新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807-8811は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。なお、ID 467も同じく昭和48年2月、朝日坂を撮ったものです。
歩道はなく、車道に〇リングで施工したこともなく、立木の葉はなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。立派な柱上変圧器もありました。
神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807-8811は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。なお、ID 467も同じく昭和48年2月、朝日坂を撮ったものです。
歩道はなく、車道に〇リングで施工したこともなく、立木の葉はなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。立派な柱上変圧器もありました。
神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。
休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形の〇リングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。
神楽坂2丁目(昭和44年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
神楽坂1~2丁目(昭和48年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799とID 8800は、昭和48年(1973年)2月、「牛込見附」(現、神楽坂下)交差点近くから神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8800はID 65と同じです。
有楽町線「飯田橋駅」が開通する予定で、そのため道路を開削し、上に鉄板を置いています。埋め戻しは開業後です。
大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」がいくつもあります。電柱の上には大きな柱上変圧器があり、また標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)が左右に1本ずつできています。休日の歩行者天国(ホコテン)も始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」があります。警官が写っていて「ひょっとするとホコテンのスタート時の写真かも」と地元の方。
神楽坂1~2丁目(昭和48年) | |
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建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。
外堀通りの桜は今年で30年目 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。 |
土手公園 現在は外濠公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。
警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。
理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す
坂のすべり止めは一升瓶の底だったか 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船の寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。 |
マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。
UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8299とID 8300を見ましょう。撮影は1970年(昭和45年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
ではID 8299を最初に見ていきましょう。
季節は冬で、歳末セール中。歩道にはみ出す形で吊り屋根があり、提灯に「夢の歳末市福引所」とあります。
正門の中の左側の小屋には「神楽坂通り商店会 福引所 入口」。餅花飾りに重なるようにたくさんの小さな電球が見えます。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。
福引き所の中にはガラガラと回す多角形の箱(正式名称は「新井式回転抽選器」)があり、壁には上位当選者の貼り紙らしきものも見えます。
門柱と石囲いは煤けていて、破損も目立ちます。昭和5年刊の「牛込区史」(臨川書店)の写真と比べると、門柱は戦前のままの焼け残り、石囲いは手直しをしたように見えます。石囲いの柱の寄進者の名前ははっきりと見えませんが、拡大すると丸い紋の下に2-3文字が多いので、おそらくは芸妓の名でしょう。
少なくとも右側の壁の窪みは戦前の写真にはありません。窪みのさらに右には水抜きと思われる穴があり、その上には何か書かれた石版がはめていますが、詳細は不明。
石囲いの向こうは石造の滑り台(児童遊園)です。
手前の左側には車道と歩道を区分する1本のガードパイプ、右側は何もありません。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。
次はID 8300で、正門の右にある脇門を写しています。
女性が花を売る準備をしています。この露天の花売りは「ほんの数年前、平成が終わる頃まで続いていました」と地元の方。門内の左側にある棚のようなものはID 8271-8272と比べると児童遊園の砂場の日よけです。
門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 易断所 藤墳蕙秀 電話 2〇〇 2769番」と卦の6本線(爻)。さらに右側の7字で書かれた看板はこの写真では読めませんが、田口政典氏の「毘沙門天遠景」の看板には「橘田耳鼻咽喉科」。門の両脇の花屋も分かります。
歩道にはガードフェンスがあり、車道に小型トラック「いらない水枕 アイスノン」「柴崎医療器KK」。その後ろは日産サニー。
街灯には「神楽坂通り」、提灯「〇〇歳末市」と餅花飾り。ワイヤーが左右に伸びて提灯5個が下がっています。ただ細いワイヤーには電線が見えないので、提灯が夜に光ることはなかったと思われます。
易占 えきせん。算木、筮竹を用いてする易の占い。
易断 えきだん。易による占い。運勢、吉凶を判断する
卦 け。易で占った結果あらわれる象。陰と陽とを示す二種の爻があり、これを三つ組み合わせた乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤は基本の八卦
爻 こう。易の卦を組み立てている横画。陽爻と陰爻の二種がある。
水枕 みずまくら。後頭部の冷却に用いる枕の一種。氷枕は氷を使う。
けやき舎の「神楽坂まちの手帖」第11号(2006年)から三沢浩氏の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(3)」を引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、茶色のコメントは地元の方のものです。また、(1)(2)も引用可能な分量に限って、引用します。
◆モデル商店街に選ばれた頃 東京都が22の商店街を選んだのは、1982年のこと。神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて、画期的な衣替えをした。けやきが街路樹として植えられ、今までのUFO型だった街路灯が、ガス灯型に変わる。歩道はインターロッキング・ブロックという、新しい噛み合う小型コンクリートブロックになる。車道は坂部分に輪型を残したままだが、歩道との境界ブロックが、美しくなった。嬉しかったのは、両側にあった電柱が片側だけになり、張り巡らされた電線が、半分に減ったことだった。 写真を見て頂きたい。夕方の写真は改造以前の、1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。 しかしこの中心の通りには、今の繁栄と人通りに較べると、寂しいと思われるほどしんみりとした静けさがあった。現在の全国版チェーン店の隆盛と違い、町の顔をつくる商店が、軒を連ねていた。写真に見える「軽い心」の先、「パチンコマリー」の所は「ツインスター」の賑やかな看板に代わる。 |
UFO型 1-5丁目と6丁目は、それぞれ形状の違う円盤形の街灯でした。
ガス灯型 1-5丁目と6丁目の街灯は、どちらも円盤形の後はガス灯型になりました。しかし両者の形状は異なり、6丁目の方は左右のアームに高低差があります。両者が同時整備かどうかは分かりません。映画「神楽坂モデル商店街完成」(6丁目)はガス灯型の例が出ています。
インターロッキング・ブロック インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
輪型を残したまま 急勾配箇所ではアスファルト舗装よりもコンクリート舗装の採用が多い。自動車や自転車がすべりをとめるため『Oリング』と呼ばれる円形のくぼみは、ドーナツ状のゴム製リングで型どりをして施工します。
電柱が片側だけ 6丁目の通りの両側に電柱があります。一方、1-5丁目については昭和54年(1979年)のID 85、ID 87、ID 88、ID 89を見ると、すでに電柱は片側だけになっています。三沢氏が撮影した1980年1月の写真(下図)も電柱は片側だけのようです。
キャバレー「軽い心」 写真参照
ツインスター 1992年12月~2003年、ディスコ「ツインスター(TwinStar)」がありました。閉店し、フレンチレストラン「ラリアンス{L’Alliance)」に変わりました。
◆坂と店構えのあり方 坂下から登り始め最初の路地が「神楽小路」。右角の甘味店「紀の善」は、改造されて昔の面影と違う。歩道から一呼吸あって引違いガラス戸があり、その前に小振りなショーケースのあるのは昔と同じ。心憎い余裕のある入口の気配りだ。「八百屋煎餅」を欲しがる知人がいて、地方に行く時のみやげだった。(省略) 不二家の店頭で「ベコちゃん焼き」を実演していた昔、人だかりで歩けなかった。5年前の建替えで、店先が変わった。歩道からいきなり7段下がって半地下の店へ。そのカーブする階段の左脇で実演があり、さながらまわり舞台のように、階段を降りながらそれが見られる。右の階段を10段登ればコーヒー店。間口4.5mがこの仕掛けで振り分けられ、立休化して人だかりが無くなった。うまい実例である。(省略) 間口が流通の店の3軒分ある「陶柿園」は、陶器の老舗。40年間変わらないこの店先は、恐らく神楽坂でも随一の工夫がある。坂の上と下に、2か所の入口、全面ガラスの店先で奥行きが全部見渡せる。加えて内部が5つのレベルに分かれ階段を登ったり、降りたり。それによって空間構成が見え、客がまるでステージを歩くように見える。ガラス器が輝き、人の動きに加わる。 |
八百屋煎餅 おそらく紀の善独自の煎餅
半地下の店 写真を参照
40年間変わらない 陶柿園の開業は昭和23年(1948年)、ビルを建てたのは昭和47年(1972年)でした。2006年の文章としては、少しオーバーです。
随一の工夫 随一かどうかは分かりません。
奥行きが全部見渡せる 陶柿園ビルは店舗が1階と中2階の二層構造になっています。坂下側から入ると1階、坂上側は「神楽坂写真館」などのテナントの入り口を兼ねていて中2階に入れます。また店内の階段でも上下できます。こうした構造が前面のガラス越し見えるのが、建築家としての三沢氏に興味深かったのでしょう。
◆神楽坂は両側商店街の典型 (省略) 理科大建築学科の沖塩荘一郎名誉教授は、かつて書いている。「二車線の片側は違法駐車であるが、狭くなった車道を通行人が自由に横断している。現行制度では考えられないことだが、これがこれからのまちづくりのヒント」だと。繁栄している商店街は、アーケードを持とうが持つまいが、狭い道巾で車の入らないこと。有名な江東区の「砂町銀座」。巣鴨のおばあさんの原宿である「とげぬき地蔵商店街」など。商店街は両側に店が並び、ゆっくり品定めができ、斜めに横断したり、行き交えることが賑わいづくりには、欠かせない原理ではなかろうか。(省略) 「パタンランゲージ」という、建築都市デザインの文法をのべた、クリス・アレキサンダーという、カリフォルニア大学教授は、そのパタンの一つに店先を扱っている。それも随分と研究し、学生に実験させた。店が一望の下に見えることで、店内に客を呼び込める。当たり前のことだが、大小に関わらず、店舗の入口の必要条件であることを強調している。つまらないことを研究したものと、昔は考えていたが、神楽坂の両側では、その工夫に溢れていることを痛感する。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8287は、昭和45年(1970年)頃、神楽小路から軽子坂方向を撮ったものです。中央の道路は神楽小路で、左側は神楽坂2丁目で、右側は主に神楽坂1丁目です。
以下は地元の方の話で……
「神楽小路を出た突き当たりに升本酒店の倉庫らしき建物と車が見えます。
「下水は側溝で、道が狭いせいか片側だけです。縁石と側溝が大きく『くの字』型に何カ所も折れ曲がっています。現在は、もう少し真っ直ぐになっているようです。戦後、復興を急いだせいもあって地境があいまいなまま家や塀を建てたこともあったようです。そうした表れかも知れません。
「街灯は電柱からエアーポットの看板の下に細長い蛍光灯が出ています。
「看板の多くはバーや小料理屋です。右側の『勝恵』の看板の周辺には小さな看板がいくつもあり、これは後に『みちくさ横丁』と名づけられます」
神楽小路(昭和45年頃) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8284を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、神楽坂一丁目から坂上です。車道は靴店のオザキヤのところで色調が違っています。急勾配のコンクリート坂では、一時的に道路表面に円形の〇リングを埋め込み、滑り止め策をしています。当然、道路の色調は変わります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックで、街灯は丸い巨大な蛍光灯です。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできています。
神楽坂1丁目(昭和44年) | |
「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」という雑誌「Mr. Dandy」(中央出版、昭和49年)での写真です。中扉、いろいろな場所、さらに数枚の神社仏閣ですが、ここでは中扉を扱います。
有楽町線「飯田橋」はまだ未開通です。しかし道路は開削し、上に鉄板を並べるところまで来ています。ただし、埋め戻しは開通後です。標識「神楽坂通り/美観街」も出ています。街灯は円形の蛍光灯一つだけで、これは昭和36年(1961年)以降です。その下に看板「神楽坂通り」。柱上変圧器もあります。
神楽坂1丁目(昭和49年) | |
『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。
私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。 「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町の交番まで来た。 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。 「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。 |
私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「庄」が見える。 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。 日が暮れた、淡い銀と紫―― 蒸し暑い六月の空 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。 |
昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、昭和49年(1974年)12月25日、横寺町から神楽坂6丁目までの朝日坂の写真を取り上げます(地図は下にあります)。歩道はなく、これでも対面通行で、下水は道路の側溝を流れ、電柱の上には柱上変圧器があり、専用の街灯はなく、電柱から電気をもらい蛍光灯があります。
坂が登りになると表面は他と比較して白色になりますが、〇リングは使わずに施工しと思われます。
朝日坂(横寺町→神楽坂6丁目)昭和49年 | |
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田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和59年(1984年)10月6日の写真を上げておきます。坂の右側は神楽坂5丁目が主で、左側は袋町が主です(地図は下にあります)。歩道はあり、下水は道路の側溝を流れ、また坂が登りになると車道は滑り止めの〇リングを使って施工しました。自動車は対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器もありますが、大きなものもありました。街灯は、恐らく水銀灯でしょう。
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和49年(1974年)12月21日に撮影して。ほぼ同じ画角の05-10-45-2と比較します。
まず中央にある「竹兆」の電柱看板は、昭和49年はありません。さらに坂下には3階建ての建物から「八百美喜」の看板が出ていますが、昭和49年は2階屋でした。
「八百美喜」の手前の白いビルは、昭和49年は平屋でした。その手前の庭木は昭和49年より少し大きくなっています。白いビルの前に立つ電柱の街灯は同じ水銀灯のようです。この電柱の広告は「理髪モリワキ」で、昭和49年にも同じ場所に広告があります。昭和49年は斜め線らしき縁取り以外は判読できませんが、05-10-45-3と比べると同じ広告でしょう。
田口氏の昭和49年と昭和59年の写真の中間には、新宿歴史博物館の昭和54年(1979年)の写真ID 79-82があり、街の細かな変化が見て取れます。
ポスター「幼児のめんどう/みて下さる方を/求めています/お電話下さい」と木製の標柱「地蔵坂(じぞうざか)」が見えます。
標柱は「この坂の上に、光照寺があり、そこに地蔵菩薩がある。それにちなんで、そう呼ばれている。また。別名藁店坂ともいう。このあたりに藁を売る店があった。」
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の地蔵坂で、昭和49年(1974年)12月21日の写真を上げます。坂の左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。歩道はあり、下水は道路の側溝を流れ、また坂が登りになると車道は滑り止めの〇リングを使って施工しました。自動車は対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器もありますが、大きなものもありました。街灯は、恐らく水銀灯でしょう。。
地蔵坂(藁店)昭和49年 | |
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の若宮神社(昭和52年、1977年8月27日)の写真を上げておきます。
昭和44年の歴史博物館のID 8247-8248とよく似た画角ですが、いろいろ違いがあります。
一枚目を新宿歴史博物館のID 8247と比較すると、交通標識「自転車及び歩行者専用」と下に「歩行者用通路」の表示。道路には「車両通行止め」のスタンド看板が立っています。この道は昭和44年は「軽自動車以外通行できません」(ID 8252)でした。
二枚目とID 8248を比較すると、木製の鳥居ができています。よく見ると一枚目にも見えます。この鳥居は長持ちしなかったと思われ、『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年3月発行)の写真(下図)では四角い土台だけになっています。
また拝殿の裏側の丸紅(株)若宮寮は建て直し中で、これは地図によると1980年に丸紅若宮荘になりました。
三枚目は新宿歴史博物館にはない写真です。昭和27年3月の新宿区の木札で「現在仮殿のままであり」とあります。『牛込神楽坂若宮町小史』には「昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築」(13ページ)と「昭和25年(中略)に、社務所が建てられ、拝殿は昭和34年(1959年)6月に出来上がりました」(93ページ)と異なる記述があり、区の木札に従うなら後者の記録が正しいかも知れません。
