一時間餘も經つた頃、新聞記者が、どやどやと押かけてきた。はじめてそれが、たつた今しがた自殺した人の遺言狀と知つて、妻はぞつとしたといふ。
 薄氣味わるく懷中から摘み出たした遺言狀を、新聞記者はどうしても見せろといふ。いえ宛名人が留守だから、御見せできません。それならば表書きだけでも、といつたやうな押問答が繰返されたが、そうと知つては、早速熱海へ届けなければと、人を派したのであつた。

 私は、その年の夏に大學を卒業した。そしてその翌年、緣あつて結婚したのが、この遺言状を何の氣なしに手にした今の妻である。何の氣なしに臨終の物音を最初に耳にした男と、何の氣なしに遺言狀を最初に手にした女とが、こうして一緒になつてゐるのも、不思議な因緣「である。(昭和十二年一月)
表書き おもてがき。手紙や文書などを包む用紙(封筒など)の、表面に書く文字。
因緣 前世から定まった運命。宿命。以前からの関係。ゆかり。

矢来能楽堂(写真)昭和47年 ID 12155、令和4年 ID 17578, 17579

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155、17578、17579は矢来能楽堂を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17578 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17579 矢来能楽堂

 最初の写真の撮影は昭和47(1972)年9月、残りの2枚は令和4(2022)年10月で、時間差50年があります。「データベース 写真で見る新宿」には、さらに古い昭和27年のID 9842もあります。何回か化粧直しをしているようですが、建物は同じです。
 公益社団法人観世九皐会所有の能楽堂で、明治41(1908)年、神田西小川町に舞台を設けるも、関東大震災で焼失。昭和5(1930)年、矢来町の現在地で復興、昭和20(1945)年5月24日、空襲でまた焼失。戦後の昭和27(1952)年、現在の舞台を完成。平成23(2011)年、国の登録有形文化財に登録。

 矢来能楽堂は、能・狂言の公演・稽古に使用し、観世九皐会の主催公演や、所属能楽師の公演が主体で、ほかに矢来能楽堂での小学校修学旅行や狂言体験教室、中学校の能楽体験講座、大学講堂での能狂言観賞会開催、官公庁招聘の能楽ワークショップ、建築物の国際学会イベントで能楽堂見学会など。
 客席総数は座敷席を含んで237席。地階に喫茶室があります(360°バーチャルギャラリー)。

矢来能楽堂

新潮社(写真)昭和44年 ID 8282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282は、昭和44年(1969)頃、矢来町の新潮社の前から北に向かって写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282 矢 来町 新潮社

 右の社屋が新潮社本館です。この社屋は昭和41年8月に落成しました(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。右側の街灯は左側の背の高い街灯と違って、私設灯(軒灯)でしょう。
 ID 114(昭和45年3月)よりも少し前の写真です。すでに新潮社の2棟の社屋の間にあった石造旧社屋はなくなっています。一方、石造本社が残っているID 121 新潮社前(昭和56年)とは矛盾しますが、ID 121の撮影時期が間違っています。
 右の歩道と車道の間には側溝がありますが、縁石は低く段差がほとんどないように見えます。
 後ろ姿の女性の右の郵便ポストは新潮社の敷地(植え込み)内にありますが、私設ポストではなく、郵便局の管理だと思われます。おそらく新潮社から場所を借りているものでしょう。
 左側のトラックの側面には「株式会社三原製本所」の文字が見えます。運転台と荷台の隙間から道路標識「車両進入禁止」が見え、その下にある横書きの銘板は「新潮社〇〇部」でしょうか。地図によれば車庫になっています。
 道沿いの店の看板は「理容後藤」、前の電柱の縞模様も「後藤理髪店」でしょう。地図では「ゴトウパーマ」です。
 電柱の上にの突き出し広告は「大日本印刷」と読めます。出版・印刷の町らしい1枚です。

住宅地図。1970年

矢来町(写真)明治末期 赤城神社の山車 ID 156

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156は、明治末期、矢来町派出所付近で赤城神社祭礼の山車だしを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156 赤城神社祭礼山車、矢来町派出所付近

 写真説明の矢来町派出所は現在、牛込警察署矢来町地域安全センターといい、下図の✕印です。1世紀を経た現在も、牛込天神町交差点の同じ場所に交番があります。
 広場のような場所で、道は左奥に向かって下っています。山車を曳く人が右に並んでいるので、坂を上る途中でしょう。
 路面は舗装されていないだけでなく、大きくうねっている部分があります。
 人々の服装は長袖や薄手の着物で、おそらく秋祭りです。赤城神社の祭礼は現在でも9月です。雨模様らしく、傘を差している人が目立ちます。
 周囲は店舗が並んでいるようてすが、左の「理髪舗」以外は読めません。
 山車を見ている人は沢山いて、人力車も出ています。多くは和服を着ていますが、左側の白い洋服を着た人は帽子をかぶり、ニッカボッカーらしいズボンをはいています。
 以下は全くの想像ですが、中央の立派な石造りの建物は「田中銀行牛込支店」ではないでしょうか。右にカーブする道は人力車も走れる程度に平らです。三角形の道の中央部(薄水色)に盛り上がりがあることも理解できます。この盛り上がりを避けつつ、山車が神楽坂方の赤城神社に戻ってくる様子ではないかと思います。

東京市及接続郡部地籍地図-天神町交差点付近

矢来町交番と天神町交差点 Google

矢来町(写真)町並み 昭和30年頃 ID 124

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124は、昭和30年(1955)頃、矢来町を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124 矢来町

 この写真は「新宿区史」(昭和30年)の挿画として使われたものです。小見出しは「山の手住宅地」「台地上の宅地としての利用例を示す。写真は矢来町」。本文は「牛込は本区の東北部にある高度20米から40米の台地である。牛込台地の特徴は小日向台或は関口台から観察できるとおり、小日向・関口の両台が神田上水が急崖となって臨むに対し、牛込台の北面は赤城社・筑土社附近を除いてこの低地に向ってゆるやかな傾斜をなしでいる。」
 これから、地元の方は……

 手がかりが少ないので、撮影場所を大胆に考えてみます。
 中央の地平線に早稲田大学の大隈講堂が見えます。その左の遠くに三角屋根の建物群が見えますが、これはID 12145「神楽坂上空(昭和35年)」を参考にすれば、早大の早稲田キャンパスでしょう。

 一方、ほぼ同時期のID 13029「赤城神社より遠望(昭和28年)」に比べると撮影位置は低く、一般的な2階屋の窓くらいから撮影しているようです。
 商店はなく道は舗装されていません。木造の平屋も多く、早稲田通りや牛込中央通りから入った場所でしょう。雪が残っているので季節は冬で、写真右が北だと思います。
 もう一度遠景に戻って、大隈講堂の右手前に四角い窓の並んだコンクリート造らしき大きな建物が見えます。屋上には切り文字看板があるようです。病院や工場のような建物でしょう。この建物はID 13029でも左端に写っているようです。