新宿区文化財資料 若宮神社 文治五年(1189)の秋に源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の戦勝祝いに鎌倉の鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請して建てたものであるという。若宮とは仁徳天皇のことである。 のちに太田道灌が文明年間(1469~86)に江戸城鎮護のため再興して社殿を江戸城に向くようにした。 戦災を受けて現在仮殿のままであり境内は児童遊園地になっている。 昭和27年3月 新宿区 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8273~ID 8276を見ましょう。撮影時期は1969年(昭和44年)。撮影は神楽坂6丁目から朝日坂、横寺町まで。歩道はなく、車道に〇リングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。人々は長袖で、中にはコートも着ている人もいます。
神楽坂6丁目、朝日坂(昭和44年) | |
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右側のセルフサービスから、第一パン SELF-SERVICE 雪印バター、セルフサービス アライまでは、地図では、全て荒井精肉店です。このセルフサービスの店は、3年後の1972年(昭和47年)12月、後ろにビル(アライビル)がつき、スーパーマーケットSuper ARAIとなります。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8271とID 8272を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
地元の方から解説を送ってくれました。
街ゆく人はコートを羽織っているので、季節は冬でしょう。 3-4階と思われる高い位置から境内全体を撮影しています。門前の店は2階建てばかりだったので、どこから撮影したのか分かりません。同時代のID 101を見ると可能性があるのは尾澤薬局の屋根の上でしょうか。 境内は多目的に利用されています。 入口は3カ所。本堂(毘沙門堂)に続く正門(A)、その西側の庫裏に続く門(B)、毘沙門横丁から入る脇門(C)です。本堂と庫裏は渡り廊下で結んでいます。 境内は未舗装ですが、主要施設の間には敷石があります。西門の階段など、場所によってはかなり傷んでいます。毘沙門横丁の敷石は、おそらく左(1)が浄行菩薩、右(2)は建屋がある出世稲荷でしょう。 正門前の左側に台のようなもの(3)が置いてあります。献灯のローソク台ような感じです。その後ろの石囲いは壊れていて、ナナメの棒のようものも見えます。「1960年代の東京」(毎日新聞社)の1965年の写真では石囲いは正常なので、何かあったのかも知れません。 正門内の左(4)と本道の左手前(4)は建物の基礎の跡のようになっていて、大きな石も見えます。戦前にあった大道芸や見世物小屋などの常設店の跡かも知れません。語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年、下を参照)には、戦後も境内にダガシヤなどの店があったことが書かれています。 この写真の空地はイベントやお祭りの御神酒所などに使われたようです。よく考えると神輿の御神酒所を日蓮宗のお寺の境内に置くのはおかしいと思いますが、そんなことは誰も気にしていません。今も4丁目の御神酒所は毘沙門様の中です。地方の名産品セールや6月4日の歯科医師会の無料検診会のようなイベント、選挙の演説会などにも使われています。 2カ所、旗の掲揚塔(5)が立っています。寺の行事や街のイベントなどでのぼり旗を掲げていたのでしょう。また西の門脇には「易占/毘沙門天/易断所/藤墳蕙秀」(6)の看板があります。 境内のかなりの部分は区の児童遊園として貸し出されていて、石造りの滑り台(7)、日よけ(夏場によしずをしく)を備えた砂場(8)、藤棚(9)、ベンチや水飲み場(10)、右下のブランコ(11)が確認できます。 ID 8245に見うる鈴蘭灯はじめ、雑多な屋外照明(六角形で囲ったもの)(12)が見えます。参拝者用や児童遊園用など、目的に応じてバラバラに整備したのでしょう。 毘沙門堂は1971年(昭和46年)に建て替えられました。この写真は建て替え直前の様子を残す目的だったかも知れません。児童遊園は小さくなって今もあり、藤棚も形を変えて本堂の手前に残っています。 |
語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年)では、写真よりも、つまり昭和44年よりも、少し昔に起こったのでしょう。
おびしゃ様のこと
毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行善薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に「頭がよくなりますように」と無理なお願い。 節分のときは、子守さんと一緒にミカンを拾いに参りました。渡り廊下のところでお顔見知りの小父さんたちが、いつもと違ってちょっと気取った紋付袴姿で(父もその中に)、豆とミカンを投げるのです。それを家へ持って帰り、ミカンを火鉢で焼いていただきます。風邪をひかないオマジナイでした。 そう、おびしゃ様は神楽坂の子供のディズニーランドだったのです。 母が子供の頃は、右の御門を入って右手に「万長」さんの箱車が幾つか並ぺて置いてあったそうです。その中で母はおままごとをしていて扉を閉められ「ごめんなさい!」と泣き叫んだとか。私か幼い頃もまだ箱車があったような気がします。 これも母の話ですが、裏手には墓所があり夏の夜はお化けごっこをしたとか。また明治か大正の始め頃には、境内に見世物小屋が出ていたとのことでした。 新宿区新小川町ますだふみこ
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 8245~ID 8252を見ましょう。撮影時期は1969年(昭和44年)の秋。なお、多くのことを教えて下さった地元の方に感謝します。
➀ 手前の西の参道の右に看板「公園入口 児童多し/駐車をしないで下さい/牛込警察署」。門柱に「若宮町」と「氏子中」。境内に入って右脇に手押しポンプと水盤。さらに右は「牛込神楽坂若宮町小史」によれば銀杏の切り株。左に木標「神楽坂若宮八幡神社」。その左に新たな屋外灯。手水舎はこの写真では確認できないが、1974年(昭和49年)の雑誌「ミスターダンディー」の写真によれば西参道の左側にあったよう。 境内の向こう側、突き当たりの東の参道に鳥居。脇に神輿倉と思われる町会の倉庫「神楽坂2丁目/町會倉庫」。狛犬2頭の間に「犬を砂場に入れぬこと」の杭が見える。 氏子中 うじこじゅう。 同じ氏神をまつる人々。氏子一同。氏子の仲間。 |
➁ 看板「児童遊園地あり/神社周辺に駐車を禁ず/牛込警察署」。新宿区役所の掲示板(めくれているポスター)「〇期(月?)間/44年11月1日より11月30日」「たくましく/心とからだを/きたえよう!」「誘かいから/子どもを/守ろう」「みんなそろって/ねずみ(駆除)/11月27日から12月3日まで/新宿区役所」「自衛官募集」など。 |
➂ 戦後に再建された拝殿を正面から写真。いわゆる流造(ながれづくり)で、石灯籠や狛犬に比べると簡素で小ぶり。拝殿の右隣には稲荷神社。石灯籠の手前に大きな一対の礎石があり、かつての鳥居の跡とも。看板には「新宿区/若宮児童遊園」。その上に「燈」と「籠」。奥に拝殿。右には児童遊園(ブランコと滑り台)。奥には丸紅(株)若宮寮。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。 |
➃ 中央に狛犬、児童遊園としてはブランコと滑り台、右奥に会社員3人。1人はコートを着用、1人は読書中。狛犬では阿形と吽形のどちらかを出す。阿吽の初めにある阿(口を開いて出す音声)と終わりにある吽(口を閉じて出す音声)があり、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴する。阿形は口を開いた音を出す 。 |
➄ 中央に別の狛犬。吽形は口を閉じた音を出す。右に手押しポンプと水盤。左に石灯籠。 |
➅ 拝殿の左にある「正1位稲荷大神」の稲荷神社。手前に滑り台。奥に丸紅(株)若宮寮。 |
➆ 東の参道に鳥居。柱に「奉」と「献」。門柱に「神楽一」と「氏子中」。「みちはばがなく曲りかど/軽自動車以外通行できません/牛込警察署」。右にベンチとブランコ。左は雲梯とシーソー、箱型ブランコ、砂場。中央に屋外灯。新宿区文化財総合調査報告書2」(都新宿区教育委員会、昭和51年)によれば、「鳥居 寸法 高さ310センチ、幅240センチ。造時 大正15年12月1日建之。銘文 奉(右柱)、納(左柱)」 |
では地元の方の発言から……
江戸期の絵図や明治期の写真に比べて、衰微している様子がうかがえます。境内は石段が組まれて周囲の道より高くなっていますが、これは明治期のものがそのまま残ったものでしょう。 石組みの上に何本かの石柱を立てていますが、塀や柵はありません。参道は東・西・南にあり、鳥居を備えるのはID 8246の向こう側に見える東側のみです。 境内のかなりの部分を区の児童公園として貸しており、遊具やベンチが見えます。屋外照明も、おそらく公園の施設として整備したものてしょう。 |
明治期の写真 右側に若宮八幡神社が見えます。(若宮小路「新撰東京名所図会」第42編)
社殿はその後、明治期に似たデザインに建て替えられ、鳥居や狛犬、石灯籠、石標を一新しました。
現在の鳥居には「建立 平成10年12月吉日」とあります。 また現在の拝殿の右手前には「長㐂火防稲荷神社」があり、これはID 8251の稲荷社の再建でしょう。 左の階段脇には防火井戸があり、これはID 8246の手押しポンプのなごりと思われます。 防火井戸の隣に使われなくなった石盥盤が残っており、享保14年の字が掘ってあることが確認できます。「牛込神楽坂若宮町小史」によれば建て直し前の手水鉢であったとのことです。新宿区文化財総合調査報告書2」(都新宿区教育委員会、昭和51年)によれば、「手水鉢、寸法高さ44.5センチ(台石24センチ)、幅75センチ、奥行42センチ、造時 享保14年己酉年2月日(1729)。銘文(正面)石盥盤、享保14 己酉年2月日」 |
石盥盤の読み方は「せっかんばん」「せつかんばん」「いしたらいばん」などで、手を洗い身を清めること。
若宮会「牛込神楽坂若宮町小史」(若宮会、1997年)では
文治5年(1189年)に建立された若宮八幡宮は、文明年間(1469年~1489年)に太田道灌が江戸城鎮護のため、当社を再興し社殿を江戸城に相対して築きました。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。 明治2年(1869年)の神仏混合禁止令により若宮八幡神社となりました。 境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木がありました。関東大震災(大正12年・1923年9月1日)で黒塀は倒壊し、楠と銀杏は昭和20年5月25日(1945年)の東京大空襲により社殿とともにすべて焼失しましたが、御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。 のちに神楽坂2、3丁目が編入され神社名も「神楽坂若宮八幡神社」と変更されました。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭灯が立っているのが分かります。
ID 5189やID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。
善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。
さらにその前の、戦前の善國寺です。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8020を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目から坂上をねらっています。車道はゴム製リング(〇リング)でつけた滑り止めのドーナツ状の窪みがあります。〇リングが終える時、つまり、ここでは小料理の万平が終わる時に、坂も終わります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックです。また、街灯は丸い巨大蛍光灯です。
新宿歴史博物館ではこの写真は昭和30年代だといいますが、右手の背の高い所にある提灯をよく見て下さい。5文字があり、ID 8019と同じ「神楽坂百年」なのです。したがって、昭和43年だと思います。
神楽坂3丁目(昭和43年) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8019を見ましょう。年は1968年(昭和43年)、月は「神楽坂百年」の提灯があり、頭に浮かぶのがID 8018(「目で見る神楽坂百年写真展」、10月15日~10月25日)で、おそらく10月。撮影は神楽坂2丁目から坂下をねらっています。車道はゴム製リング(〇リング)でつけた滑り止めのドーナツ状の窪みがあります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックで、街灯は丸い巨大蛍光灯です。
神楽坂2丁目(昭和43年) | |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8018を見ましょう。撮影は1968年(昭和43年)です。
これは「目で見る神楽坂百年写真展」で、主催は「神楽坂通り商店会」、後援は「新宿区教育委員会」、10月15日~10月25日まででした。なぜ神楽坂百年なのか不明ですが、この写真の1968年には明治改元100年の記念式典が10月に日本武道館で開催されました。それにあやかったイベントでしょう。また「目で見る…」の「目」にかぶっている提灯は「神楽坂百年」と書いていそうです。
場所は左上の看板の「組合」だけが分かります。日本勧業信用組合(勧信、現在は第一勧業信用組合)は昭和40年5月に神楽坂5-3に本店を置きました。この写真は、それから間もない頃の日本勧業信用組合本店前の様子です。
向かって左側の入り口に、不二家のペコちゃん人形のようなマスコットが立っています。勧信と縁の深い旧・日本勧業銀行(勧銀)のマスコットだった「のばらチャン」のようです。「のばらチャン」は中身が空洞になるソフト塩化ビニール(ソフビ人形)の貯金箱としてノベルティに使われました。勧銀が合併して第一勧業銀行になってからもマスコットを継続し、ソフビ貯金箱は非常に多くの種類が残っているそうです。
左の看板の柱の陰に四角いブースが見えます。宝くじ売り場です。宝くじの販売は勧銀が独占的に受託していて、その縁で勧信にも売り場があります。信用組合としては特殊なケースで、この関係は今日まで続いています。
写真展は万国旗を飾っていて賑やかです。正面ガラスケースに掲示されている写真の右側は「現在の神楽坂」(1937年、昭和12年、ID1)、左側は「大正時代の神楽坂通り」のようです。
会場は店舗前の空きスペースですが、歩道の縁石の切り下げを見ると駐車場を想定していたようです。実際には「勧銀が建つ前には、お祭りの御神酒所や商店街のセール時の福引所などに使われていた」と地元の方。写真左の看板には「正面右側駐車場をご利用下さい」と書いてあり、図もついています。地図でも分かるように、2軒ほど隣に別に駐車場があったのでした。
写真の左は写っていませんが「相馬屋」。右は玩具店「かやの木」で、万国旗に隠れた看板は割れているようですが、ショーウインドウに箱入りのおもちゃが並んでいるのが分かります。この家並みは昭和38-39年のID 12910で確認できます。ID 12910の中央、相馬屋とかやの木の間の石造りの古いビルを建て直して、勧信の本店が建ちました。
ここで勧信についてまとめておきます。
勧信はもともと、勧銀の職域信用組合(産業組合法に基づく保証責任信用購買利用組合互援会)、つまり勧銀の行員のための社内金融組織でした。それを東京の地域信用組合に転換し、昭和40年(1965年)5月、日本勧業信用組合が神楽坂で再スタートしました。発足当初は信用獲得のために伝統ある勧銀との共通性を前面に出していて、社名のロゴタイプは勧銀そっくりでした。
勧信が本店を置いた場所には戦前、東京貯蓄銀行の神楽坂支店がありました。石造りの立派な外郭で、三菱銀行神楽坂支店と同様に戦災で焼け残りました。ただ三菱銀行が戦後、営業を再開したのとは違い、東京貯蓄銀行は終戦間際に合併で日本貯蓄銀行になって消滅しました。
日本貯蓄銀行は協和銀行を経て現在のりそな銀行になるので、勧銀や勧信との直接のつながりはありません。東京貯蓄銀行の神楽坂支店跡は戦後、倉庫などに使われていたようです。それが勧信の本店として再び金融機関になったのは何かの縁でしょう。
勧信は昭和46年(1971年)10月、第一勧業銀行(略称・DKB)の発足に伴って第一勧業信用組合(略称・DKC)に改称。DKBと同じハートのマークをシンボルに使っていました。昭和57年(1982年)11月には四谷に本店を移しました。神楽坂は支店に降格されましたが、現在も店番号は001です。第一勧銀が合併により「みずほ銀行」になった時には名称やロゴマークを追随せず、別の路線をとっています。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7899を見ましょう。撮影は1953年(昭和28年)で、地蔵坂 (藁店)をねらっています。同年のID 5189では、すぐ近くの神楽坂通りに街灯が整備されています。しかし脇道である藁店には全くなく、日が沈むと家の灯りが頼りだったでしょう。舗装はかなり荒れていて、建物や塀が道にはみ出しているようにも見えます。手前には下水(側溝)があるようですが、坂の部分は分かりません。写真に写っている女性や子供は薄着です。軒にはお祭りの飾りが出ているので、秋と思われます。
右手の最初は「富永 写真館」、続いてサンシェードがついた「配給所」(のちの八百 美喜)、ベニアで囲んだ家(のちのチャーリーブラウン)が見え、これ以上の数軒は見えず、最後に民家が見えます。
右側の電柱1本に縞模様と看板があり、その看板は「割烹 山ぐち」と読めます。地図では坂の突き当たりを曲がった右側にあります。左側には理容室のサインポールも見られ、地図で「床ヤ モリワキ」(森脇)と書いてあります。森脇の後面は小林石工店(現在のWARADANA神楽坂)、前面の1階建てが「倉庫」(のちの安達ビル)で、さらに前の建物は「西沢菓子S」(のちの鮒忠、現在は駐車場)でしょう。
ちなみに「床ヤ」は明治39年の「風俗画報」でも理髪師として見られます。ただ、これが現在の森脇ビルにつがるものかどうかは分かりません。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7658を見ていきましょう。時代は1966年(昭和41年)で、全員長袖で、コートを着ている人もいます。撮影の方向は、神楽坂1丁目から坂上に。街灯は蛍光灯一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。道路にたまった雨水などを排水する側溝があります。歩道は昭和37年夏や、昭和41年の「坂のある街」では表面に滑り止め文様がありましたが、昭和41年の後半にややサイズの大きい平らな正方形のブロックに代わり、きれいに並んでいます。この歩道は改修後でしょう。
神楽坂1~2丁目(昭和41年) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7640とID 7641を見ましょう。撮影は新宿歴史博物館では明治中期以降と推定するか、または『新修 新宿区史』では明治40年代の神楽坂入口付近だとしています。場所は赤井足袋店で、瓦葺きです。ここは神楽坂下交差点で、左に行くと神楽坂上に向かい、右に行くと飯田橋駅西口に、前と後ろは外堀通りです。
明治初期の街の灯りの再現で裸火のガス灯から「明治27年頃からは、白光を発生する網状の筒を用いたガスマントル式のガス灯に置き換えられるようになり、街路灯はより明るくなりました」といっています。写真の街灯は以降とは違い、自立的で、ガスマントル式のガス灯だったのでしょう。ヤジロベエに似たものがついた蓋も「ルーカスアウトドアランプ 明治後期」とちょっと似ています。
「赤井」の店名と「⩕」の下に「三」の屋号が大きな足袋の形の中に書かれています。店内の左側には足袋の陳列棚、奥にも細かく分かれた引き出しや棚があります。正面の帳場の左側の男性は仕事道具と思われる長細い槌を手にしています。客は通り側の四角い椅子に腰掛け、その場でコハゼの調整や簡単な修理をしたのでしょう。軒上の表札は4字で「村〇〇〇」のようです。
家の右すぐに斜めにささえる丸太があります。さらに外堀通りの先にも同じような棒があります。実際に電柱のつっかい棒として働いたのでしょう。電柱看板は高い位置の突き出し広告が「染物〇〇〇〇」。低い位置は「政治教育論」と読めます。尾崎行雄の大正2年の著作とは時代が合いませんが、別の本でしょうか?