地理院地図 矢来町付近

 当時の地図から推測すると、大日本印刷の榎町印刷工場が有力候補になります。この仮定が正しければ、撮影場所は日本興業銀行矢来町社宅(旧・酒井家矢来屋敷)付近ではないでしょうか。


 

矢来町(写真)第二交差点 昭和63年 ID 123

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123は、昭和63年(1988)2月、矢来町の早稲田通りと牛込中央通りとの三叉路を西から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123 矢来町

 遠くに見える信号機(矢来第二交差点)から右に行くと牛込中央通りになり、対面通行です。まっすく進むと早稲田通りの逆転式一方通行の区間に入ります。
 逆転式は、0時から12時まで写真前方から奥に向かって、13時から24時まで奥から前方に向かって車が走ります。写真では信号機の右側にある回転式の交通標識が「一方通行出口」になっており、撮影は午後でした。
 神楽坂1~5丁目では逆転する平日12-13時に歩行者天国を挟みますが、この矢来町の区間にはそれがありません。細かくは神楽坂通りの交通規制を見てください。
 また信号手前の区間は、その先の逆転式の区間と大差ない道幅を対面通行にしています。このため歩道が非常に狭く、場所によっては危険を感じるほどです。この状態は現在も変わっていません。

矢来町(昭和63年)
  1. 駐車場
  2. (横断歩道)
  3. 電柱。雨森歯科、このさき。旺文社。
  4. .東京(都) 水道(局下)水局 指(定工)事店 水道下水工事 萬水(工)業
  5. (道路標識・指定方向外進行禁止)
  6. 信号機(右折矢印信号)
  7. (横断歩道)
  1. (横断歩道)
  2. 質 ヌマベ
  3. クリーニング
  4. 白〇 宮川 ジャノメ
  5. 信号機(裏側)
  6. 明治生命 トーヨーサッシ

住宅地図。昭和63年。

新潮社(写真)昭和30年後半 ID 121

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121は、新潮社前を撮ったものです。撮影時期は昭和56年(1981)頃と説明されていますが、この正門は大正時代のものなので、昭和41年8月までになくなっているはずです(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。したがって撮影は昭和40年(1965)以前のいつかです。さらに下の3枚目の写真を見ると、昭和34年(1959年)には奥の倉庫ができています。そうすると、撮影は昭和34年から昭和40年まででしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121 新潮社前

 佐藤義亮氏が明治29年、月刊誌「新声」を創刊し、明治37年、月刊誌「新潮社」を創刊、大正2年、矢来町で社屋を建て、大正12年、4階建ての新社屋を建築しました。

 この大正期の社屋があるのは矢来町71番地です。ID 121の手前に見える社屋は、元は72番地でした。この建物には玄関がなく、奥にある石造りの旧社屋を手前に建て増したものでしょう。ID 121では古い玄関と、その上の丸みを帯びた旧社屋の外壁が確認できます。

新潮社

 さらに奥にも別棟(倉庫)が続いています。ここは元の69番地です。
 手前の72番地は1957年、69番地の別棟(現在は営業部書店係)は1959年の完成でした。さらに国立国会図書館で調べると1966年「新潮社新社屋落成記念」(新潮社、昭和41年)が出版されています。新潮社は発展と共に本社を建て増したようなので、何が新社屋なのか分かりにくいようです。
 現在の新潮社本社は、石造社屋を取り壊し、4階建てのビルを奥に伸ばした形になっています。玄関も新しくなりました。また別棟も含め、すべてが「矢来町71番地」に合筆されています。

新潮社。営業部書店係と本館

矢来町(写真)中の丸 昭和45年 ID 118-120

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。
 この写真の解釈2つを上げてありますが、コメントの方が正しいでしょうね。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118 矢来町中の丸あたり

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 119 矢来町中の丸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 120 矢来町中の丸

 ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つのあざに分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
 ここでT字路になる場所は9か所です。

 次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
 これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?

 一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。

 一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。
 条件は以下になります。
1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。
2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない)
3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない)
4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。
 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。

1970 矢来中の丸周辺b

 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。
 ➁は雨水用の側溝が右側にあり、また2013年のストリートビューで突き当たりの古いブロック塀の様子が違います。
 ➂は地図上では真っ直ぐに見えますが、出口付近がカーブしていて写真と印象が違います。
 ➃は塀など写真の面影はありませんが、条件には合致しています。
 もう1点、注目すべきはID 118の樹木の間に見える人工物らしきものです。これは恐らく、突き当たりの家の向こうに4階以上のビル(屋上のテントのようなもの?)が見えていると思われます。
 ➃の位置からは牛込中央通りに面した旺文社のビルが見えていたはずで、この点でも④が最も可能性が高いと思います。

 最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。

矢来能楽堂(写真)昭和45年 ID 117

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117は、昭和45年3月、矢来能楽堂の裏を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117 能楽堂うら

 この写真を撮った番地は矢来町53番地と60番地の間の通りでした。左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、街灯もあります。一方、右側の電柱は背が低く、おそらく木製でしょう。左の側溝ははっきり見えませんが、右はきちんと見えます。
 右側の木造平屋は地図によれば「魚定」ですが、通りに沿ってトロ箱(木箱)が積んであり、「魚錠」とも読めます。
 その木の壁で見切れているのは佳作座の上映案内で、「チキチキパンパン」「空軍大戦略」と推測できます。ID 64、ID 8317も昭和45年(1970年)3月に「チキチキバンバン」を上映中で、同時期の撮影かもしれません。
 「魚錠」から1軒置いて矢来能楽堂が見えます。その前のトラックには人が集まっており、野菜売りの行商の八百屋でしょうか。


矢来町(写真)75番地等 昭和45年 ID 113-4, 8312-3

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113と8312、ID 114と8313は、昭和45年3月、矢来町75番地を中心に撮ったものです。なお、前後の通りは牛込中央通り、左右の路地には名前はありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8312 牛込中央通り 新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 114 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8313 牛込中央通り 新潮社前

 左側でこの写真を撮った番地は矢来町3番地、先に行くと61番地です。右側はトラックが見えるのは77番地、車が渋滞しているのは75番地でした。
 左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、柱上変圧器や街灯もあります。右側の電柱は背が低く、おそらく木製です。街灯は道の両側にありますが、同じ道の他の場所(77~82)は片側しかありません。新潮社前の街灯は奥まった位置にあり、私設灯(軒灯)の可能性が高いと思います。現在でも新潮社の敷地(植え込み)内に街灯が立っています。

矢来町(昭和45年)
  1. (日本英語教育協会)(3番地)
    ――無名の路地
  2. (黃 キザ)クラ 桜 白鷹 ハクタカ 〇〇本醸 和泉屋酒店 日本盛 和泉屋酒店 (61番地)
  3. 電柱広告「  加藤」
  4. 道路標識・横断歩道 (横断歩道)
  5. 第一パン
  6.  (一方通行)
  1. 歩道に出ているトラック(旺文社)(77番地)
  2. 後ろ向きの道路標識
  3. 電柱広告は見えない
    ――無名の路地
  4. 横地医院 内科 小児科(75番地)
  5. 新潮社 4階建て(71番地)