また自転車の男性の左上には逓信の「〒」マークの「郵便切手・収入印紙」売捌所の吊り下げ看板が見えます。このデザインは修正を加えながら第2次大戦後も長く使われました。「〒」の下には軒灯があります。
左は別の店で「花草」と「辻」の看板があります。木の窓枠の中には植物が見えるので、花屋か植木屋と思われます。よく見ると建物は一体で、赤井足袋店が一部を貸店にしていたのかも知れません。
「ID 7640-7641の赤井足袋店の全体的な様子は、『牛込区史』(昭和5年、牛込区役所、590頁と591頁の間)やID 2(昭和6年)とそっくりです。新宿歴史博物館は『明治中期以降(推定)』としていますが、もう少し時代は新しく、『政治教育論』が刊行された大正初期の可能性があると思います」と地元の方。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2は、昭和6年(1931年)頃、飯田橋駅西口付近より坂上方向を撮った写真です。
街灯は中央やや左に一個あります。解像度が悪いので識別しにくいですが、「神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)」とは違うもののようです。外堀通りの左側には「均一」という大きな文字と、その上に丸い屋号らしき看板があり、昔の「100円ショップ」である「10銭ストア」等でしょうか。右側でも大きな横文字の看板が見えます。
牛込橋に向かって男性3人が同じ学生帽をかぶって歩いています。3人の他に多くの人も車道を歩いていて、歩道を歩く人は少数です。歩道には桜の木が何本も大きくなっています。歩道と車道を区切る縁石もあります。
これは明治・大正名所 探訪記で絵はがきの写真とよく似ています。特に外堀通りにある2店ではまず同じですが、ただ牛込橋の左側の桜の木は1本しか写っていないように見えます。絵はがきの方が時代が新しく、何らかの理由で失われたのかもしれません。
早乙女勝元氏の『東京空襲写真集』を見ると左端の大きな木は葉が茂っていますが、神楽坂寄りの木は折れたようになっています。手前の木は戦後も生き残り、ID 55-56では太くなった特徴的な三股が確認できます。
写真のキャプションでは……。なお、旧仮名づかいはすべて現代仮名づかいに代えています。
神楽坂 新宿が今日の繁昌をいたす以前は神楽坂は山の手の銀座として繁栄をうたわれたものである。しかし今日といえども早稲田という背景をもつがために決して衰微はしない。夜の神楽坂は露店と早稲田学生とそしてその中を彩る神楽坂芸者の艷しい姿でにぎやかだ。 |
新宿歴史博物館によると、この本は仲摩照久編『日本地理風俗大系 第二巻 大東京篇』(新光社、昭和6年)だそうです。さっそく国立国会図書館からコピーをとってもらいました。
神楽坂と市ケ谷 主要交通路は早稲田から飯田橋に至る路並に新宿から同じく飯田橋に行く線は、他の区でも同様であるが、都会の商業、事務の中心から放射状に出ているもので最も重要である。これに交わる電車の通されていない多少広い道路が次に重要な交通線である。尤も矢来町には途中まで電車が敷設された。それ等の中で殊に神楽坂附近はその最も盛な場所であって、関東大震災直後には大商店の分店がここに集って山の手銀座の名があったが、災害地の復興と新宿の繁栄などのために、一時程ではなくなった。 この区は一般に住宅地で、大工場や大商店はあまりない。牛込区が東京市の一部分としての形態を備へ始めたのは極めて最近のことである。元禄の頃には現在の江戸川橋より西方は全く田であり、明治に入っても明治十七年参諜本部陸軍部測量局の測量の東京五千分一の地形図によって見ても、早稲田附近は全く田であり、当時の小日向新古川町附近までは今日の郊外のやうな人家の配列をなし、矢来町附近にも畑や竹藪が多かった。早稲田大学で人家が立並んだのは大正に入ってからのことである。 その住宅地の間に陸軍関係の学校、その他が割合に広い面積を占めている。南部の市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があり、河田町には陸軍経済学校、戸山町に陸軍幼年学校、戸山学校、近衛騎兵連隊がある。 市ケ谷には市ケ谷刑務所があって、未決被告及び被疑者を収容している。 病院の大きなものに済生会病院、衛戌病院、至誠病院などがある。 市ケ谷八幡宮は士官学校の東隣にあって、文明年間太田道灌が築城の際に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。台地上にあって眺望がよい。 |
電車が敷設 矢来町から新橋までの都電の線路は敷設されていた。
関東大震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起きた。
大商店の分店 今 和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)では「三越の分店、松屋の臨時賣場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々一夜に失はれた下町の繁華が一手に押し寄せた観があった」。なお、松屋といっても銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。
江戸川橋 飯田橋付近から関口大洗堰までの神田川はかつては「江戸川」でした。 この江戸川にかかった、東京都文京区関口一丁目を渡る橋は「江戸川橋」と呼びました。
明治十七年参諜本部陸軍部測量局 参諜本部の業務は「機務密謀に参画し地図政誌を編輯し並に間諜通報等の事を掌る」です(明治4年、兵部省陸軍部内条例)。
全く田であり 明治17年の参諜本部陸軍部測量局では小日向西古川町から早稲田大学までは本当に田んぼでした。
小日向新古川町 小日向区東古川町と西古川町。現在の文京区関口1丁目の東の半分。
矢来町附近 やはり矢来町附近は田んぼや畑が多かったといいます。
陸軍士官学校 旧日本陸軍の現役将校養成学校。明治7年(1874)東京市ケ谷に設置。
陸軍経済学校 陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育や経理官への上級教育を行った。現在は東京女子医科大学の一部。
陸軍幼年学校 陸軍将校志願の少年に士官学校の予備的教育を施した学校。東京陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた
戸山学校 陸軍戸山学校。旧日本陸軍で、学生に体操、剣術、喇叭譜などの訓練を施した学校。
近衛騎兵連隊 宮城の守護や儀仗を任務とした旧日本陸軍の師団のうち、主に騎兵の連隊。現在は学習院女子大学、戸塚第一中学校、戸山高校など
市ケ谷刑務所 刑務所で、大正11年から昭和12年まで東京市牛込区市谷富久町にあった
済生会病院 戸山3丁目にあり、牛込恩賜財団済生会病院(済生会病院麹町分院が改称)が移転した病院。
衛戌病院 えいじゅびょういん。旧日本陸軍の衛戍地(軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域)に設置された病院。陸軍病院の旧称。陸軍本病院は陸軍省の管轄であり、昭和4年(1929年)3月 新宿区戸山町(現在地)に移転。その後、国立東京第一病院から現在は国立国際医療研究センターに。
至誠病院 東京女医学校(現在の東京女子医科大学)の学長、吉岡弥生氏は関東大震災の後に下宮比町の至誠病院を入手し、繁栄したが、昭和20年4月、空襲で全焼した。今は東京厚生年金病院から東京新宿メディカルセンターとして発展中。
市ケ谷八幡宮 正しくは市谷亀岡八幡宮。新宿区市谷八幡町にある神社。鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったもの。「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮としている。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12272-73、75と76を見ましょう。撮影は1966年(昭和41年)。街灯には巨大な蛍光灯があります。「縁日」は神社仏閣と縁のある日で、普段以上に御利益があるとされました。毘沙門天の縁日は、戦前は寅(寅毘沙)と午の日の10日に2度でしたが、戦後の昭和29年7月から毎月5日の夜店が出店し、やがて月3回になり、屋台の夜店で賑わいました。なお、ID 12280と12282も同じ縁日の風景です。
ID 12273、75-76のすぐ隣にID 12272の屋台があったと考えます。ID 12272はピンクや赤い色の弁当箱ややかんが売られていて、おそらく、ままごと用でしょう。ID 12273、75-76ではたこやきを売っています。「関西名物」「岡村屋」の文字が見えます。
人間は多く外套を着ています。またID 12273、75-76では「たこやき」の「た」の上、ID 12272でも少し離れた街灯にクリスマスの飾りがあります。12月なのでしょう。
ID 12272には質店の電柱看板「質 倉庫完備 取扱丁寧 大久(保)」、細かく「神楽坂中程マーサ美容室横入」があり、最後に住所「神楽坂3-7」があります。神楽坂3-7とは三菱UFJ銀行の神楽坂支店と完全に一致しています。なお、2007年に無電柱化を行い、電柱は一切なくなりました。明るさを修正すると、向こう側の4丁目の商店の看板が見えます。右から順に「福屋不動産部」、隣は判読できませんが、形状からして日本法令の「届け用紙」の看板で、福田屋文具店でしょう。その次は「尾(澤薬局)」です。他に電柱看板「小野眼科」も見えます。
ID 12273、75-76には電柱看板「中河電気 神楽坂」があり、消火栓看板「カメ(ラ)」もあります。右上に「(COF)FEE + CAKE」と書かれています。これは住宅地図のスゴオ菓子店で、三菱銀行の反対側にあったようです。なお、これらの看板は、やや後の時代のID 101(昭和44年)と照合すると確認できます。おそらく街灯を挟むような形で、図示した位置に屋台が出ていたと思われます。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12125、ID 12126,ID 12127を見ましょう。レンズは外堀通りと神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。信号機はゼブラ柄の背面板があります。
牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあり、この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていたと地元の方。
牛込橋の桜の木はよく見ると若葉がついているようです。
写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「yヽロ映画」)では東映作品「鳴門秘帖」(公開日は昭和36年1月26日)、松竹作品「はったり青年紳士」(公開日は昭和36年3月15日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。
右中央に「赤井商店」が見えますが、その前のID 12126に女性が描かれた看板が見えます。よく見ると『ナポリ』らしき字があり、ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開は昭和35年12月)を佳作座でやっていたのではないか、と地元の人。佳作座は2番館なので、昭和36年に出もいいと思います。
撮影は牛込橋周辺で、新宿歴史博物館の発表では昭和37年になっています。でも、同じ撮影でID 52とID 53では昭和36年4月になっています。よく見ましょう。「yヽロ映画」はどちらも同じ壊れ方。映画作品もまったく同じで、外堀通りから牛込橋に渡る立て看板や、通り沿いにみえる造花の飾りも同じです。造花はカラー写真だとサクラを模したピンクだと確認できます。ID 12125~12127は、ID 52~53の左端の駐車車両は見えませんが、ほぼ同時期に撮影したと推定できます。
では昭和37年と昭和36年、どちらでしょうか? 昭和37年2月以前に撮ったID 55と56を比べてみましょう。「メトロ映画」はさらに「 ヽ凵映画」とぼろぼろで、鈴蘭灯ではなく大型の蛍光灯になっています。ID 52~53とID 12125~27はID 55と56よりは昔なのです。つまり、昭和36年に撮影したのです。
では色を含めて書いておきます。
神楽坂1~2丁目(昭和36年) | |
中村武志氏の「目白三平のあけくれ」(講談社、昭和32年)では……
戦争前の神楽坂を知っている者は、今の神楽坂のさびれようは、尋常一様ではないという感じだ。冬でさえ相当な人出であったが、気候のいい頃は、夕食後にでもなれば、道いっぱいに動きが取れぬほどのにぎわいで、毘沙門天を中心にして夜店も毎晩出ていたものだ。今は五の日に、わずかばかり夜店が出て、昔の名残をとどめているが、それがかえってわびしい思いを与えるのだ。 現在は、だいたい両側とも店舗が並び、形の上ではすっかり復興したかたちだが、家並から受けた戦前の和かさやなつかしさは、今は殆んど感じられない。 国電飯田橘駅で降りて、都電を横切り、神楽坂にかかると、あのゆるやかな勾配の坂を登って行くのも、今は億劫な思いがするのだが、昔は一晩のうちに、幾度でも登ったり降ったりして、散歩を楽しんだものだった。 下から登って行くと、右側の今の神楽小路をはいった「ダンス教室」のあたりに、「つたや」というビリヤードがあった。眼の切れ長の綺麗な娘さんがいて、ゲームを取っていた。昭和五年頃のことだが、私の友だちのS君は、この娘さんにすっかり夢中になって、学校の方よりここへ通学していた方が多かった。私も度々S君のお供をした。 その当時、私たち四、五人の仲間で、短歌を作っていて、一ヵ月に一回くらい歌会なども開いていた。どういうキッカケからか忘れたが、ビリヤードのおやじさんが、私たちに短冊を書いてくれと云った。思いあがっていた私たちは、下手な歌も構わず、それぞれの自作を得々として短冊に書いた。 おやじさんが、その短冊をビリヤードの壁に飾った。それが原因で、そのビリヤードに通っていた日本歯科の学生と喧嘩になった。 「学校を怠けて、歌なぞ作るのは怪しからんではないか」 と、日本歯科の学生が云った。 「君たちだって、学校をさぼって、玉ばかり突いているではないか」 と、S君が反駁した。すると、日本歯科の学生は、 「いや、僕たちは、玉だけだが、君たちは玉を突く上に、短歌も作っているではないか。学生が短歌を作るとは生意気だぞ」 と云った。そして、彼等は、ビリヤードの壁に飾ってあった私たちの短冊を、みんな引きちぎって捨ててしまった。その時の私の歌に、 教師なる友を訪ねむ木曾山の 峡路ほそぼそ朝時雨する というのであった。ほかの歌はみんな忘れてしまったが、これだけは不思議に覚えている。日本歯科の学生の暴力が、ひどく癪にさわったせいだろう。 |
切れ長 目尻が細長く切れ込んでいること
短冊 たんざく。和歌・俳句などを書くための細長い料紙(りょうし。書きものをするための紙)。ふつう、縦36センチ、横6センチぐらい
日本歯科 千代田区富士見にある歯科大学。
癪にさわる 物事が気に入らなくて、腹が立つ。気にさわる。かんにさわる。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12201~12203は、昭和51年(1976年)、神楽坂1丁目の外堀通り沿い、研究社を撮った写真です。ID 12201は右に「理大 薬学部」が写っています。
研究社は英語関係の伝統ある出版社で、1907年(明治40年)1月月に英語研究社として千代田区富士見で設立。1927年(昭和2年)12月に神楽坂印刷工場(地下1階、地上4階)が完成しました。
第2次大戦後の昭和22年に研究社出版が設立され、研究社印刷とは分かれます。研究社出版は富士見町2丁目、研究社印刷は神楽坂1丁目を本社としていました。昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました。
現在は研究社に社名を戻して本社は千代田区富士見にあります。神楽坂の旧ビル跡には賃貸ビルを兼ねた「研究社英語センタービル」(昭和61年2月完成)を建てました。また研究社印刷は工場のある埼玉県新座市に本社を移転し、2022年3月31日に廃業することを発表しました。
では、昭和51年(1976年)に、新宿区はなぜID 12201-12203の写真を撮影したのでしょうか。
1907年に小酒井五一郎氏が英語研究社を設立してから69年になりますので、創立70周年には1年早すぎます。また、神楽坂印刷工場が昭和2年に完成してからは49年間でした。直接、新宿歴史博物館に聞いたところ、理由はわかりかねますとのこと。
しかし、わかりました。地元の方が、戦前の研究社印刷と戦後のものが、全く同じだといったのです(下図)。よく似ているのではなく、本当に同一でした。これは戦前からの焼け残りでした。なるほど。この一棟がやがて消滅するのは残念ですが、だから写真にとったのですね。せめて明治村などに売れればよかったのに。あ、これは昭和2年の建物だった。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6338とID 6340は、昭和33年(1958年)「明治神宮遷宮祭記念自動車パレード」を撮ったものです。ID 6338は神楽坂三菱銀行前で、ID 6340は田原屋前で撮っています。坂下から坂上へパレードは動き、ID 6338では自動車などや、ID 6340では消防庁音楽隊のパレードでした。11月始めに都内各地で行われ、「本日特売日」の横断幕が見えますが、神楽坂通り商店街は「5の日」を特売日にしていたので、撮影日は11月5日かもしれません。
神楽坂4、5丁目(昭和33年)坂上→坂下 | |
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神楽坂4、5丁目(昭和33年)坂上→坂下 | |
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街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかで、センターラインがなく、つまり一方通行になっています。一方通行はこの写真の昭和33年に逆転式に変わったのですが、それ以前は坂上から坂下への一方通行でした。この写真では3丁目から5丁目方向へ車が向いているので、逆転式導入後と思われます。
電柱の上には柱上変圧器があります。歩道と車道の段差はわずかですが、車道の端には雨水を流す側溝があるようです。
人々の密度に非常に高く、警察官も出ています。ID 6338で手紙などを持って走る女性は制服姿で、三菱銀行の職員でしょうか。しかし胸のバッチがスリーダイヤに見えないな、と地元の方。
ID 6340で屋号を見ると、最初の右側の看板は「(べー)コン、ソーセ(ージ)」「牛 豚」「株式会社 福田」肉店で、レストランの「田原屋」、毘沙門天の境内を挟んで「三菱銀行」が続きます。左側の看板は「東京 名物 手焼きせんべい」(せんべい 福屋)と「マケヌ屋洋品」(後のAWAYA洋品店、現在は鮨酒肴 杉玉)でした。
看板についてはID 6338の右から➀消火栓と第一医院、➁山手七福神 毘沙門天、➂土地家屋 野口商会不(動産)と小野眼科、➃電柱看板「質 大久保」が2回、➄三菱銀行、左で➅純フランス菓子 ス(ゴオ)。➆とんかつ フライ うづ巻(紅小路の左2軒目)。➅と➆の間の看板は写真では読めませんが、ここは郵便局なので「葉書 切手 小包 為替」などと小さな文字でサービス内容が書かれていたのでしょう。ID 6340では「松ケ枝」だけが見えます。
昭和30年のID 4893(下図)では、三菱銀行はギリシャの円柱を模した4本の飾りを持つ建物でした。
昭和33年では様相を一変しています。これは戦前の外装を化粧直ししたものと思われます。1軒手前の建物は昭和30年には「おそば春月」でしたが、すでに店はなくなっていてベニヤ板で囲まれています。
なお、脚注も地元の方がまとめてくれました。
遷宮 明治神宮の「遷宮」は戦災の再建社殿に移ったのもので、11/3の明治天皇誕生日の直前らしい。
側溝 後の時代に標準となる歩道と車道の段差は、専門用語では「L型側溝」
小野眼科 新小川町にありました。
ベニヤ板で囲まれて 三菱銀行の駐車場は地図では確認できないとのこと。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。
これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。
近北 |
近南
●は東京理科大学 |
中北 |
中南 |
遠北 |
遠南 |
最遠
最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7900は、撮影日時は平成8年(1996年)2月10日で、地蔵坂(藁店)をねらって撮影しています。電柱の途中から出る街灯は普通の蛍光灯です。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
縁石はなく、白い塗料で歩道と車道を区別し、また道路の両側に1列のコンクリートをつくり、雨水桝からの下水を流します。車道は平坦で、凹凸はありません。人は誰もいませんが、土曜日だからかもしれません。
地蔵坂(藁店)(平成8年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993~5995は、昭和37年(1962年)、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。
昭和36年4月のID 52-53と比べると、牛込橋の車道のセンターラインや歩道の柵、左右の桜の木は同じです。しかし今回の街灯はそれまでの鈴蘭灯から、大型円盤形の蛍光灯に代わっています。左側の電柱広告は「旅館かぐら苑 野乃木」から「大久保質店」に、右側のファサード看板も「森本不動産」から「伊達」に代わりました。
右上の「メトロ映画」の看板は「yヽロ映画」(ID 52-53)から「 ヽ凵映画」(ID 5993~5995)へと老朽化が進んでいます。遠くにキャバレー「ムーンライト」が見えています。
街の様子は、寒いのか外套を着る人もいて、桜も裸木です。ただ歳末セールや正月の飾りのようなものは見えません。
ID 55と56ともよく似ています。左下の手すりが雑巾かシャツで覆われ、すぐ前に同じバイク、右側にも同じ「日軽サッシ」の車も停まっています。ID 55-56、5993~5995は同じ時に撮影したことが分かります。
新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)ではID 5994を使っています。この本は昭和37年3月に出版していますので、この写真は、それ以前に撮影したはずです。
ID 5995の右側の桜の木に、映画のポスターらしきものが見えます。昭和37年(1962)2月11日公開の『天使と野郎ども』ではないでしょうか。とすると撮影は昭和37年2月でしょうか。
日軽サッシ サッシ(window sash)は窓枠全体のこと。日軽は日本軽金属から現在はLIXIL(リクシル)になり、これは建築材料・住宅設備機器業界最大手の企業。
映画のポスター 拡大します。
神楽坂1~2丁目(昭和37年頃) | |
「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土研究会、昭和41年)に「郷土落穂集」という多分事実を集めたものがあります。どこかに原典があるはずです。たとえば「牛込区史」、各種新聞の縮刷版などです。事実1件は部分的にはわかっています。あと1件は残念ながらわかりませんでした。では「郷土落穂集」です。
郷 土 落 穂 集 ・避病院第1号と牛込衛生会 牛込には、中川忠純を会長とする牛込衛生会というのがあった。これによって、明治19年(1886)全国的に流行したコレラ病の発生に際して、升本喜兵ヱら9氏が共同病院設立委員になって建設に活躍したものである。この結果区内78カ町のうち43カ町の賛同、625円の寄附金によって弁天町132番地いまの団地アパート附近に平屋カヤぶきの共同病院を設立したのである。これにコレラ病の患者を多数収容して、伝染病の予防に貢献をしたのであるが、明治27 年(1894)2月廃止したのである。 |
なお前記の共同病院に関しては、左記の記録がある。
一、建 設 明治19年。
一、建設地 弁天町134番地。
一、建設費 1620円66銭は区内43ヶ町1901戸より寄附。
一、地所坪数 634坪。
一、建 坪 90坪6合5勺。(十畳室四、三畳室十二、湯殿二、物置二、死亡室一、渡り椽9坪5勺)
一、処分 明治27年売却。(此金額717円88銭)
本会は本区内の衛生の普及を図る目的で、以内居住者及び関係者を以て組織し、毎月十銭を年二回に拠って出する者を通常会員とし、一時に十円以上醵出する者を終身会員とし、別に会長の推薦による特別会員の定めがある。 |
なお、「牛込区史」と「郷土落穂集」では建設地(弁天町132番地対134番地)と建設費(625円対1620円)の点で違っています。多分「牛込区史」が正しいと思います。
避病院 ひびょういん。伝染病患者を隔離収容した病院。伝染病法は平成11年(1999)に廃止し、感染症法に変わった。感染症法の避病院もなくなった。
中川忠純 東京府組織で第4期(明治16年8月8日から20年9月7日まで)の牛込区長は中川忠純氏でした。
渡り椽 渡り縁。母屋と離れを繋ぐ渡り廊下
※矢来の酒井邸の爆裂 この間『東京新聞』(9月8日付)の「幕末の東京」に淀橋水車小屋の爆発事件を取りあげていたが、牛込矢来の酒井邸の爆裂事件は書かれていないので誌してみよう。 嘉永6年(1853)6月米国使ペリー浦賀に来たるの報は、太平の夢を破った。これより先幕府は急遽海防をゆるがせにできぬとあって、西洋式の火薬の製造を始めた。 牛込矢来下の酒井修理太夫の下屋敷においても、火薬を製造中、水車の心棒の過熱で大爆発を起し、これに従事した者の手足が、往来まで飛び散るという大惨事があった。こうした事故は、技術の未熟から新宿区内では、淀橋、他区では、板橋、世田ガ谷にも時を前後して同様な大爆発事件があった。黒船到来ということで、いかに当時幕府が、あわてたかを物語ることができよう。 |
依然原典は追及中。「牛込区史」や新宿歴史博物館の「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」(平成22年)ではありませんでした。
爆裂 爆発して破裂すること。
9月8日 多分、昭和41年
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5190は、撮影日時は不明ですが、神楽坂一丁目から坂上をねらって撮影しています。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。この街灯の高さ2mぐらいから提灯1つがでています。電柱の上には細い柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
左下側をみてください。正方形コンクリートの二列と縁石から歩道がつくられ、車道に近いコンクリートから鈴蘭灯がでています。また、下水はコンクリートの地下を流れています。
多くの人は車道を歩いています。背広を着ている人が多いようですが、薄いセーターを着ている人もいます。車道は平坦、滑らかです。
撮影した日時はいつでしょうか。昭和30年ごろ(ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899)、車道のセンターラインは明確に書かれています。したがって、この写真は昭和30年より昔です。昭和28年にパチンコマリーが開店しますが、写真上ではまだなく、したがって、これよりも昔です。昭和27年(ID 4792、4793、4794)はまだ鈴蘭灯ではなく、簡素な球形の街灯です。この撮影したのは、街灯が球形から鈴蘭灯に変わる、そのわずかな時間だったのでしょう。昭和27年の秋か28年の春ではないでしょうか。
神楽坂1~2丁目(昭和28年頃) | |
蜂矢歯科 神楽坂6丁目。成金横丁に接する。
神楽坂歯科 神楽坂2丁目。奥まった場所にある。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056は昭和34年(1959年)、第14回「国民体育大会新宿区商業観光まつり」を撮ったものです。花自動車パレードで神楽坂振興会が出展しました。場所は早稲田鶴巻町の早大通りでした。
「神楽坂振興会」は昭和24年に設立し、昭和41年に「神楽坂通り商店会」と改称。神楽坂1~5丁目の商店街です。昼時なのか、自動車に乗っている人はいません。「新宿区商業観光まつり」と書いた看板と、若い水着の女性の等身大バネルだけが乗っていました。この女性は王冠(ティアラ)とローブ(マント)、「(ミ)ス神楽坂 神楽坂振興会」というサッシュをつけています。「新宿区商業観光まつり」の絵図では……
名称 | 簡単な説明 |
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神(楽)坂通り | 通り |
堀部安兵ヱ碑 | 高田馬場の決闘と赤穂浪士四十七士 |
筑土(八幡) | 神社 |
赤城神社 | 神社 |
牛込城址 | 築城年は天文年間(1532〜1555) |
穴八幡 | 神社 |
大田 蜀山人旧居 | 江戸後期の文人 |
毘沙門天 | 寺院 |
関孝和墓 | 江戸中期の数学者 |
漱石猫塚 | 明治大正の作家。飼っていた猫の墓 |
十千万堂 尾崎紅葉旧居 | 明治の作家 |
松井須磨子墓 | 明治大正の女優 |
坪内逍遥旧居 | 明治大正の作家 |
市谷八幡 | 神社 |
お岩稲荷 | 四谷怪談 |
抜弁天 | 神社 |
太宗寺 | 寺院 |
小泉八雲旧居 | 明治の作家 |
新井白石旧居 | 江戸中期の政治家、儒学者 |
島崎藤村旧居 | 明治の作家 |
新宿映画デパート街 | 新宿大通り街 |
(熊)野神社 | 神社 |
神宮維画館 | 明治天皇の維新の大改革 |
競技場 | 国立競技場 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943は昭和32年(1957年)「大東京祭」における「花自動車パレード」を撮ったものです。坂下から坂上への自動車、バスやトラックの「花自動車」パレードでした。「祝 大東京祭」を掲げるオープンカーには女性4人が手を振り、左ハンドル車の運転手が座っていました。
街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。車道は石敷ですが、平坦、滑らかで、センターラインは消え、しかしうっすらと残っています。つまり昭和30年に行った対面通行はやめ、昭和31年には坂を上る方向の一方通行に変えています。もっと遠くのセンターラインは実線が残っています。坂下の交差点の横断幕はおそらく「片側通行帯」で、神楽坂通りが一方通行であることを知らせる目的でしょう。この一方通行が逆転式に変わるのは昭和33年と思われます。
右側の鈴蘭灯は歩道のど真ん中に立ち、左側の電柱は車道寄りの歩道に立っていました。縁石から約30cm内部に新しいコンクリートの列があり、この間の地下には下水が流れていたようです。
ヒデ美容室と山本薬局の間の歩道には段があります。昔の神楽坂の階段のなごりかも知れません。
地元の方はさらに説明します。
太陽堂の横の路地に積み上げてあるのは「火鉢」ですね。大東京祭は都民の日(10月1日)ごろの実施なので、ちょうど需要期でしょう。都の資料によれば大東京祭は昭和31(1956)年が第1回となっています。またオープンカーの頭上の横断幕を、この季節で大胆に予想すれば「紅葉祭」でしょう。 |
神楽坂3丁目(昭和32年) | |
地元の方が三菱銀行について送ってくれました。
三菱UFJ銀行神楽坂支店は神楽坂のランドマークのひとつで、関東大震災以前から商店街の中心にあります。前身は川崎銀行で、合併して川崎第百銀行、さらに戦時統合によって三菱銀行に吸収合併されました。
大正期の川崎銀行の写真は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期にあります。煉瓦造りと思われる建物です。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)にも写っていますが、すでに川崎第百銀行だったはずです。 この建物は、おそらく終戦前に石造りに建て替えられました。戦時中の空襲で焼け残った様子が写真【A】です。戦後しばらくは、内装をし直して再利用していたようです。 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 4871、4893、4899には、昭和30年(1955年)の神楽坂支店が写っています。円柱を模した飾りを前面に持つ立派な建物です。店内は天井が高く、2階建てだったと思われます。 全体のフォルム写真【B】を【A】と比べると、同じ建物であることがよく分かります。後ろの煙突は建物に付属していた焼却炉のようなものでしょう。また写真【C】の入り口上部のアーチ状の飾りが焦げ跡のように見えるのは、戦災のなごりかも知れません。 この写真から間もなく、三菱銀行は写真【C】の右側、隣接する蕎麦屋「春月」の土地を買い取りました。最初は駐車場として使い、それから支店を建て増ししました。 ちょっと分かりにくいのですが、1965年4月の写真【D】 (「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)に写っている神楽坂支店です。【B】とほぼ同じですが、隣の春月はなくなっています。 1968年7月の写真【E】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-1)は、一見すると【D】とよく似ています。しかし建物の外壁や屋上、窓の形状が違い、煙突も奥まって見えます。これが建て増し後の姿です。 とはいえ、戦前の建物では増築しても手狭で不便だったのでしょう。高度経済成長期に三菱銀行は建て直しを決断します。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです。建て直し中、神楽坂支店は5丁目の仮店舗で営業していました。1970年3月の写真【F】 (「東京消えた街角」河出書房新社、1999年)に仮店舗が写っています。旧店舗跡には、現在の4階建ての店舗が建ちました。1972年9月の写真【G】(田口政典氏。毘沙門天遠景。(05-02-32-2)は、完成間もない頃の神楽坂支店です。 その後、三菱銀行は東京銀行と合併、さらにUFJ銀行と合併して現在の三菱UFJ銀行になりました。神楽坂支店の建物も、すでに半世紀を経たことになります。 近年、大手銀行は支店網を縮小しています。三菱UFJ銀行も近隣の市ヶ谷支店、飯田橋支店、江戸川橋支店を相次いで撤退しました。しかし商店街を中心に優良な顧客を抱えている神楽坂支店は残す側になったそうで、複数の支店を同一店舗で束ねる「ブランチ・イン・ブランチ」方式で飯田橋支店と江戸川橋支店を兼ねる形になりました。今後もずっと、神楽坂のランドマークであってほしいものです。 |
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。landmark
神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期 大正期の川崎銀行が載っています。
博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年) 同じブログの下部では『大東京写真案内』の写真が載っています。
5丁目の仮店舗 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(昭和46年)も仮店舗で営業するところをとらえています。
ブランチ・イン・ブランチ 合併した銀行などで、勘定系システム統合前に複数の支店を1か所の窓口にして行うもの
神楽坂のランドマーク 最近の写真は最後に
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899は、昭和30年(1955年)「新宿区商店感謝祭新宿菊まつり花自動車パレード」を撮ったものです。まだこれ以上ものはおそらくあると思いますが、ID 4871とID 4894は「神楽坂田原屋前」、ID 4893とID 4899は「三菱銀行神楽坂支店前」と副題が付いています。