住宅地図。昭和45年

矢来町(写真)77-82番地 昭和45年 ID 107-112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107-112は、昭和45年3月、矢来町の牛込中央通りを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 108 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 109矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 110矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 111矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 112矢来町77~82、旺文社前

 番地でいうと左側はほとんど矢来町1番地です。1番地が広大なのは、矢来町の名の由来になった酒井家の矢来屋敷の主要部分が分筆されないまま、現在も団地(矢来町ハイツA棟~J棟)として一体で使われているからです。
 右側は矢来町82番地が中心で、直行する道路を越えると、奥に行くときに81番地、79番地、78番地、77番地の順に並んでいます。現在は78番地と79番地を合わせて大きな78番地になりました。
 ID 8311はID 107-112と同じ時の写真だと考えます。この数台のなかに車種も同じでナンバープレートも同じ車があり、他の車でも車種が同じものもあり、ID 8311も同じく「昭和45年3月」だと考えます。
 ID 107~110で、左側のプレハブは「キュービクル式高圧受電設備」(高圧変電設備、キュービクル)でしょう。発電所からの電気は6,600Vですが、それを100Vや200Vの電気に変圧するため、機器一式を金属製の外箱(筐体)に収めたものです。

矢来町(昭和45年)
  1. キュービクル。 さわらぬこと DANGER 貼紙せぬこと 東京電力 NO.牛 00
  2. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  3. 電柱看板「ほねつぎ 加茂」
  4. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  1. 瓦屋根の2階屋
  2. 地図で「中島会計事務所」
  3. 瓦屋根の2階屋
  4. 天ぷらそば 更科
  5. 電柱看板「旺文社」
  6. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  7. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  8. 数軒
  9. 消火栓
  10. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  11. 旺文社事業部


横寺町(写真)飯塚酒場跡 昭和40年頃 ID 13610

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610は、横寺町の朝日坂にある飯塚酒店を撮ったものです。ID 13610の資料名は「飯塚酒場跡」、時期は「昭和40年頃か」です。「酒場さかば」「居酒屋いざかや」は酒を飲ませる店、「しゅてん」(他にさかだな、さかみせ、さかてん、さけみせ)「酒屋さかや」「酒販店しゅはんてん」は酒を売る店で、本来は違う意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610 飯塚酒場跡

 飯塚酒場は第2次世界大戦前、酒造業の規制が緩かった時代に安価な「にごり酒」(雑酒)を製造販売し、それを呑ませる店として繁盛しました。
 戦後、自家醸造の酒(にごり酒など)は出しませんでした。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)では……

精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場はその坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許にごり、、、なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。

 野田宇太郎の『文学散歩』では……

 戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。

 写真の看板は「清酒※澤之鶴 飯塚酒店」とあり、普通の酒屋です。飯塚酒店は田口重久氏の昭和50年でもあり、住宅地図では平成に入っても営業していました。現在は店はなく、飲料とタバコの自販機が置いてあります。

05-05-34-1芸術倶楽部跡遠景 1975-08-28

 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)では……

 飯塚酒場の官許にごり酒のことは、野田宇太郎氏、野口富士夫氏などいろいろな人の本に書かれていますが、まだ子供だった私でもあの賑やかな雰囲気はよく覚えています。勿論私の記憶にあるのは酒場の中の賑わいより、いいご機嫌で縄のれんを出て来た人たちで賑わう酒場前の光景です。足下の危なくなった人もいれば、大声で放吟する人もいましたが、不思議と「酔っぱらいは嫌だなあ」と思った記憶はありません。荒縄でしばった侭のみかん箱を片手に、通りすがりの人に誰彼となく一個ずつみかんを配っている気のいい酔っぱらいもいたし、客は皆楽しそうに見えました。
 ところでその官許にごりの看板ですが、「官許」の文字が縦長で、右からの横書きになっていたため、私はてっきり「鯛」とか「繊」の字のような一字だと思いこみ、なんという字だろうと前を通る度に首をひねっていました。ある時母に何という字かと尋ねて、やっと官許だとわかったのですが、大事なことを忘れてしまっているのに、そういう小さな思い出はいつまでも消えません。
(鳥居)

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡 ID 13520, 13525 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520とID 13525は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

ID 13520 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

 ID 13520は、昭和29年の野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)の写真とよく似ています。垣根は四ツ目垣です。ただし、ID 13520は真新しいモルタル造の家に変わっています。玄関脇の廃材は古屋を解体したものかも知れません。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)

ID 13525 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13525 尾崎紅葉旧居跡

 ID 13525は、イチジクと思われる木のそばの井戸を狙っています。周囲は雑然としていて、ゴミ箱らしき木箱や物干の竿かけ、半ば開いた勝手戸のようなものが写っています。建物の裏庭のようです。
 この写真は恐らく、尾崎紅葉宅にあった井戸でしょう。位置はわかりませんが徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)では……

 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
 O―とK―は 尾崎紅葉泉鏡花です。
「馴染の門の柳」については、後藤宙外氏の「明治文壇回顧録」(昭和11年)で……

門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。

 したがって「門」の左側に「柳」があり、そのそばに「井戸」があったはずです。
 井戸は門の外だったかもしれませんが、内では流しや風呂場が近いので便利だったでしょう。現代の地図では以下の場所にあたるかもしれません。

【尾崎紅葉 旧宅位置想像図】赤が47番地(鳥井家)、青が紅葉旧居、緑が井戸

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡? ID 13518~19 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518~19は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518 尾崎紅葉旧居跡

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13519 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)によれば、横寺町47番地は鳥井家がすべて所有し、280坪(約900平方メートル強)ありました。地籍地図(大正元年)を見ても、46番地と48番地の間の路地の奥一体が47番地です。つまり、この路地の両側全体が横寺町47番地になります。撮影当時、鳥井家は路地の左側だけになっていたようです。

東京市及接続郡部地籍地図。東京市区調査会。大正元年。国立国会図書館デジタル

東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)横寺町47

 写真で見る限り、私道に出る門はありませんでした。私道は中央だけが簡易に舗装されているようですが、荒れていて排水の側溝もありません。正面の2階屋は「松坂鉄工所・安西」でしょうか。

住宅地図。昭和35年。写真は細い私道を北側から撮影。

 下図は昭和29年と現在の同じ場所です。これも左側が47番地です。この2枚と最初の2枚は全く同じ場所だったというと、嘘でしょと言われそうです。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

現在

 しかし、嘘だという理由があります。別の言い方では、この写真ID 13518~19には疑問があります。地元の人は「一番、不思議なのはID 13519の左に一列にブロック塀があり、47番地の鳥井宅に出口がないことです。現代まである路地中央の敷石や、敷地内の老樹がID 13519では見えないことも説明を思いつきません。撮影場所の記録ミスを疑った方がいいのかも知れません」
 また「松坂鉄工所・安西」の場所にも後者2枚は家はなさそうです。写真ID 13518~19は隣の番地を間違えて撮ったものでしょうか?

牛込北町(写真)昭和51年 ID 11452~11454

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452~11454は昭和51年(1976年)8月、大久保通りを西からバスで牛込北町交差点にくる直前に撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11453 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11454 牛込北町交差点

 牛込北町交差点が見え、左右の道路は牛込中央通りで、前後は大久保通り、交差点の左は箪笥たんす町、右手前は細工町、右後ろは北町です。箪笥町は武具をつかさどる箪笥奉行に由来します。細工町は御細工同心に由来し、江戸城内の建物や道具を制作、修理します。北町は北かち町から来た名前で、御徒組屋敷は将軍外出の際、徒歩で先駆を務め沿道警備などに当たりました。
 左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器が付いています。右には電柱はなさそうです。丸っぽい街路灯は道の両側にあります。

牛込北町(昭和51年)
  1. セブンイレブン。コンビニエンス。
  2. 天麩羅
    —–牛込中央通り
  3. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  4. カネボウ化粧品。北町薬局
  1. ◯ 歯科上矢
    —–牛込中央通り
  2. 金ちゃん洋品店
  3. (共同石油)
  4. Bのマーク(文英堂)

住宅地図。昭和53年。


矢来町(写真)牛込中央通り ID 8311 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8311は、旺文社から北に進んだ牛込中央通りの写真を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」としていますが、ID 107-112を考えると、「昭和45年3月」が正しいと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8311 牛込中央通り 旺文社前

 ここは矢来町で、道路は舗装し、左から歩道、縁石、コンクリート、車道があり、縁石は一定間隔で黃色になり、「駐車禁止」です。左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器や蛍光灯の街灯が付いていますが、右の電柱は背は低く木製です。

矢来町(昭和44年)
  1. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  2. (電柱広告)大日本(印刷)
  3. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  1. 瓦屋根の2階屋 軒高にホーロー看板らしき門票「矢来町◯」
  2. 天ぷらそば 更科 「生そば」の暖簾(新店には見えないが地図上では昭和45年頃から表記)
  3. (電柱広告)旺文社
  4. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  5. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  6. 数軒
  7. 消火栓
  8. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  9. 旺文社事業部

昭和40年には「更科そば」がないが、45年から登場する。

現在の矢来町

横寺町(写真)ID 8278-8281 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8278-8280では、昭和44年(1969年)横寺町の駐車場の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります、
 北側(左)は矢来町で、やや低い電柱は木製です。南側(右)は横寺町で、高い電柱はコンクリート製で、柱上変圧器や蛍光灯の街灯もついています。

[A]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8278 横寺町

横寺町(昭和44年)
  1. 電柱広告「旺文社」
  1. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。牛込清掃事務所か?
  2. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱広告「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  3. あさひ児童公園
  4. 東洋綿花牛込寮。
  5. 電柱広告「大佐和

現在の駐車場

[B]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8279 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8280 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8281 矢来町 新潮社

  1. 電柱広告「横寺町二十六 電(2XX)二八五八 / 加藤質店 / ここは横寺町53」
  2. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  3. 旺文社
  1. 木製の電柱。現在は右側の電柱はなくなった。
  2. 三叉路のうち右に行くものは見えない
  3. 遠くに突き出し看板「パーマ ミハル美容室」スタンド広告「パーマ MIHARU 美容室」

現在の三叉路

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 8277 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8277では、昭和44年(1969年)朝日坂にさしかかるあたりから、坂下に向けて、横寺町の写真1枚を撮りました。道路は舗装し、左右に側溝があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8277 横寺町 1944年頃か。

 左右に電柱があります。左側の奥の木製電柱は、道路中央に寄っているように見えます。ID 461でも同じです。側溝もねじれたようになっていて、ここから先の道路が狭くなっていることが分かります。この部分の道路は現在でも、やや狭くなったままです。
 写真左の眼科の脇の路地に4文字の標柱のようなものが建っています。「芸術座跡」だといいのですが、恐らくは行き止まりを示す「進入禁止」等でしょう。

横寺町(昭和44年)
  1. 神楽坂眼科 診察時間/午前9時~午後 時/午後3時~午後6時/(コ)ンタクトレンズ出来ます/(神)楽坂眼科
  2. 標柱?
  3. 白い塀の家
  4. ソテツの木(内野医院)
  5. 消火栓。広告福屋不動産」
  6. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」。塩
  7. (駐車禁止)
  1. 自転車
  2. 電柱広告「ヤナギサワ ここは横寺町 36」。柳沢理髪は見えないが、神楽坂眼科の隣にある。
  3. 看板「飯塚工務所」

現在の神楽坂眼科

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 455-463, 8314-15 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 455-463とID 8314-15では、昭和45年(1970年)に牛込中央通りから神楽坂通りに抜ける裏通りを5カ所から撮影したものです。解像度に違いがありますが、道端の駐車車両などが同じなので、同じ撮影でしょう。
 途中までは北側(左側)が矢来町、それ以外は横寺町です。道沿いには浅田宗伯邸跡(現・あさひ児童遊園)、尾崎紅葉邸跡芸術倶楽部跡朝日坂などがあります。道路は舗装されていて、左右に側溝があります。

[A] 赤尾好夫氏の邸宅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 455 裏通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 456 裏通り 横寺町と矢来町

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。
 道路左には木製の低い電柱、右側にはコンクリートの高い電柱があります。これは朝日坂の下になるまで変わりません。現在は片側のコンクリート電柱だけなので、この昭和45の写真は過渡期だったかもしれません。
 街灯は長い蛍光灯で右側の電柱に付いています。また、柱上変圧器もあります。

横寺町(昭和45年)
  1. パーマ MIHARA 美容室。テント「ミハル」。50年強たっても現在も営業中
  1. 電柱看板「龍門◯ 照心会 書道 教室 この先 ここ(は)横寺町」
  2. 屋敷門(棟門)とシャッター。赤尾好夫氏邸。旺文社の元社長で、テレビ朝日の初代社長。
  3. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  4. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱看板「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  5. あさひ児童公園
  6. 東洋綿花牛込寮。
  7. 電柱看板「大佐和

現在の裏通り

住宅地図。1970年

[B] あさひ児童公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 457 裏通り、あさひ児童公園前

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。

  1. 普通の家々
  1. あさひ児童公園
  2. 電柱看板は「創業㐂永五年 お茶とのり 老舗 大佐和 神楽坂 ここは横寺町51」

現在の裏通り、あさひ児童公園前

現在の裏通り、あさひ児童公園前

[C] 三孝酒店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 458 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8314 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 459 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 460 横寺町46、三孝商店前