坂下から坂上へのバスやトラックの「商店感謝祭」パレードでした。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかで、実線で描いたセンターラインがあり、つまり対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。電柱は、家のすぐ前に立ち、歩道と車道は境石(コンクリートなどで作った石を埋め込んだもの)をはさんで同じ高さになっています。
車一台目は区の広報車で拡声器があり、上下に「新宿区商店感謝祭〇」。二台目はオート三輪。三台目は伊勢丹の飾りを乗せたトラック。四台目は花装飾の小型車。五台目のトラックも「新宿区商店感謝祭」。さらに後続車。左端にパレードを追い越している乗用車。 |
地元の方の解説は
最も印象的なのは三菱銀行の神楽坂支店です。石造りの立派な建物ですが、店内の天井が高く2階建てだったように記憶しています。 その手前、毘沙門天は石積みの塀があり、戦災の焼け残りと思われます。写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」では、石垣を除いた古い塀が撤去されています。 電柱看板の「牛込家畜病院」は「山本〇」「袋町」と読めるので、後の山本犬猫病院と思われます。 |
鳥羽歯科 6丁目で協和銀行と反対側にありました。
牛込家畜病院 袋町にありました。山本犬猫病院と同じ場所でした。
山本犬猫病院 袋町で、以前は日本出版クラブの対面で、牛込家畜病院と同じ場所です。
車一台目は拡声器のあるバスで、トレードマークが物「マルブツストアー」で「気楽にお買物が出来る店」「新宿区商店感謝祭」。二台目は三輪トラックで「新宿区 菊まつり」「新宿大通商店会」。三台目は越で三越、四台目はJOQRの「文化放送」。少し離れて拡声器があるバス。 |
空中に横断幕「追越注意」と提灯の「和装まつり」。 |
右端の電柱広告は見切れていますが「旅館・和可菜」でしょう。万年筆ののぼり旗は4丁目の福田屋文具店と思われます。福田屋は現在も店はありますが、長く営業していません。 「あなたは右側を通って下さい」の立て看板は、少し時代が違うID 23など複数の写真で見られます。「車は左、人は右」の交通啓蒙用としてある程度の期間、使われたと推測できます。 藁店の角に「スマートボール リボン」が見えます。ここは昭和20年代には「ノーブル 西沢商店」でした。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では 「ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?/そうですね」。 という話になっています。実際は鮒忠の前にスマートボールがあったわけです。 和菓子の五十鈴の手前の「牛」「洋品」「家具」の看板は「堀田肉店」です。なぜ洋服や家具があるかと言えば、ここは戦前の「勧工場」のような共同市場形式の店だったからです。建物の中に通路をつくり、そこを区画して小さな店が入っていたそうです。オーナーが「堀田肉店」だったので、近所でもそう認識されていたのでしょう。「神楽坂フードセンター」という地図の記載もありますが、食品関係の店が多かったようです。1970年代にパチンコ店になりました。 (※注・私の母は毎日ここで、食材の買い物をしていたそうです) |
1本の横断歩道。 |
中央の「おそば 春月」の看板は、戦前から続く名店です。「東京都」とあるのは、おそらく「麺類外食券」が使える店を示したのでしょう。「かぐらむら。67号」の写真には戦後のものと思われる簡素な街灯と春月の看板が見えますが、かなり外観が違っています。その理由はよく分かりません。 商店街の売り出しは中元・歳暮に相場が決まっていて、その合間にイベントを挟むのが一般的です。10-11月の菊祭りは、ちょうどそういう季節ですね。「花自動車パレード」って今は聞きませんが、この車列が音楽を鳴らしながらゆっくり進んだと思われます。だから乗用車や自転車が追い越しているのでしょう。 戦後に発足した新宿区は、明治から「山の手銀座」と呼ばれていた神楽坂地区と、昭和に入ってから急成長した新宿地区の縁が遠かったと言われます。このイベントは両地区を含めて区の商業者の一体感を醸成しようと企画したのでしょう。 ただ飾りつけは新宿地区が中心です。マルブツ(丸物)は関西の百貨店が戦後に東京進出したもので、現在の伊勢丹新館のところに店があったそうです。他地区の商店街では、新宿のイベントが出張ってきたように感じられたでしょう。神楽坂では別に「和装まつり」をしていて、パレードの見物人が寂しいのも、そうした空気を映したものかもしれません。 車列は全部で10台。 1台目 区の広報車。 2台目 オート三輪。花飾り。 3台目 ダンプトラック。伊勢丹(新宿)の飾り。 4台目 小型の四輪車。花飾り。 5台目 ダンプトラック。シチズン時計(淀橋)の飾り。 6台目 バス。丸物百貨店(新宿)の飾り。 7台目 オート三輪。新宿大通商店会(新宿)の飾り。 8台目 ダンプトラック。三越(新宿)の飾り。 9台目 バス。文化放送(四谷)の飾り。 10台目 バス。 バスはいずれもオープンデッキがあり、イベントや選挙用のものです。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792~4794は、昭和27年(1952年)に神楽坂3丁目などを撮ったものです。ほぼ同時期の写真としては、神楽坂2丁目のID 28、ID 29、ID 30や神楽坂5丁目のID 24-27があります。
ただID 30に見える「火の用心」の横幕がID 4792~4794にはありません。またメトロ映画の手前に建築中の建物があり、これは他の写真と照合すると1丁目の「志乃多寿し」と思われます。この場所はID 28とID 30では平屋です。わずかにID 4792~4794の方が新しいと写真と思われます。
メトロ映画の開場は昭和27年(1952年)1月元日、パチンコマリーの開店は昭和28年(1953年)です。どちらもその間の撮影ですが、わずかにID 4792~4794の方が後(新しい)と思われます。
まん丸の街灯は電笠もなく、1本につき一つだけで、簡素です。翌年の昭和28年には鈴蘭灯の時代が始まり、さらに昭和36(1961)年には巨大蛍光灯がでてきます。柱上変圧器もありますが、いかにもほっそりとして、電線も少ないようです。車道は普通で、Oリングはなく、地面に凸凹もありません。歩道板横3枚ぐらいの歩道は車道と高さがほとんど同じです。
ID 4793 では、中央の電気店(マツダの看板)の前あたりで歩道が車道側に大きく傾斜しているのが見て取れます。これは神楽坂通りの急坂を緩くするため、車道を削った戦前の工事のなごりです。こうした建物は、建て替え時に車道にあわせて路盤を掘り下げるようです。長い時間をかけて、坂をなだらかにしているのです。
神楽坂3丁目(昭和27年) | |
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村松友視氏がエッセイ集「風の町 夢あるき」(徳間書店、1984年、文庫版 1987年)のなかで「路地・小路・神楽坂」を書いています。
氏は小説家で、中央公論社で「小説中央公論」「婦人公論」「海」などを編集、1980年「私、プロレスの味方です」で流行作家に。1982年「時代屋の女房」で第87回直木賞を受賞。生年は1940年4月10日。
〽あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの悩ましさ……子供のころ、神楽坂はん子が映画に出ているのをよく見た。あの当時、伴淳の主演するハチャメチャ映画に芸者が出てくれば、久保幸江か神楽坂はん子が出てきたものだ。久保幸江の方は、トンコ節を歌ってニッコリ笑っているだけだったが、神楽坂はん子は何やら芝居めいたシーンもあり、色気の部分を受けもってウィンクなどをやっていた。ウィンクをすればお色気というのだから、まことに戦後的という感じだが、高島田で芸者姿のウィンクも捨てたもんじゃなかった、とまあ、言っておこう。 神楽坂というくらいだから坂だろうと思ってやってくると、やはり神楽坂は坂だった……こんな感想を抱きながら、飯田橋からの坂道をのぼったのは今から二十年ほど前、私は大学の三年だった。 京都から出て来た叔父が、よく神楽坂の旅館へ泊っていて、私はその叔父をたずねてはじめて神楽坂の坂をのぼった。叔父は東映京都のシナリオライター、仕事の打合せや執筆のため使っていたのが、その旅館だった。あのころ祖父と祖母をたてつづけに失った私に、叔父はいくらかの小遣いをくれたように憶えている。その小遣いが楽しみで、私は何度か神楽坂をのぼったのである。 大学を出て出版社につとめた私は、文芸雑誌に配属されると同時に、野坂昭如さんの担当を買って出た。「買って出た」という言い方は、この業界ではピンとくるのだが、読者諸君には腑におちないかもしれない。ま、いろいろあるけれど、野坂昭如さんという作家は、原稿を入手するまでがなかなか大変だという通説があって、その通説は事実と符合していたということでございます。 だが、「エロ事師」からはじまって「骨餓身峠死人葛」にいたる野坂昭如さんの作品に、私などは完全にしびれていた。つまり、野坂昭如さんの担当を「買って出る」意味は、私の中には十分すぎるほどあったのだった。 で、それから私の編集者時代を思うとき、ぜったいに抜くことのできない、野坂昭如さんという作家とのライブが始まった。私は、編集者と読者のあいだにある決定的なちがいは、作家とのライブの時間の有無にあると思っている。編集者が鋭い読者であるという見方は、私の場合は当っていなかった。すくなくとも鋭い読者は、それこそゴマンと存在したはずだ。だが、どんな鋭い読者にもないもの、それは編集者である私の、野坂昭如さんとの特権的なライブの時間なのだ。 |
そんなライブの時間帯の断面に、神楽坂のWという旅館が浮上してくる。締切がすぎて覚悟をきめると、野坂昭如さんは自ら神楽坂の旅館へこもって執筆をする。そこへ、担当編集者であった私も追いかけていって部屋を取って泊る……ま、張り込みですわな。 神楽坂の中腹にある毘沙門さまを背に道の反対側をながめると、紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店がならんでいる。その二軒のあいだに、これはもう路地というよりスキ間という趣きの通り路があり、そこを入ってゆく。向うからヒトがひとり来れば躯を斜めにしなければ行きちがえないほどの小路だが、いかにも神楽坂界隈といった風情だ。両側に黒板塀のある極端に細い小路……写真にでも撮れば、なまじちゃんとした路地なんかより神楽坂っぽいというあんばいだ。 これを見て私は、三島由紀夫家のロココ調を思い出した。ミニチュア、盆栽的スケールの口ココ調なのに、写真に撮れば立派なロココ調という感じの三島家に、私は一度だけうかがってそんなことを感じていた。そう言えば、三島由紀夫さんは、野坂昭如さんの才能をもっとも認めていたヒトのひとりだっけ……そんな思いを胸に、極端にせまい小路をあるき、二、三度段々を降りるようにして進むと、右手に黒板塀のWがある。原稿は果して何枚……期待と不安を秤りにかけるようにして戸をあけるのが、つい一年ちょっと前までつづいた。 81年の10月に出版社をやめた私は、何だか知らないけれどやたらに忙しい身の上となり、やめた直後に、“いかにしたらヒマをつくれるか”という方策を思案する始末だった。そしてまた一年たったが、やはりそのテーマは解決されず、同じテーマを二年目にもちこそうとしている。そんな矢先に、住んでいた古家の柱は腐りすきま風は吹き雨はもるといった状態を解決しようと、思い切って建て直すことにしてしまった。それはいいのだが、仕事のできる場所がなければ……思いあぐねた私は、またもや神楽坂へやってきた。 この東京で、私が旅館のヒトと顔見知りなのはWしかない。で、頼み込んで二週間ほど逗留することになったが、野坂昭如さんをカンヅメにした旅館で、わりに平然と仕事をしている自分の性格にもどこか欠落があるなと感じつつ、やはり平然と原稿などを書いている。これはもう、持って生れた私の鈍感さ、図々しさであり、これがまた皆の衆の前で仕事をする立場には多少は便利だという、実にどうも困ったものでございます。 ま、それはともかく、私は何度目かの神楽坂体験をしているわけだ。引っ越しまがいに荷物をもち込んだ私の部屋は、旅館のカンヅメの風景というより、逃亡中の犯人の仮の宿といったふうになっている。テレビを見るためにはかなり無理をして首を回さなければならず、座椅子に腰かけて切り炬燵に足をつつ込んでいる。目の前には小さなスタンドと原稿用紙、こうなれば仕事をするしかないという、まことに便利というか野暮な設定である。 |
ロココ調 バロックに続く時代の美術様式を指す。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココという
盆栽的スケール 篠山紀信氏の「三島由紀夫の家」(美術出版社、2000年)では、庭園に小さな石像があり、内装の優美さと比べて、玄関も応接室も食堂も、家そのものが小さいのです。
切り炬燵 床に炉を切って、下に火入れを作った炬燵。
ある朝、私は人声で目をさました。すると、「ヨーイ、スタート!」とか、「はい、カット!」とかいう言葉が聞え、私は窓を開けようかとも思ったが、面倒くさくなってやめていた。朝めしのとき旅館のヒトに聞くと、「何か、山本陽子さんが門から出てくるところを撮りたいって言うんで……」私は、旅館のヒトの言葉と朝めしの膳を置きざりにして窓をあけ、写真に撮れば極め付という小路を上からながめたが、当然、あとのまつりだった。 深呼吸をして座椅子へもどり、朝めしにとりかかろうとして、私はハシを宙に浮かせたままになった。さっき窓をあけて上からながめた小路のたたずまいを、私はずっと以前にも見たことがあるような気がしたからだった。 「あの、東映でシナリオ書いてたムラマツという者をごぞんじですか……」 私の向けた言葉に、旅館のヒトはおどろいてしばらく口を手でおさえていた。私が学生時代に小遣いを楽しみにやってきた旅館は、このWだったのだ。あらためて窓をあけた私は、写真に撮れば極め付の神楽坂の小路を、ながいこと見おろしていた。ときどき、目の下を急ぎ足のヒトが行き来する。そんな師走らしい光景は、写真に撮らなくても極め付だった。 |
山本陽子 女優。1942年生まれ、東京都出身。日活ニューフェイスとして芸能界へ。清楚な顔立ちと高い演技力で、清純な女性から悪女までを幅広く演じ女優としての地位を確立。
マーガレット・プライス(Margaret Elizabeth Price)氏の「セクシーな日本」(NECクリエイティブ、2000年)です。氏は1956年、オーストラリア・メルボルン市に生まれ。1982年、毎日新聞社の「Mainichi Daily News」のスタッフライターとして働き、当時はNHK「バイリンガルニュース」や編集企画の方面で活躍。現在はオーストラリア・クイーンズランド州スプリングブルックに住んでいます。茶道歴は30年。
水気のないオーストラリアから、 「水の国ニッポン」 に来たというのに、ずうっと水についていなかった。 住むアパート、住む家、どこも水圧が弱くて、シャワーをジャージャー浴びたことがないのです。それなのに雨の時は、必ず靴に穴が開いて、足がびしょびしょになる。大好きな東京の神楽坂の2LDKから出るはめになったのも水のせいでした。 日本にきた当初は、東京の青山の下宿に住んでいましたが、友達の紹介で音羽のマンションに移り、八年後地上げで追い出され、神楽坂に落ち着いたんです。ところが、四年くらい経ったある梅雨の日の朝、目覚めたら枕元でぽつんぽつんと雨の音。頭をまわしてみたら、天井から大粒の水がベッドに滴り落ちている。雨漏りだ。 大家さんには直接連絡がとれないので、不動産屋さんに連絡をしたけれど、なにも返事がないというのです。雨漏りはひどくなる一方でした。ベッドを動かしても、畳は濡れる。壁にカビがはえる。拭きとっても拭きとってもカビは戻ってくる。ある日、ベッドの後ろを見たら、畳から茸までひょろひょろ生えちゃっていた。 私の肺にまでカビが生えたらしく、咳がとまらない。大家さんがいるはずの住所に手紙を送っても連絡がない。そこで、家賃をストップしたら、深夜やくざっぽい人が電話をかけてきて、 「家賃を払え」 とすごみました。 「でも、雨漏りがひどい」 といったらカシャン。 そんなところへ、大塚の江戸料理「なべ家」の女将、福田敏子さんから、 「古い家だけど、空き家になったから、住んでみない」 と連絡がありました。 ここに住んでいたお舅さんが亡くなったんです。敏子さんは「さくら会」という外国人にお茶を紹介するグループを作っていて、私か日本でお茶の稽古を再開するきっかけとなった先生を紹介してくれた人です。 ご主人の浩さんが江戸料理を再現している料理の名人で、江戸時代の面白いものを集めていることでも有名ですが、 「福田浩は収集癖が高じて家までコレクションしてしまった」 という語り草にまでになっているその家は、もとは芸者さんも入っていた待合で、東京オリンピックのあとの第一次バブル期に木を贅沢に使って建てたものです。天井の模様は全部違っていて、床柱や縁側の柱に珍しい木を使っていますし、庭には大変な石が置いてあります。 「一戸建ての日本家屋」 に住むのが夢だった私は、 「わあ、こんなところに住めるの!」 雨漏りの災難も忘れて絶叫していました。初めて畳の上に布団を敷いて寝ました。 |
と、神楽坂のアパートは4年で終わりました。
なべ家 現在閉店。
さくら会 おそらく休止中
福田浩 料理家。大塚「なべ家」主人。1935年東京都生れ。早稲田大学文学部卒業。家業のかたわら古い料理書の研究や江戸時代料理の再現に力を注ぐ。著書に『完本 大江戸料理帖』(新潮社とんぼの本)、共著に『江戸料理百選』(2001年社)、『料理いろは庖丁』(柴田書店)、『豆腐百珍』(新潮社とんぼの本)など。
待合 待ち合わせや会合のために席を貸すことを業とした茶屋。明治以降は、主として客と芸者に席を貸して遊興させる所。待合。