 神楽坂通りまでの中間地点の三叉路で、ここから両側とも横寺町です。三孝商店は住宅地図では「三孝酒店」。現在は自動販売機だけが営業しています。
 右側の「キムラヤのパン」は、住宅地図とやや位置が違うようですが「野田パン店」でしょう。この店も現在はありません。なお、ID 8314はID 458と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. 三孝商店
    壁面看板「王酒 千福 三孝商店」「神體 三孝商店」「発売元 黄桜酒清酒造株式会社 黄桜 三孝商店」「代表清酒 山邑酒造株式会社蔵 櫻正宗 三孝商店」「白鷹 ハクタカ 三孝商店」「宮酒造〇 日本盛」
    店名「ビール 合資会社 三孝商店 リボンジュース」テント「サントリー」店先「サントリー」「あさひ本◯」「Cola」トイレットペーパーの山、「ニッカ」
  2. 倉庫につき駐車禁止
  3. 東京消防庁 消火栓 東京知事。消火栓広告「電気工事設計施工 上原電気設計事務所」
  4. (駐車禁止)
  1. 電柱看板「加藤質店  ここは横寺町46 」「ゴミ提出出の注意 一 ゴミは……」
  2. GINZA 木(トレードマーク) キムラヤのパン
  3. 電柱看板「内科・外科 皮膚科 泌尿器科 内野医院」「神楽坂 皮膚科」
  4. 突き出し看板「畳」(内山タタミ店)

現在の三孝商店跡

[D] 内野医院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 461 裏通り、飯塚酒店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8315 横寺町

  ID 8315はID 461と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. (内野医院)
  2. 東京消防庁 FIRE HYDRANT 消火栓 火事と救急車は 119。消火栓看板「神楽坂福屋店裏 毘沙門天〇 福屋不動産 フクヤ」
  3. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚 酒店」「塩」
  4. (駐車禁止)
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ
  1. 看板「ポンプ 衛生 水道 東京都〇水道工業所 東京都〇水道工業所〇〇・飯塚工業所」
  2. 電柱看板「 買入 丸越」「 右門の和菓子」
  3. 「(龍)門禅(寺)」
  4. 電柱看板「土地家屋 野口商会」「歯科 川畑」
  5. チェッカーボードに似た「歯(科 川)畑」

現在の内野医院

[E] スーパーアライ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 462 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 464 横寺町入口附近

 この場所は他の4箇所と逆で、朝日坂の下から上へ矢来町の方を向いて撮影しています。ID 463は撮影時期を「昭和45年3月」としています。立木の葉は枯れ落ち、右手前の八百屋にはミカンやイチゴが売られています。
 現在、八百屋は正蔵院の敷地になり、スーパーアライはマンションと「ろばたや次朗」に変わました。他の店も住宅になったり別の店になっています。

  1. 花輪(フラワー 一紀)開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. チェッカーボード様の「(川)畑」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 」
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

現在のスーパーアライ

横寺町58番地(写真)昭和45年 ID 451-454, 8308-10, 8319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451~454、ID 8308-10, ID 8319は昭和45年(1970年)3月、牛込中央通りに南からやってきて牛込北町交差点を通り越した場所(横寺町 58、旺文社前)を撮ったものです。またID 8308はID 452と、ID 8309はID 453と、ID 8310はID 454と、画角がやや広いのを除くとほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8319 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 452 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8308 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 453 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8309 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 454 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8310 牛込中央通り 旺文社前

 旺文社本社が右にあります。ID 452で道が曲がった左奥に長い万年塀が見えます。これは日本興業銀行(現みずほ銀行)の矢来寮です。それ以前は酒井子爵の邸でした。ID 453ではバスが走っていますが、これは西武バスと都営バスが手を結んだバス路線です。大泉学園駅前から出発し、練馬駅通り、目白駅前、護国寺前、江戸川橋、矢来町、牛込北町、納戸町、市ヶ谷見附、赤坂見附、溜池、虎ノ門、最後は新橋駅前です。昭和45年10月、この路線は廃止しました。

横寺町。住宅地図。1970年

 ではこの地域になにかニュースになることがあったのでしょうか? 明治時代には訳者としても有名な上田敏氏が横寺町58番地に住んでいました。しかし、昭和時代になるとウィキペディアによれば横寺町でも牛込北町でも特にニュースでなりそうではありません。
 昭和45年には何かがあるのでしょうか? 新宿区の「新宿区史 区成立50周年記念」では「昭和45(1970)年5月に表面化した牛込柳町交差点付近における自動車排気ガスによる鉛公害問題は、地域住民に不安と衝撃を与えるものであった」と書いてあります。3月には「データベース 写真で見る新宿」は「牛込柳町の交通渋滞」が取り上げられます。これでしょうね。牛込北町交差点は、牛込柳町ほどではないにしても両側から坂が落ち込んだ地形です。この3月以降、横寺町や矢来町でも「交通公害」が問題になっていきます。

飯田橋駅東口(写真)令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
  1. 名代 富士そば 24
  2. TULLY’S COFFEE 
  3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
  4. (駐車禁止)
  5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
  6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
  7. 鳥よし
  8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

飯田橋交差点(写真)昭和54年 ID 673, 12110, 12109

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673と12110は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。またID 12109はこの交差点周辺の災害時の一時集合場所(公園)、広域避難場所を図示した案内板です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12110 飯田橋駅前 大久保通り

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯に立っているのはブリンカーライト(分岐点用点滅灯。中央分離帯や合流地点等に設置し、24時間点滅し、中央分離帯への衝突などの事故を防ぐ)でしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)(ア)サクサ
  3. 消火栓
  4. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/三恵株式会社/銀座コージーコーナー/日本写真学園→
  3. 第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  4. (駐車場)
  5. 大野屋(武道具店)
  6. 津多屋
  7. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  8. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  9. 東京厚生年金病院 本館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12109 飯田橋駅前表示

下宮比町付近 1980年

筑土八幡神社(写真)境内 昭和44年 ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8297, 8290, 14156, 14157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
 1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 筑土八幡神社

 左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕しんぜんまくで前を覆われています。
 右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連しめなわをかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石ひゃくどいし
 右端は手水ちょうずばち。現在は手水が建っていますが、この時はなかったようです。
 一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。

 続いてID 8258です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8258 筑土八幡神社

 左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
 左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
 田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。

筑土八幡社殿遠景 1968-07-13 歩いて見ました東京の街

 次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。

新宿歴史博物善え館「データベース 写真で見る新宿」ID 8259 筑土八幡神社 狛犬(阿形)

 狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬すうけい」とは神仏や立派な人などをあがめること。

 ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8260 筑土八幡神社 境内

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽かぐら殿でん。神楽殿の手前は境内社の宮比みやび神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢ちょうずばちには白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。

 ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8297 筑土八幡神社 庚申塔(側面)

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。

 次はID 14156とID 14157です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14156 筑土八幡神社 御供水

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14157築土八幡神社 御供水鉢 寄進者名陰刻(一部)

 手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。

筑土八幡神社 御供水 Google

筑土八幡神社 御供水

 最後はID 8290です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8290 筑土八幡神社境内 田村虎蔵顕彰碑

 参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰けんしょうとは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学しがくとは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。