新宿郷土研究第2号に「ご維新前後の牛込」(新宿郷土会、昭和40年)がでています。なお、筆者は「KI生」だと書かれていますが、この本では編集者の「一瀬幸三」以外には名前は書いていません。「KI生」と一瀬幸三氏、似ています。一瀬氏は東大農学部の獣医で、満洲の動物園や雪印乳業で働き、退職後は郷土史家でした。
江戸から明治に変化し、武士の俸禄はなくなり、そこで慣れない商売に飛び込み、また武家屋敷を茶畑や桑畑に変えた人も少なからずいました。
士族の商法
無血革命によって、慶応4年(1868)は明治元年と改たまり江戸は東京というようになった。 その頃は、 上からは明治だなどと、いうけれど、治明(おさまるめい)と、下から読む。
上方のぜい六どもがやってきて、とんきよう(東京)などと、江戸をなしたり。
などの落首が流行した。 |
□茶畑と桑畑
牛込は屋敷を取りこわして、茶畑にしたところは意外と少くなかった。もっとも朱引内外といって、東は本所扇橋川筋を限り南は品川県境より北は小石川伝通院、池ノ端、浅草、橋場を限りこの範囲なら士族の住居を認めたことにもよるものであろう。 それ以外に武家屋敷では新政府へ明け渡したり、取りこわされたりしたもので、勝手に処分はできなかった、当時の俚謡に、 お江戸見たけりゃ今見ておきやれ 今にお江戸は原となる と、いうのがあった。 明治2年(1869) 武家屋敷をうち捨てておくのは不経済であるというところから「桑茶を植えるべし」と、東京府知事の発令があった。 今般東京府下民産別立之為諸邸宅上地之分御郭内外市在共総て桑田茶園開墾被仰付云々
この当時の地価は牛込神楽坂でも千坪十円から25円位が通り相場であった。しかし、外囲いの費用がかかるので、誰れも引受け手がなかったということである。
牛込で土蔵3ヵ所、表長屋1棟、表裏門共に16両で売り払ったという有名な話もある。 土地はまもなく払い下げられたが、桑茶畑にならないところは便所と屋敷神としての稲荷社のみが残ってうす気味わるく、さびしいものであった。 その頃の俚謡に、 花のお江戸へ桑茶を植えて くわでいろとは人は茶に と、いうのがあった。 (KI生)
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町や岩戸町付近を撮ったものです。
中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
さて、地元の方に解説してもらいました。
この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。
左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。 |
平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。
昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。 |
またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467とID 468は、昭和48年(1973年)、神楽坂通りから少し入った場所から横寺町方向を撮影したものです。この2枚は全く差がなさそうです。さらに同じ写真がID 8823としても記録されています。新宿歴史博物館のID 467は「横寺町入口附近。神楽坂通りから朝日坂に入った付近。 昭和48年2月」と説明しています。
スーパーARAIと、その次の建物までが神楽坂6丁目。飯塚酒店から先が横寺町になります。左側にはコンクリート製の高い電柱が並んでいます。右側にも電柱があり、最初の1本は神楽坂6丁目でコンクリート製ですが、2本目からは横寺町で木製になります。
写真の坂は朝日坂といい、前後の時代に何度か撮影されています。
商店街ではないので専用の街灯はなく、電柱からバンドで固定した蛍光灯が出ていて街灯の役割をしています。蛍光灯があるのは片側だけです。
柱上変圧器もあります。下水は道路の側溝を流れ、子供2人がローラースケートを遊んでいます。
神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年) | |
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田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25ではよく似た写真がでています。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101は、昭和44年(1969年)、カメラを神楽坂3丁目に置き、神楽坂上の交差点方向を撮ったものです。写真の右側は4丁目、奥の方は5丁目になります。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、「神楽坂通り」と花の木をモチーフにした造花があります。消火栓標識と消火栓広告がありますが、広告は空欄のようです。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。
すぐに左に回る路地は「三つ叉通り」という名前が付いています。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では…… なお、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。
林 するとさっきの検番通りに出る。 井上 そこは、道が三つに分かれているので『三つ叉通り』と名付けた。安易だったか。 |
地元の方に意見を聞きました。
撮影時期としてはID 64の神楽坂下(昭和45年3月)や、ID 7430の神楽坂上(昭和45年11月)と近いのですが、違いがいくつかあります。 第一に、歩道です。このID 101は正方形の石を敷き詰めたもので、昭和40年代の神楽坂の「坂のある街」(昭和41年)と同じです。昭和45年はアスファルト舗装に変わっています。 第二に、「神楽坂通り/美観街」という大きな標識ポールが、この写真で確認できないことです。「美観街」の標識は昭和42年の写真(田口氏 05-14-37-1 a b c)にはなく、昭和45年はあります。歩道の舗装と同時工事だったかも知れません。 もう1点、この写真ではほとんど見えませんが、三菱銀行は建て替え前の旧店舗だったはずです。昭和45年には5丁目の仮店舗で営業していました。 以下に、田口氏05-02-32-2などの他の写真で分かることも含めて解説します。
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99は、神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道にはほぼ平坦で、将来できるOリングはまだありません。
これはID 46とほぼ同じです。最大の違いはID 99の左隅1~2mが増えたことです。またトーンカーブのため、見えなかったことが見えるようになったことも違っています。さらに昭和28年(1953年)に撮影したと新宿歴史博物館が正確に示した点です。
神楽坂3丁目(昭和28年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 97は、昭和63年(1988年)に牛込橋方面から神楽坂下交差点を通り、神楽坂1丁目などを、ID 98は神楽坂1丁目から坂上に向かって撮ったものです。おそらく同時に撮影したのでしょう。
街灯は一本に2個の6角形のランタン型で、道路側の灯りは下から上に付き、歩道側は上から下です。交差点は「牛込見附」から「神楽坂下」と名前が変わりました。なお坂上の交差点は「神楽坂」だったものから「神楽坂上」に変更しています。
商店街の名前を示す大きな「神楽坂/美観街」の標識ポールもなくなり、新しい標識ポールができました。向かって右が「神楽坂」、左が「かぐら坂」です。またID 98では右のポールの下に小さな「かぐら坂」もあります。
さらに下には木製の「神楽坂」があり、区が神楽坂について簡単な由来をかいたものです。
上向きの矢印の道路標識はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって車両進入禁止の表示と入れ替わります。
神楽坂1丁目(昭和63年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96は、本多横丁の入り口を撮ったものです。資料は「若宮八幡祭礼神輿、本田横町角」で備考は「1932年」、つまり昭和7年の貴重な写真です。「角」は近くに四つ角や三つ角があるという意味です。
道路は何もなく、歩道と車道もわかりません。
さて、以降は上半分の解説ですが、地元の方の考えを100%いれています。神輿は神楽坂通りを走っています。
1はナナメ渦巻きの床屋のマーク(サインポール)で、理容所を示します。2の看板は右横書きで「理島豊」と読めます。豊島理髪店は「大東京繁昌記|早稲田神楽坂01」に出てきます。3もサインポールと同じデザインで、おそらく豊島理髪店の突き出し看板でしょう。
4はお祭りの御神酒所と思われます。神輿は神様が氏子の地域を回う乗り物で、神輿が地域で休憩する場所を神酒所と言います。よしずのようなもので囲われていて、しめ飾りや提灯らしきものも見えます。
この場所は神楽坂(戦前は神楽町)3丁目で、若宮八幡の氏子地域です。本多横丁を挟んで、この写真の奥側の4丁目(戦前は上宮比町)は筑土八幡の氏子になります。ふたつの神社は現在、1週間程度の間をおいて秋祭りをします。戦前も同じように日を違えていたでしょう。
5は神楽坂通りの街灯です。神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)に出てくる【K】【L】と同じものの下側だけ写っているようです。まだ歩道が十分に整備されておらず、街灯は店の近くに立っていました。神輿の金鵄が柱を隠しているようです。
6も街灯ですが、5の街灯とは形状も、また街灯の向き違います。これは本多横丁の入り口の両側の街灯だからでしょう。特筆すべきは、この戦前の街灯の形状が、終戦から間もないすずらん通り=本多横丁の写真の街灯と酷似していることです。鋳物製と思われるので、焼け残って再利用されたかも知れません。
7は「天〇 㐂作」と読めます。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第5号の「戦前の本多横丁」によれば「天ぷら・喜作」という高級店があったそうです。その案内広告ではないでしょうか。また、この広告が貼ってある板壁の家は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期に写っている竹川靴店と思われます。
8は仮名の「し」に見えますが、神輿の屋根の角にある巴字型の飾りと思います。
9は「本〇所」のように読めます。「本多横丁」や「神楽坂」と面白いけれど、さすがに違うようです。
最後に、地元の方に提供して頂いた写真を添えておきます。5~6歳と思われる子供が「上宮比」のお祭りのはっぴを着て、頭には「神」の手ぬぐいをはちまきにしています。撮影は昭和8-9年ごろということで、ID 96とほぼ同時期です。
東京神楽坂の「ほてや」の広田初蔵氏は「神楽坂花街今昔談」(そめとおり、染繊新報本社、1974年)で「出の着物」について書いています。「出の着物」とは芸者さんが着る正月用の着物です。まず聞いたことかない「出の着物」って今もあるんでしょうか。
出のキモノの着付けも 神楽坂花街今昔談 東京神楽坂「ほてや」広田初蔵氏談 最的に売放し一方の呉服屋が多く、多店化して、後向きの仕事をマメにする呉服屋も少い折柄、店は家族だけで、従業員は一人もおらず、店を大きくする気もなく、また表面的な甲斐性もない代りに斜陽化している神楽坂花街を、中心的な対象として、コツコツ商いしている「ほてや」のような呉服屋もある。以前から聞いていたがここの広田氏は、神楽坂花街の筋の通った芸妓の「出のキモノ」の着付けにかけては、神楽坂花街ではタッタ1人の名人であって、正月の神楽坂花街は、広田氏の着付けによって、華やかになっていく。(中略) 箱屋がする「出のキモノ着付けの第一人者」と云う方が、花街相手の呉服屋らしく徹底していて良い。多店化して企業家振っている呉服屋が、マスコミを賑わせている反面に、昔乍らのこう云う呉服屋もあると云う紹介である。(山口) 半衿小物屋の母屋「ほてや」 私は初代でして、奉公に上っておりました主人のお店が「ほてや」と申しまして、店の前の蕎麦屋の所にありました。 「ほてや」と申しますのは、主人から聞いておりましたところでは、京都では七福神の「ほていさん」の事でして、そこから縁起をとりまして「ほてや」と云う屋号にしたと聞いております。 |
花街 かがい。はなまち。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。いろまち。花柳街。
広田氏 「ほてや」の主人。
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者
日本髪全盛の頃には、重宝な店として、大勢のお客様に支持されていたものでした。 栄えますと、兎角油断が出来るものでして、遊里でよく遊んで歩いていました主人は、遂いにやっていけなくなりまして、昭和6年一杯に、店を閉じて了いました。 私なんかは数少い戦前派の呉服屋と云えましよう。現在、神楽坂には、呉服屋と云うのは、私の店がタッタ1軒しかありませんが戦前は私の店を入れまして、合計四軒の呉服屋が、競争していたものでした。 今は伊勢丹に合併されて、姿を消して了いました「ほていや」も戦前は神楽坂の表通りで、店を張っていましたし、半衿小物屋もありましたし、神楽坂花街が全盛だったように商店街も栄えていたものでした。 |
出のキモノを着せる人なし 箱屋も昔は、神楽坂に大勢いましたが、今は検番に二人いますだけでして、それも検番の事務をやっているだけの事ですし、芸妓の着付けをしようともしません。 正月の出のキモノの着付けと云うものは、箱屋が少くなりましたし、置屋の主人が、着付けをしていたものでした。 |
アフターケアーで私が着付けを 別に誰に、着付けを教えられたと云う訳でもありませんが、私としては、商いをしていく上に於いて出のキモノの着付けを、覚えざるを得ません。 いつの間にか、出のキモノの着付けでは、私が第一人者だと、云われるようになりましたけれど、神楽坂と云う箱屋のいない花街相手の呉服屋である以上は、これも店の特色の一つだと思っています。 花街がある限りは、出のキモノがあり、その着付けが、要求されますが、箱屋の仕事までやっています私のような呉服屋は、日本中に私一人かも知れませんね。 |
池波正太郎氏の『武士の勲章』の小説「決闘高田の馬場」は「面白倶楽部」に昭和33年に発表されました。
それから五年後——中山安兵衛は、江戸、牛込“天竜寺”門前の長屋に住み、麹町の堀内源太左衛門の道場で、師範代をつとめるまでになっていた。 若い精力のすべてを剣と学問の道に投げ込んで一心不乱の修業が実を結んだのも、菅野六郎左衛門の激励と援助があればこそだったともいえよう。(中略) 翌日の早朝に、中山安兵衛が天竜寺の長屋へ戻ってくると、長屋中は大騒ぎだった。大草重五郎が路地へとびだしてきて、 「安兵衛殿ッ。一体、何処へ行っていたのだッ」 「千駄ケ谷にいる道場の友達のところで碁を打って夜を明かしてしまったよ。ははは」 「それだからわからんはずだ。塩町の保久屋や細井次郎太夫殿の家や、あっちこっちへ長屋の者が走りまわって、おぬしを一晩中、探していたのだぞ」 |
中山安兵衛氏は天竜寺門前の納戸町に住んでいたのは事実です。
それから五年後 小説は元禄2年に始まっているので、5年経った今は元禄7年です。元禄7年2月11日(1694年3月6日)に高田馬場の決闘が起きました。
中山安兵衛 越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生。のちに堀部家の婿養子に中山家のまま入り、元禄10年(1697年)堀部家に変更。
天竜寺門前 天竜寺は新宿区南山伏町と細工町にあった寺。その門前なので、御納戸町か御細工町の家になりました。
麹町 東京都千代田区の1地名。
道場 小石川牛天神下に直心影流の道場を開いた。
師範代 しはんだい。先生の代理で教授する人
菅野六郎左衛門 すがのろくろうざえもん。伊予西条藩松平家に仕える。村上庄左衛門と高田馬場の決闘を行い、中山安兵衛(堀部武庸)の助太刀を得て勝利。しかし、この決闘で、菅野六郎左衛門は死亡している。
大草重五郎 中山安兵衛と同じ長屋に住む中年の浪人。
塩町 塩町は沢山あります。たとえば、大伝馬塩町は日本橋本町四丁目。通塩町の小伝馬下町は中央区日本橋横山町と日本橋馬喰町一丁目。四谷塩町は新宿区本塩町など。
保久屋 ぼくや。荷車の車輪を通す仕事をする店の屋号
細井次郎太夫 松平美濃守吉保の家臣
これで味方の菅野六郎左衛門と、敵の村上庄左衛門との2人の決闘に呼ばれたと知ります。
安兵衛は、市ヶ谷の高台を下って喜久井町にでると、牛込馬場下の居酒屋「小倉屋」の軒先で一息入れ、桝酒を求めて、一息に飲み干し、口に含み残した冷酒を刀の柄へ霧に吹き、ようやく陽の色が漂よう高田の馬場へ駈けつけた。 高田の馬場は、幕府が寛永13年に、弓場、馬場の調練所として二筋の追回しを築き、松並木の土手を配した草丘である。 安兵衛が駈けつけると、斬合いは、もう始まっていた。 村上方は庄左衛門の弟、三郎右衛門。中津川祐範の他に、——祐範の門弟、といってもいずれもごろつき浪人などに違いないだろうが、これが八人ほど加わり、菅野六郎左衛門と若党の佐次兵衛を取囲んでいる。 「待てッ。待てッ。叔父上ッ。安兵衛、只今駈けつけましたぞ」 土手を下って馬場にとびおりた安兵衛を見て、さすがに菅野老人も嬉しさを隠しきれなかった。 「おう。きてくれたかッ」 「安兵衛様ッ。よう間に合うてくれました」 と佐次兵衛も歓声をあげる。 「卑怯な奴どもめ。これが尋常の果し合いかッ」 安兵衛は抜き打ちに一人を斬り倒して叫んだ。 |
あとは、もう乱戦である。 佐次兵衛も門弟一人を倒したし、安兵衛は一人を斬るたびに自信が湧き上り、帯を切り裂かれ、左の二の腕に傷を負いながらも凄まじい闘志をみなぎらせ、激しい気合いと共に敏速果敢なる攻撃を行なっては一人、また一人と相手を倒した。 門弟の残り三名ほどは逃げ散り、中津川祐範の槍だけが、安兵衛の前に突きつけられたとき、安兵衛は、嗄がれて疲れた菅野老人の叫び声を耳にした。 「叔父上ッ」 思わず振り向きかける一瞬、祐範の槍が閃光のように安兵衛の胸を目がけて繰り出された。 そのとき、どう動いたのか、安兵衛は自分でもわからなかった。無意識のうちに左手が小刀にかかり、身を捩って祐範の槍を中段から斬り落すと共に右手の大刀は間髪を入れず、祐範の首から肩口にざくッと斬り込んでいたのである。 |
「叔父上ッ。安兵衛参りましたぞ。相手は村上一人。あとの者は全部斬り捨てましたぞッ」 安兵衛の、この大声は、もう決定的に村上庄左衛門の余力を奪ってしまった。こうなっては、庄左衛門も菅野老人のトドメの一刀を首に受けないわけには行かない。 しかし、菅野六郎左衛門も、七カ所ほどの深い傷を受け、この馬場で息を引取った。 |
これで味方の菅野六郎左衛門(菅野老人)も敵の村上庄左衛門も死亡します。
この果し合いの助太刀が世の評判となり、中山安兵衛が、堀部弥兵衛の養子となって、八年後の元禄15年12月14日——吉良邸へ討入った四十七士の一人として活躍したことはいうまでもないことである。 |
石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「船河原橋」についてです。氏は東京都公文書館主任調査員として勤務し、昭和48年に「近代作家の基礎的研究」を刊行し、「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆。生年は1916年8月24日 、没年は1987年。享年は70歳か71歳です。「船河原橋」では……
船河原橋(ふながわらばし) 新宿区下宮比町から東へ文京区後楽二丁目に渡されている鉄筋コンクリート橋。旧橋はやや上手に江戸川へ架されていて、寛文の江戸図では「どんどばし」と記されており、正保の絵図にはないので神田川開さくのあとほどなく創架されたと思われる。 |
やや上手に 江戸時代の船河原橋を2枚、明治早期は3枚、明治後期と大正時代2枚。さらに昭和51年と現在の地図。
寛文の江戸図 新板江戸外絵図。寛文五枚図の外周部にあたる4舗。寛文11-13(1671-1673)刊
正保の絵図 正保年中江戸絵図。正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから
開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
創架 新たに上にかけ渡す。架橋
新撰東京名所図会には「船河原橋は牛込下宮比町の角より小石川旧水戸邸、即ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいう。俗にドンド橋あるいは単にドンドンともいう。江戸川の落口にて、もと堰あり、水勢常に捨石に激して涼々の音あるに因る。此橋を仙台橋とかきしものあれど非なり。仙台橋は旧水戸邸前の石橋の称なるよし武江図説に見えたり。旧松平陸奥守御茶の水開さくの時かけられしに相違なしという。」と述べ、この橋下を蚊屋が淵と称したことを「蚊屋が淵は船河原橋の下をいう。江戸川の落口にて水勢急なり。あるいは中之橋と隆慶橋の間にて今大曲りという処なりと。江戸砂子に云う。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗わせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」と伝えている。 |
「どんど」「どんどん」などは水音の形容からきたもので、同じ江戸川の関口の大洗堰のことも「どんど」と呼んでいたし、また大田区の道々橋は「どうどう橋」が本来の呼び方でこれも水音から起った名であろう。江戸川は上流の大洗堰からこの船河原橋までが、旧幕時代のお留め川(禁漁区)で有名な紫鯉が放流されていたが、どんどんから下へ落ちた魚は漁猟を許したので、ここの深瀬は釣人でにぎわったと伝えられる。 |
関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
大洗堰 神田上水の取水口のこと。堰とは水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。目白台側の神田上水に取水され、余った水が落ちて流れて江戸川(神田川)となっていた。
お留め川 おとめかわ。河川,湖などの内水面における領主専用の漁場
紫鯉 頭から尾鰭までが濃い紫の色をした鯉
いざ給へと小車の牛込を跡になしつつ、舟河原橋はいにしえのさののふな橋ならで、板おおくとりはなして、むかしながらの橋ばしら皆ゆるぎとりて、あらたにたてわたしてなんとすなる。(ひともと草) 関口の峯より落つるどんど橋(諧謔) 船河原橋にて、電車を下りて築土八幡に至る。せせこましき処に築土八幡と築土神社との二祠並び立ち、人家もあり、樹木も高くなり過ぎて矚望を遮りたるが、これらの障害なくば、ここは牛込台の最端、一寸孤立したる形になりて四方の眺望よかるべき処なり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年) 現橋は昭和45年竣工のコンクリート橋で橋長21.1メートル、幅24.1メートル。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 95は、平成2年(1990年)10月19日位に神楽坂1丁目を撮ったものです。電柱はまだあり、無電柱化はまだです。
街灯は1970年代のものから更新されています。左右にバーが突き出し、道路側はバーの上、歩道側はバーの下に6角形のランタン型の灯りがついています。
その下にも左右にアーム(この用語は日本照明工業会規格によっています。訳すと横木でしょうか)があります。これは催事の時に告知や飾りを下げるものです。以前の街灯では、ススキや笹のような形状の飾り(神楽坂3丁目(写真)昭和54年 ID 87)を斜めに差し込むパイプがあり、季節ごとに街を彩っていましたが、これはなくなりました。
この写真では左右のアームに「毘沙門天 おえしき」「十月十四日」と書いた提灯がぶら下がっています。おえしきは御会式と書き、日蓮宗の各寺で、日蓮の忌日(10月13日)に営まれる、宗祖報恩の法会です。さらに下のアームの「神楽坂」は常設の金属製のものでした。
商店街の名前を示す大きな標識ポールも一新されています。向かって右が「神楽坂」左が「かぐら坂」とあり、「美観街」はなくなりました。
「軽い心」の跡には複合商業施設の「カグラヒルズ」が建ちました。カグラヒルズの竣工は1982年です。看板が出ている丸和証券は1970年代には通りの向かい側にあったので(神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86)こちらに移転したのでしょう。
神楽坂1丁目(平成2年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 93は、昭和54年(1979年)の北東部の神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。
神楽坂1丁目(昭和54年) | |||
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外 堀 通 り |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 92とID 11867は昭和54年(1979年)、神楽坂を撮ったものです。
ではなんでしょう。私はまったくわかりませんでした。トーンカーブを変えてみると「手つき餅 入荷」が沢山でてきます。コピーではなく、自書したものです。手つき餅とは機械ではなく手でついた餅。これは年末につくこともありますが、ID 94では昭和54年1月17日に撮ったと書いてあり、これも昭和54年1月でしょう。
「元の写真をよく見ると『神楽坂食品』がでてきます」と、地元の人。「現在は神楽坂フードセンターですが、山之内ビルとして竣工したのが1984年9月です。写真は旧店舗と思われます。ただし『バイクが停まっていただけ』かも知れませんけどね。(笑い)」
以上、私も神楽坂食品だと思いたい。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 91とID 11861は、昭和54年(1979年)、神楽坂を撮ったものです。細い注連縄を飾っているので正月のようです。
インターネットを調べるとマッチ・コレクション/COFFEE & SNACK「チキータ」という情報がありました。神楽坂6-27とあり、確かに1978年の住宅地図にも掲載されています。
しかし写真の「チキータ」の前には歩道があり、右の標識のあるところは歩行者用道路のようです。そうなると地図とは一致しません。
解像度の良いID 11861を詳しく見ると、チキータの右の道に面して「鳥安商店」の看板が見えます。右中央に「グ屋」、右端は「クリ(ーニング)」のようです。
これを手かがりに地図を探すと、早稲田通りから白銀公園に向かう道に「鳥安商店」があります。鳥安商店の手前は1970年の地図では「辰巳ランドリー」、1980年は「辰巳クリーニング」です。
「チキータ」は、この道の曲がり角にあったと推測されます。写真ではテントは南向きと思われ、強い陽差しが当たっています。この条件にも合致します。
住宅地図の表記は1970年が「コーヒースーイン」、1978年が「スーイン」、1980年が「MON」です。音楽之友社の裏側の「チキータ」との関係は分かりません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 90とID 11857、ID 11858は、昭和54年(1979年)1月に神楽坂6丁目を撮ったものです。
より鮮明な写真がID 11857として保管されていました。まるで印象が違いますが、同じ写真です。
車の向きから午後と分かりますが、人通りは少なく閉まっている店もあります。門松も見えるので、正月休みの間かも知れません。
街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、神楽坂1~5丁目と違って、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。また「神楽坂 商栄会」の看板がついています。大久保通り西側の6丁目だけの商店会で、1~5丁目の神楽坂通り商店会とはライバル関係にあり、街灯も別々に整備しました。商栄会は昭和58年4月に、現在の「神楽坂商店街振興組合」に改組しました。
この街灯とは別に、高い場所にナトリウム灯らしき別の街路灯があります。神楽坂1~5丁目の神楽坂通りが新宿区道なのに対し、6丁目の早稲田通りは都道です。恐らくは都が、商店会の街灯と別に整備したのでしょう。
電柱の上には柱上変圧器があります。
ID 11858は、音楽之友社の向かいの「おもちゃのテルイ」をねらっています。店の前のガードレールに1対の細い棒を立て、注連縄で結んでいます。棒の足元には松飾り、店の入り口の上には正月飾りがあります。この時代、正月休みでも子ども相手に店を明けている玩具店は多かったといいます。
向かって右のショーケース内にモデルガン、スロットカー、野球盤など。その前には女児向けの人形ハウス(キッチンなど)。左側には天井から大きな動物のぬいぐるみ、バスケットボール、樹脂製の刀(チャンバラ用)などが下がっています。店頭の歩道上にはトミー(現タカラトミー)の古いロゴマークのダンボール箱を出して、ラケットを売っています。その右、四角いケースが2つ並んでいるのはカプセル玩具(ガチャガチャ)の販売機で、空けたカプセルを足元のゴミ箱には捨てるようにしていたと思われます。
店の左側には突き出し看板「ベビーバ(ギー) サービスショップ」があります。その下に数人の子どもが集まっているのは、何かの販売機かも知れません。
ロゴマーク 以前のトミーのロゴマークは……
神楽坂6丁目(昭和54年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 89とID 11866は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂3~4丁目を撮ったものです。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が横断歩道の左右に1本ずつ立っています。
神楽坂3丁目(昭和54年) | |
この写真について地元の方は……
新宿歴史博物館の写真で、神楽坂4丁目付近は少ないですね。この写真の時代、まだ個人商店の多くは2階建てでした。他の記事にはない店を中心に思い出を書いてみます。 左端、「スゴオ洋菓子店」はケーキと喫茶の店です。古い店をビルにして、1階と中2階を自分で使っていました。しかし商売がうまくいかずにビルを手放し、店子として続けていた店も閉店。後に入った店も定着せず、再びビルが人手に渡った後で隣の「楽山」が買い取りました。「大佐和」時代からの店と、スゴオのビルを合わせて建て直したのが、現在の楽山ビルです。 五十番の向こうの「宮坂ビル」は、向かいの「宮坂金物店」がオーナーです。ぜいたくなことに1階を倉庫に使い、2階以上を貸していました。2階には「坂の上の2階」という個性的な名前の喫茶店がありました。このブログの記事「上り下りも世につれて…(昭和51年の読売新聞)」のイラストに出てきます。写真では「中国料理五十番」のテントの下に見えている三角屋根の下から2階に上がりました。 その隣、細々した商品が並んでいるのは「坂本ガラス店」です。本業は建物のガラス工事なのですが、人形ケースなどから派生して各種の装飾品を扱っていました。今はビルになって「金谷ホテルベーカリー」が入居しています。 さらに向こうの「鳥忠」は人気の居酒屋で、5丁目の「鮒忠」とよく比べられました。大きな違いは「鮒忠」がチェーン店だったのに対し、「鳥忠」はここにしかないオーナー店だったこと。にも関わらず「鳥忠神楽坂店」の看板を掲げていたのは、鮒忠を意識して、大きなチェーンなのだという印象を客に与えようとしていたのかも知れません。廃業後にビルを建て、セブン-イレブンになりました。 「神楽坂通り」の大きな標識の向こうは木村屋パン屋のビルです。まだ高い建物が少ないので、よく見えました。 右側の「サムライ堂」は戦前から続く名店ですが、この時期は自社ビルを建てて頑張っていました。今は閉店してワインバーに店を貸しています。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 88と ID 11868は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂3丁目を坂上から坂下に向かって撮ったものです。また ID 11869はさらに坂下に向かった場所です。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。街灯には正月の飾りとして、細長い竹と足元に松が結びつけられています。
車道の舗装は中央に大きなひび割れがあります。アスファルトではなく、半分ずつ交互にコンクリート舗装をしたからと思われます。右手前のすぐ後ろからは坂道用のΟリングのくぼみが沢山見えます。
千代田区の建物については私はわかりません。
神楽坂3丁目 | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 87とID 11870は、昭和54年(1979年)の神楽坂2丁目の坂下から坂上に向かって撮ったものです。
「あけましておめでとうごさいます」の看板などから正月だと分かります。ID 11869とは逆向きの撮影です。
ID 72からID 92まで、神楽坂周辺のさまざまな正月風景が見られます。新宿歴史博物館によれば昭和54年1月5日に撮影したものです。これと重複して、ID 11824からID 11872まで、より多くの鮮明な写真が残っています。おそらく前者はプリントで、後者は保存ネガから再録したのでしょう。
車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。
街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。横断歩道が見え、坂が終わる所には標識「神楽坂通り/美観街」があります。
逆転式一方通行の延長について、地元の方は…
神楽坂通りに、逆転式一方通行が導入されたのは東京新聞調べの1958年(昭和33年)だということは「逆転式一方通行・再考(写真)」で考察しました。逆転式はその後、千代田区側に延長されます。 1977年(昭和52年)のテレビドラマ『気まぐれ本格派』の牛込見附交差点のシーンには、歩行者用道路と「ランチタイム・プロムナード」(スプーンとフォーク、ティーカップ)の標識が写っています。正午から午後1時までを歩行者天国にするもので、歩行者が道の真ん中を歩いているので、ちょうど実施中と思われます。 右側の高い位置にも、大きな歩行者用道路の標識が見えます。これは回転式で、時間によって表示内容が変わります。神楽坂通り入り口にも同じ標識があり、「逆転式一方通行・再考(写真)」の記事のID:9109(昭和51年8月26日)で確認できます。 |
地元の方は次の情報を送って下さいました。なお【A】などの下線はたたくと元の写真が出ます。