四谷・市ヶ谷見附の桝形撤却[明治の市区改正](明治32年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 旧江戸城の城門のうち、内郭(内堀より内側)は皇居なので、古い姿をよく残しています。これに対して外郭(外堀沿い)の門は交通の障害になるとして順次、取り壊されました。
 そのうち四谷見附と市ヶ谷見附の桝形の「撤却」資料があります。両案とも明治32年(1899年)8月14日開催の東京市区改正委員会159号会議で異議なく決定しました。

拡大図。青線は撤却を決めた石垣

 両者とも石垣すべてではなく、道路にかかる部分を選んで取り壊します。ただ市ヶ谷見附が旧見附橋の部分に新しい橋をかけるのに対し、四谷見附は旧橋の脇に新たな橋をかける計画でした。つまり門によって橋の位置は昔と違うのです。
 明治37年(1904年)、両門のすぐ外の橋の下に甲武鉄道(現・中央線)が開通します。参考までに市ヶ谷門の図面を回転し、現在の地図と並べてみると、中央線も靖国通りも当時は計画すらなかったことが分かります。

市ヶ谷見附 比較図

 牛込門の桝形撤却は両門より少し後で、残念ながら資料は公開されていません。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
靖国通り 両国橋から皇居の北の丸公園、靖国神社、防衛省等を通り、新宿駅北の大ガードまでの延長8kmの道路。この路線は東京中央部を南北に分ける。

赤城神社(写真) 遠望 昭和28年 ID 564、13029 

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564は昭和27年(1952年)の、ID 13029は、昭和28-29年の、赤城神社の台地からの遠望写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564 赤城神社より早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13029 赤城神社より遠望

 以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。

 ID 13029では、写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。
 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。
 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。
 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。
 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 
 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。
 ID 564は、ID 13029と似た写真ですが、少し左を向いています。大きな煙突が左端に写り、大隈講堂の塔も右に寄った位置に写っています。

ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると

  1. 以前にごみと関係する問題として、河川等の投棄や野積み。排出量の急増。手車での収集のため道路に飛散。ハエや蚊の大量発生。伝染病の拡大。[赤城神社(写真)昭和28年 ID 13029 遠望 もこの頃]
  2. 1954年 「清掃法」制定
  3. 1958年 東京都の第五清掃工場(大型焼却炉6基。生ごみ等の焼却前乾燥。ベルトコンベヤの焼却灰搬出装置。地元に温水給湯サービス)。つまり、ごみの改良がいくつも進む。
  4. 1963年「生活環境施設整備緊急措置法」

航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。

豊来亭?|大正時代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「新宿風景Ⅱ」(新宿歴史博物館、平成31年)に「関東大震災前の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」と「震災後の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」がでています。個人が提供したものです。なお、関東大震災は大正12年9月に起こりました。

 これについて地元の方は……

「豊来亭」の名は「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」をはじめ各種資料では見かけません。また、この写真では場所を特定できません。ただ26の右ののれんの上の横書き看板は、無理に読むと「洋食屋/豊来亭」のようにも見えます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している「職業別電話名簿 東京・横浜」の大正11年版で調べてみました。西洋料理業の項に「寶来軒」があります。新字体なら「宝来軒」ですが、旧字の「寶」は「豊」と誤読しやすいです。

職業別電話名簿 東京・横浜。大正11年

 この店の所在地は「牛、矢来26」-すなわち牛込区矢来町26番地です。現在の地下鉄神楽坂駅あたりですが、ここに「寶来軒」がありました。ただし大正11年の地図では、このあたりは非常に細かく区画されていて、26番地は角地でもないようです。複数の区画に建つ人気店だったかも知れません。

東京市牛込区。大正11年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)ただし


 では27はどうでしょうか。

「震災後に再建した店の様子」と説明がありますが、そもそも神楽坂は関東大震災では被災せず、それが戦前の繁栄につながりました。
 26が左右に出入り口を持つ角店なのに対して、27は間口が狭く、同じ場所には見えません。27の店名看板は「西洋料理 御〇」「御国洋食部」、正面電柱の左側の看板も「御国洋食部」と読めます。
 さらに店名の左右には「電話本所 五九九一番」と書いてあります。つまり27は本所区(現・墨田区)にあった洋食店で、神楽坂ではありません。本所は関東大震災で大きな被害を受けた地区なので「再建」もしっくりきます。
 なぜ、これらの写真が「豊来亭」になったのでしょう。実は職業別電話名簿の「寶来軒」の隣に「寶来亭」が掲載されています。所在地は「本所、中ノ郷八軒23」-本所区中ノ郷八軒町23番です。
「寶来軒」と「寶来亭」の間にのれん分けなどの関係があったのか、「寶来軒」の料理人が震災後に「御国洋食部」に転職したのか。それとも単純ミスか。真相は分かりません。
 なお関東大震災後の「職業別電話名簿」大正15年版にも「寶来軒」「寶来亭」は両方とも掲載されています。

 矢来町26番地について。昭和初期に矢来町だけが番地の分配や再分配を行いました。もともとは明治35年の「夜の矢来」の訳では「君はどちらから来たのですかと他人に問われて、矢来ですと答えると、その人が二の句を発し、矢來は広い所ですねえと必ずいう。でも、そんなに広い所ではないのです。ただ本鄕の西片町と同様で、一か所、番地のなかは中々広い、家が数百ケ戸もある番地があります」。つまり、旧酒井若狭守の下屋敷です。
 明治時代には下屋敷は巨大で過疎地域になり、逆に庶民は小さな平屋に住んでいました。昭和12年になると、この庶民の町は小さな家屋や店舗が一杯に並んだ地域となり、新しい番地が告示され、下の地図も登場します。矢来町26番地はおそらく矢来町126番地になったのでしょう。しかし厳密にいえば、矢来町26番地はどこにあったのか分からない時代になります。しかし、写真26はどう見ても26番地とは違うと感じます。

矢来町。都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

若宮八幡神社(写真)昭和44年 ID 14124~25

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14124 若宮公園(若宮八幡神社)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14125 若宮公園、若宮八幡神社境内

 以下について地元の人は……

 同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。
 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。
 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。
 これから撮影時期は異なると推測できます。
ID 14124
 写真の正面左は流造ながれづくり拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。

ID 14125
 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。
摂社 せっしゃ。神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)。境内にあるほこら、つまり小さな社殿にあるのはサブの神様。サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社」または「末社まっしゃ」と呼ぶ。

牛込神楽坂駅(写真)平成31年 ID 14053-55

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14053~55は、平成31年(2019)1月、大江戸線の牛込神楽坂駅付近の地上の写真を撮ったものです。牛込神楽坂駅は、平成12年(2000年)12月12日開業し、大久保通りに沿って3つの出口があります。
 A3出口は神楽坂上交差点、神楽坂、岩戸町が最も近い場所です。A3出口は右手です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14053 牛込神楽坂駅

 A2出口は袖摺坂、南蔵院、「新蛇段々」などが最も近く、A2出口はこの写真では見えない場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14054 牛込神楽坂駅 A2出口と神楽坂上方面を望む

 つまり、交差点から右側に渡り、南蔵院事務所の影に入って、A2出口は現れます、

 A1出口は牛込北町の交差点寄りで、牛込箪笥区民センター(旧牛込区役所)にあります。横寺町、矢来町などに最も近く、A1も見えません。遠くに見える信号と横断歩道の手前、あるいは左の軽自動車バン付近で、視点から100メートルほど向こうに離れた場所です。なお、左のガラスの壁はタリーズコーヒージャパン本社です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14055 牛込神楽坂駅 箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

[箪笥町]

若宮八幡神社(写真)昭和36年 ID 13987, 88, 90

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 13987、ID 13988、ID 13990を見ましょう。撮影時期は1961年(昭和36年)の秋です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13987 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13988 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13990 神楽坂若宮八幡神社

 8年後の1969年(昭和44年)秋のID 8248と比較します。正面に流造(ながれづくり)の簡素な拝殿、狛犬と石灯籠が左右に1対ずつ。3列の敷石の参道。向かって右には笠をかぶった境内灯と、滑り台とブランコの遊具。敷地の奥には丸紅(株)若宮寮など、ほとんど同じです。
 昭和36年の場合は、区の「若宮児童遊園」の看板が右側の狛犬の向こうにあること。参道の左右に柳らしい木が見えますが、8年後にはなくなっていて別の木が大きく育っています。

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城跡
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 465、ID 8820-8823、ID 8826

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 465、ID 8820~8823、ID 8826は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 465 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8821 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8820 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8822 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8823 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8826 神楽坂六丁目

 ID 8813-8819と異なり、左にあった自動車はなくなり、はるか遠くに停車した自動車は動かず、前の八百政は変わりないですが、奥の八百政はこの時点で開店しました。さらに、これは昭和44年(ID 8273~8276)、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルと変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。なお、ID 8823はID 467と同じ写真です。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

1976年。住宅地図。

横寺町と神楽坂6丁目(写真)昭和48年 ID 8812

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812は、昭和48年(1973年)2月、横寺町から見た朝日坂神楽坂6丁目を扱ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812 横寺町

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。左側の自動車はID 8807からID 8811まで遠くにある自動車と同じでしょう。

横寺町と神楽坂6丁目(昭和48年)
  1. 木に隠れて「内野医院」
  2. 突き出し看板「( 澤)之鶴 飯塚 酒店」Cokeの自動販売機
  3. 多分「寺島巧芸社」。「 ▽ 寺島巧芸社 」(看板・標識製作の会社)。前に自動車。段ボールか書類の山
  4. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  1. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 右門の和菓子 ここ➡」「 買入 丸越」。
  2. 看板「ヤマハ エレクトーン スクール」
  3. 「曹洞宗 龍門禅寺」
  4. 道路反射鏡
  5. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「歯科 川畑」「〇〇堂」
  6. 突き出し看板「歯科 川畑」
  7. (パーマ)スミレ
  8. 突き出し看板「白鷹 寿司清」
  9. 床屋のサインポール
  10. 「フラワー 一紀」
  11. 「ドライクリーニング」

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8813-8819, ID 466

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813~8819は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。またID 466はID 8817と同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8814 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8815 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8816 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8817 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 466 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8818 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8819 神楽坂六丁目

 左にある自動車はバックドアを開き、はるか遠くにある自動車はID 8807からID 8820以上まで同じように停車し、さらにID 8815から見える自動車は、おそらく数十分後になると、なくなり、かわって八百政が店を開くはずです。
 さらに、この撮影は昭和44年(ID 8273~8276)や、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルに変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. 盆栽と盆栽鉢。キャベツ、国光(リンゴ)、愛媛ミカン(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 未開店(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和45年 ID 8316, ID 463

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8316とID 463を見ましょう。ID 8316の撮影時期は1970年(昭和45年)頃、ID 463は1970年3月です。撮影は神楽坂6丁目から朝日坂横寺町までです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8316 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

 立木の葉は枯れ落ち、歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。女子高校生は長袖か半袖。和装の女性はショールを羽織り、右手前の男性はYシャツに薄手のカーディガン。左側にはコンクリート製の\電柱が並んでいます。右側にも電柱があり、最初の1本は神楽坂6丁目でコンクリート製ですが、2本目からは横寺町で木製になります。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和45年)
  1. 看板「(一)紀」「のし 中〇」花輪。開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. 突き出し看板「 (川)畑」
  1. 右下隅、男性の足元の野菜が「青果丸大商事」
  2. 男性が直方体の箱を持っている。葬式?
  3. 「天台宗 光圓寺/伝教大師(御真)作/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「古流 松村崇〇 於 当寺内」
  4. 正面の平屋の八百屋が「広瀬」。「Bonita Banana」「サニー」「西浦みかん」。道路でキュウリの箱。「いちご一山200エン」「「最高品 一山200エン」(みかん)。バナナ。甘夏、玉ネギ、長ネギ、葉物野菜など。出荷時期はたぶん春先の3月と地元の方
  5. 「肉のアライ」「お砂糖はカップ印」「セルフサービスの店 アライ」
  6. 「第一パン」「SELF-SERVICE」「雪印バター」。電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 
  7. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)脚立か鉄枠みたいなものがいくつも立てかけてある。
  8. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  9. 内野医院
  10. (消火栓)

1970年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8807-8811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807-8811は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。なお、ID 467も同じく昭和48年2月、朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8808 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8809 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8810 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8811 神楽坂六丁目

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉はなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。立派な柱上変圧器もありました。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「フラワー 一紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. ビル
  2. 電柱看板「(川)畑 入口 すぐそこ」
  3. キャベツ 国光(リンゴ)愛媛ミカン(八百政)
  4. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師(御真)作 草(刈)薬師如来 閻魔大王尊 安置」「宗顕流 古流 いけ花 松村崇〇 於 当寺内」
  5. 未開店か閉店(八百政)
  6. 「Super ARAI」
  7. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  8. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)
  9. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  10. 内野医院
  11. (消火栓)

1976年。住宅地図。

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 拡大図

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

横寺町(写真)朝日坂 昭和48年 ID 467-468

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467とID 468は、昭和48年(1973年)、神楽坂通りから少し入った場所から横寺町方向を撮影したものです。この2枚は全く差がなさそうです。さらに同じ写真がID 8823としても記録されています。新宿歴史博物館のID 467は「横寺町入口附近。神楽坂通りから朝日坂に入った付近。 昭和48年2月」と説明しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 468 横寺町入口附近

 スーパーARAIと、その次の建物までが神楽坂6丁目。飯塚酒店から先が横寺町になります。左側にはコンクリート製の高い電柱が並んでいます。右側にも電柱があり、最初の1本は神楽坂6丁目でコンクリート製ですが、2本目からは横寺町で木製になります。

全国地価マップ 朝日坂。一部を改変

 写真の坂は朝日坂といい、前後の時代に何度か撮影されています。
 商店街ではないので専用の街灯はなく、電柱からバンドで固定した蛍光灯が出ていて街灯の役割をしています。蛍光灯があるのは片側だけです。
 柱上変圧器もあります。下水は道路の側溝を流れ、子供2人がローラースケートを遊んでいます。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「〇紀」
  2. 理容サトウ。床屋のサインポール ※地図はかすれていますが読めます。
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。
  4. その下に読めない貼り紙。最後が「町会長」なので、おそらくゴミ出しの注意。
  5. 「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗」
  1. 八百政
  2. 大台宗 薬龍山 光圓寺 正藏院
  3. 八百政(ピーマン、みかん)
  4. Super ARAI
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ ココ」(街灯はなく、細い電柱)
  6. 清酒 澤之鶴 飯塚
  7. 内野医院

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25ではよく似た写真がでています。

05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25

1976年。住宅地図。

武士の勲章|納戸町

文学と神楽坂

 池波正太郎氏の『武士の勲章』の小説「決闘高田の馬場」は「面白倶楽部」に昭和33年に発表されました。

 それから五年後——中山安兵衛は、江戸、牛込うしごめ“天竜寺”門前の長屋に住み、麹町の堀内源太左衛門の道場で、師範代をつとめるまでになっていた。
 若い精力のすべてを剣と学問の道に投げ込んで一心不乱の修業が実を結んだのも、菅野六郎左衛門の激励と援助があればこそだったともいえよう。(中略)
 翌日の早朝に、中山安兵衛が天竜寺の長屋へ戻ってくると、長屋中は大騒ぎだった。大草重五郎が路地へとびだしてきて、
「安兵衛殿ッ。一体、何処どこへ行っていたのだッ」
「千駄ケ谷にいる道場の友達のところで碁を打って夜を明かしてしまったよ。ははは」
「それだからわからんはずだ。塩町保久屋細井次郎太夫殿の家や、あっちこっちへ長屋の者が走りまわって、おぬしを一晩中、探していたのだぞ」

 中山安兵衛氏は天竜寺門前の納戸町に住んでいたのは事実です。

それから五年後 小説は元禄2年に始まっているので、5年経った今は元禄7年です。元禄7年2月11日(1694年3月6日)に高田馬場の決闘が起きました。
中山安兵衛 越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生。のちに堀部家の婿養子に中山家のまま入り、元禄10年(1697年)堀部家に変更。
天竜寺門前 天竜寺は新宿区南山伏町と細工町にあった寺。その門前なので、御納戸町か御細工町の家になりました。
麹町 東京都千代田区の1地名。
道場 小石川牛天神下に直心影流の道場を開いた。
師範代 しはんだい。先生の代理で教授する人
菅野六郎左衛門 すがのろくろうざえもん。伊予西条藩松平家に仕える。村上庄左衛門と高田馬場の決闘を行い、中山安兵衛(堀部武庸)の助太刀を得て勝利。しかし、この決闘で、菅野六郎左衛門は死亡している。
大草重五郎 中山安兵衛と同じ長屋に住む中年の浪人。
塩町 塩町は沢山あります。たとえば、大伝馬塩町は日本橋本町四丁目。通塩町の小伝馬下町は中央区日本橋横山町と日本橋馬喰町一丁目。四谷塩町は新宿区本塩町など。
保久屋 ぼくや。荷車の車輪を通す仕事をする店の屋号
細井次郎太夫 松平美濃守吉保の家臣

 これで味方の菅野六郎左衛門と、敵の村上庄左衛門との2人の決闘に呼ばれたと知ります。

 安兵衛は、市ヶ谷の高台を下って喜久井きくいちょうにでると、牛込馬場下ばばしたの居酒屋「小倉屋」の軒先で一息入れ、桝酒ますざけを求めて、一息に飲み干し、口に含み残した冷酒を刀の柄へ霧に吹き、ようやくの色が漂よう高田の馬場へ駈けつけた。
 高田の馬場は、幕府が寛永13年に、弓場、馬場の調練所として二筋の追回しを築き、松並木の土手を配した草丘そうきゅうである。
 安兵衛が駈けつけると、斬合いは、もう始まっていた。
 村上方は庄左衛門の弟、三郎右衛門。中津川祐範の他に、——祐範の門弟、といってもいずれもごろつき浪人などに違いないだろうが、これが八人ほど加わり、菅野六郎左衛門と若党佐次兵衛さじべえを取囲んでいる。
「待てッ。待てッ。叔父上ッ。安兵衛、只今駈けつけましたぞ」
 土手を下って馬場にとびおりた安兵衛を見て、さすがに菅野老人も嬉しさを隠しきれなかった。
「おう。きてくれたかッ」
「安兵衛様ッ。よう間に合うてくれました」
 と佐次兵衛も歓声をあげる。
「卑怯な奴どもめ。これが尋常の果し合いかッ」
 安兵衛は抜き打ちに一人を斬り倒して叫んだ。

寛永13年 1636年。
調練所 ちょうれんば。調練を行なう場所。練兵場。
追回し 馬場の中央に築いた土手
斬合い きりあい。互いに刃物で相手を切ろうとして争うこと。
村上方 敵です。村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門の3人ば安兵衛が確実に殺した人。江戸の瓦版では「18人斬り」になりました。
若党 若い侍。若い従者。江戸時代、武家で足軽より上位の小身の従者。
佐次兵衛 かくたさじべえ。角田佐次兵衛。

 あとは、もう乱戦である。
 佐次兵衛も門弟一人を倒したし、安兵衛は一人を斬るたびに自信が湧き上り、帯を切り裂かれ、左の二の腕に傷を負いながらも凄まじい闘志をみなぎらせ、激しい気合いと共に敏速果敢なる攻撃を行なっては一人、また一人と相手を倒した。
 門弟の残り三名ほどは逃げ散り、中津川祐範の槍だけが、安兵衛の前に突きつけられたとき、安兵衛は、嗄がれて疲れた菅野老人の叫び声を耳にした。
「叔父上ッ」
 思わず振り向きかける一瞬、祐範の槍が閃光のように安兵衛の胸を目がけて繰り出された。
 そのとき、どう動いたのか、安兵衛は自分でもわからなかった。無意識のうちに左手が小刀にかかり、身を捩って祐範の槍を中段から斬り落すと共に右手の大刀は間髪を入れず、祐範の首から肩口にざくッと斬り込んでいたのである。
菅野老人 菅野六郎左衛門のこと。

「叔父上ッ。安兵衛参りましたぞ。相手は村上一人。あとの者は全部斬り捨てましたぞッ」
 安兵衛の、この大声は、もう決定的に村上庄左衛門の余力を奪ってしまった。こうなっては、庄左衛門も菅野老人のトドメの一刀を首に受けないわけには行かない。
 しかし、菅野六郎左衛門も、七カ所ほどの深い傷を受け、この馬場で息を引取った。

 これで味方の菅野六郎左衛門(菅野老人)も敵の村上庄左衛門も死亡します。

 この果し合いの助太刀が世の評判となり、中山安兵衛が、堀部弥兵衛の養子となって、八年後の元禄15年12月14日——吉良邸へ討入った四十七士の一人として活躍したことはいうまでもないことである。