商店街にとって、街灯は集客のための基礎的なインフラです。神楽坂通りの街灯の歴史を写真を元に調べてみました。 【明治中期】 新撰東京名所図会第41編(明治37年)に「神楽坂通り」と題した小さな写真【A】があります。明治30年代以前と思われます。不鮮明なのですが、中央の電柱から下がっているものが街灯かもしれません。右側の店(樽と「恵比●」の文字、さらに横看板に「BEER」が見えるので飲食店か)には軒灯を出しています。記事には「牛込区第一繁華の市街」とありますが坂道は砂利敷きで、夜の灯りも十分ではなかったでしょう。 牛込神楽坂。明治35~39年頃の写真【B】には、外堀通り沿いの街灯が確認できます。市電の走る外堀通りの街灯は他の場所【C】でも確認できます。 【大正期】「大正12年3月の神楽坂」の写真【D】には、明らかな街灯が写っています。角柱から丸い灯りが2つ突き出す形で、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これが坂の両側に何本かある様子が見て取れます。なお、明治40年は間違いで、この写真は大正12年に撮られています。 【大正-昭和初期】 同時代の肴町(現5丁目)【F】 【G】や坂下の写真【H】にも同型の街灯が見えます。ただ良く見ると【E】の街灯の方が背が高く、明治期とよく似た擬宝珠があります。他の写真の街灯の頭頂部は四角いキャップです。 昭和8年『大東京写真案内』の写真【J】も、【E】と同じ笠をかぶった街灯です。しかし、この写真の右、上宮比町(現・4丁目)側には街灯が確認できません。街灯は町会単位で整備されることが多いので、もしかしたらこの時期、上宮比町には街灯がなかったのかも知れません。 【昭和10年代】 「牛込華街読本」昭和12年【L】も【K】と同じ街灯です。神楽坂通りの両側に交互に街灯が立っている様子が分かります。 おそらくこの街灯は、戦災で街が焼ける昭和20年まで使われました。 |
以上、これまでは地元の人でした。まとめると、下図のように、おそらくA(明治37年)は個別の店の軒灯、B(明治35~39年)とC(明治39年)は東京市の街灯、D(大正12年)は商店会の街灯、E(大正15年)、F(大正時代)、G(昭和5年)、J( 昭和8年)は同じ形をした商店会の街灯、K(昭和11年)とL(昭和12年)は鈴蘭灯に似た街灯だったと思います。ただし、すべて「おそらく」付きです。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85とID 11875、ID 86とID 11872は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂1~2丁目を撮ったものです。坂上方向(ID 85とID 11875)と、その逆の牛込橋方向(ID 86とID 11872)を狙っています。
一方通行の向きから見て時間は午後です。年賀の貼り紙や街灯の若松があり、シャッターを閉めている店が多いので正月休み中でしょう。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。昭和49年の「Mr. Dandy」や、昭和51年のID 69-71より少し後の時代ですが、いくつか店がビルになるなど、若干の変化があります。
「ID 11873では1月17日のID 94と同じで、さくらや靴店は開店中。ID 11874とID 11876はネクタイの人が沢山で正月とは思いにくい。ID 93もID 94と同じでしょう。これらが昭和54年(1979年)1月17日の撮影と思います」と地元の方、
神楽坂1~2丁目【牛込見附から坂上に向けて】 | |
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神楽坂通り/美観街 神楽坂通り/美観街 (坂下の案内標識) 九段坂
▲ ┃ 飯田橋 ◀━╋━▶市谷見附 |
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神楽坂通りの一番 高いところから6丁目の「協和(銀行)」の看板 |
一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書き、氏は高年になって郷土史家として発揮しています。
一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
では、一瀬氏の記載に行きましょう。
はじめに 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。 |
この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……
福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブト、ウイヤスクタイ、ウランバートル、キヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)、ニンクタ、コンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。 |
それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、 番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号 とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。 |
「生」は明治41年(1908年)田山花袋氏が読売新聞に連載した自伝三部作のうちの第一部です。明治時代に母の介護と死が起こり、家族が再生していく経過が書かれています。さらに妻を描く『妻』、自分を描く『縁』が出版されました。「生」では神楽坂6丁目がでています。
丁度其頃此家の主人は神樂坂の通を歩いて居た。紺羅紗の薄い夏の脊廣の三四年も着古したのを着て、パナマ帽の黄くなつたのを冠つて、紫の唐縮緬の風呂敷包を小脇に抱へて居る。風呂敷包の中には今夜校合しようと思ふ歴史編纂の書籍が入れられてあつた。俄に暑くなつた路に、シヤツもズボン下もびつしより汗になつて歩を運ぶのも大儀らしく、汚れた手巾を隠袋から出しては、帽子を取つてをりをり額の汗を拭いた。街には車が織るやうに通つて、書生が行く、女學生が行く、商人が行く、番臺を擔つた魚賣が行く。氷屋の硝子の暖簾がきら/\と日に光る。角の交番には白い服を着た巡査が疲れ切つたといふ風をして立つて居た。 渠の精神も全く憊れ果て倦み果てゝ居た。役所の仕事も、嘱託された歴史編纂も厭で厭で為方が無い。新しく貰った細君に對しても別に樂しいといふ感も起らない。馴染の女を鳥度念頭に浮べて見ても、それも何の反映をも起さすにすぐ消えて了ふ。不圖懐の財布に金が五十錢あることを思出した。丁度其前が靑木堂の舗、果物や魚肉類の缶詰が山のやうに積まれてあるのが眼に入ったので、母親を喜ばせようと思つて、づか/”\と入つて行つて杏の罐詰を一箇買った。 |
明治40年、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…。
神樂坂町三丁目 昔時より凡て士地なり。内神樂坂東南の地は享保中火除地となり、後放生寺借地の内に入り、維新後其西部華族松平氏の邸となる。又神樂坂西北の地は、元祿八年火消役屋敷となり、後本多氏邸となる。明治四年六月之を合して三丁目とす。 |
神楽坂3丁目は全て武士の屋敷だったといいます。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)でも同じです。
神楽坂三丁目 江戸時代には武家地であった。神楽坂より南の地は享保年間(1716―35)以後は二丁目と同様の変遷をしたが、明治維新後は西部が華族松平氏邸となった。坂の北の地は元禄8年(1695)には火消役屋敷となり、のち本多氏邸となった。明治2年(1869)に牛込神楽町となり、同4年6月、これらの土地を合わせて神楽町三丁目となり(市史稿・市街篇53)昭和26年(1951)5月1日神楽坂三丁目となる(東京都告示第347号)。 |
明治8年、江戸時代からの本多家と維新後の松平家がありましたが、あっという間にこれは姿を消し、商売の土地が増えてきます。
「ここは牛込、神楽坂」第2号で、竹田真砂子氏の『振り返れば明日が見える。銀杏は見ていた』で…
本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。 |
区役所については新宿区役所「新宿区史」(新宿区役所、昭和30年)で…
牛込区役所は、明治11年11月神楽町3丁目に初めて開庁し、15年11月同町3丁目1番地に移り、18年2月袋町光照寺に転じ、19年3月市谷八幡神社内に移り、26年11月新庁舎を設けて箪笥町に転じた。大正12年9月大震災後、弁天町(現弁天公園の場所)にバラック建仮庁舎を設けたが、昭和3年5月12日、再び箪笥町の新庁舎(現新宿生活館)に還った。 |
主な土地は、東陽堂の『東京名所図会』第41編(明治37年、1904)は
三丁目 自一番地至十番地。 三丁目一番地に笹川。(料理店)川島本店。(酒類卸小賣)二番地に菱屋。(糸裔)安生堂藥舗。五番地に帝國貯蓄銀行神樂坂支店。(本店は京橋區銀座二丁目。資本金十萬圓。二十九年八月十五日設立)六番地に青陽樓(西洋料理店)淺見醫院あり。 |
1917年(大正元年)、東京市区調査会の複製(地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図「東京」』、柏書房、1989年)です。
大正6年、飯田公子氏の『神楽坂龍公亭物語り』(平成23年)では
最後に現代の3丁目です。
吉行あぐり氏の「あぐり 95年の奇跡」(集英社、2002年)です。氏は岡山県岡山市生まれ。大正12年、15歳で吉行英助と結婚し、14年、上京。洋髪美容師の山野千枝子の内弟子になり、昭和4年、東京市ヶ谷の駅前(現・千代田区5番町)に「山ノ手美容院」を開店。15年、夫が死去。24年、辻復と再婚。27年、千代田区市ヶ谷に「吉行あぐり美容室」を開店。長男は小説家の淳之介。長女は女優の和子。次女は詩人の理恵。生年は明治40年(1907年)7月10日、没年は平成27年(2015年)1月5日。享年は満107歳。
近くで買ひ物の出来る町、神楽坂へは美容室の人達とよく出かけました。仕事がすんで散歩がてらにぶらりと、電車なら一駅の所です。 坂の入り口に喫茶専門の「田原屋」があり、まずそこでお菓子とお茶を。アイスクリームの好きな人もゐました。 市電の通ってゐる坂の上迄を、お花屋さん、下駄屋さん、瀬戸物屋さんなどなどの店先を眺め乍ら歩きます。 毘沙門様の隣の洋食屋「田原屋」の店先の果物を見て、お菓子もいいけれど果物も綺麗だななんて思ひました。 帰りは反対側を又々ぶらりぶらり。商店を眺め乍ら下ってゐるうちに、甘栗の温かいよい香りがプーンとただよって来ます。甘栗を買ひませう。甘栗を買わなくちゃあといふことになります。 神楽坂は気楽で楽しい町でした。銀ブラとなりますと一寸気取って出かけなくては、なので。 アメリカの飛行機があちこちに爆弾を落として行き、神楽坂もめちゃくちゃに壊されました。私達を楽しませてくれたお店は跡形もなく消えてゐました。 そして坂は瓦礫の山道となってゐました。家をはじめ一切の物を失った私達、その時は淳之介と二人だけでした。 淳之介と出かけた神楽坂の坂はまだ熱く、あまりにも無残でした。そしてあの日の瓦礫をふんだ足の裏の感触は忘れられません。 |
神楽坂 正確には戦前なので神楽町1~3丁目でしたが、実際的には「市電の通ってゐる坂の上迄」なので坂下から神楽坂上交差点まででした。
田原屋 戦前に坂の入り口に田原屋があったといいます。戦後、昭和27年にはなくなっていましたが、昭和35年には復活し、昭和53年に閉店。入り口から2番目の店舗でした。
市電 路面電車(チンチン電車)です。
坂 大久保通りです。
花屋 調べた地図で戦前ではありませんでした。戦後、神楽坂1丁目に田口屋花店ができました。また戦前の露店では花や植木を売っていました(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年)。
下駄屋 戦前では代表的に助六下駄店でした。なお上記『神楽坂界隈』を調査しました。
瀬戸物屋 戦前では代表的には神楽坂3丁目の河合陶器店でした。 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)によれば、戦後はこの河合陶器店と高橋カバンが合わさって丸岡陶苑になりました。戦前は神楽坂5丁目の河合陶器店、「西善」(神楽坂3丁目で、河合からおそらく1代前の陶器店)「大正堂」などがありました。
甘栗 戦前では代表的には山本甘栗店でした。なお上記『神楽坂界隈』を調査しました。
銀ブラ 東京の繁華街、銀座通りをぶらぶら散歩すること
「気まぐれ本格派」は昭和52年(1977)年10月26日から昭和53年(1978)年9月20日まで日本テレビ系列で放送されたテレビ映画です。最初は道路や石畳を中心に書いていきます。
最初は、神楽坂通り/美観街の標識で、構成は4つ。赤い文字で➀「神楽坂通り」と➁「美観街」、脇には➂縞々のH、さらに➃四角の箱です。夜になると、外から水銀灯で照らしています。
次は「餅花」を模した正月向けの飾りです。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習です。
これも冬の風景。クリスマスではないと思います。この時代、クリスマスだからといっても大々的に大騒ぎはしませんでした。ほかにも、いろいろな造花があったようです。
芸者新道ですが、これも石畳でした。なお、2枚目の「堂」は「明月堂」の「堂」です。
さらに牛込橋も石畳でした。下で青線で引いた場所でしょう。
軽子坂も出てきます。今と道幅は同じです。左側の高い石積みと塀は地元の資産家・升本家の広大な本邸でした。車止めの部分が門にあたります。
なお「軽子坂プロジェクト」でビルが後退したのは津久戸町のところです。
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」では
泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。
芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)牛込地区「2. 作家泉鏡花旧居跡」では……
2. 作家泉鏡花旧居跡 (神楽坂2―22) 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉、徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座で喜多村緑郎、伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。 |
住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。
師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋と薬屋の間を左折し、その小路がまた坂につき当たる左手のあたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照) ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元にひかされて妻となった。 |
あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。
左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。
明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。
網元 漁網・漁船などを所有し、網子(漁師)を雇って漁業を営む者。網主
ひかされて 情などにひきつけられる。ほだされる。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79、80、81、82は、昭和54年(1979年)、地蔵坂(藁店)を撮ったものです。左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。自動車は対面通行でした。右側は駐車場に使っていて、歩道はどうも左側だけだったと思います。
地蔵坂(藁店) | |
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ID 79とID 80の資料名は「住宅」と「坂道」だけです。しかし、ここは地蔵坂(藁店)を上がった場所なのです。歩道はここも左側だけです。ID 80の地面でOリングはよく見えます。
トーンカーブを行うと、塀がはっきり見えるようになります。こうやって浮かび上がった塀(板3枚とコンクリートが見えます)はID 79の塀とそっくりです。
菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 84は1974年に「若宮町坂の下」で撮ったものです。しかし、普通すぎる写真であり、どうして問題なのか、歴史的に何が起こったのか、そもそも、どの四つ角なのか、何もわかりません。
そこで、まずどの四つ角があるのか調べてみました。驚いたのは若宮町には四つ角が2つだけしかない、ということでした。全て残りは三つ角でした。では、見てみましょう。四つ角の➀は神楽坂により近い場所で、➁は新坂の一部です。坂下は矢印で示します。
では2枚を比べてみましょう。向こう側はともに下を向き、谷になっています。
よく似ています。それでも違うことがあり、まず電柱。数は➀は2本で、➁は1本。位置も違い、➀は1974年と完全に同じです。また、1979年の電柱看板は「西條歯科医院↑」(おそらく「この↑さき」)です。➀は谷のところに西條歯科医院があります。
つまり➀が正しいと思っています。
左右の塀にはペンキ書きで「無余地ニツキ 駐車シナイテ下サイ」と書かれています。すなわち、この撮影場所の背後にあるのは料亭「松ケ枝」の玄関なのです。左手の黒塀は駐車場。四つ角の向こう側の右角は若宮町の「一平荘」になります。どうも「松ケ枝」はここでもなくてはならない貴重な建物でした。
なお、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で「05-10-50-1 新坂上から 1974-12-21」のうち「新坂上から」ではなく、実際は「若宮町の坂上」が正しいと思っています。
なお、昭和54年1月に撮ったID 11825も画角は違っていますが、それ以外はよく似た写真でした。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 74、ID 75、ID 76、ID 77、ID 78、ID 83は、毘沙門横丁とその界隈を撮ったものです。ただし、ID 76は別の場所に出ています。ID 75では注連飾りがあり、ID 83ではコートを着ています。おそらくID 74と同じ1979年1月5日に撮影したのでしょう。ID 78と83の街灯はおそらく水銀灯で、下水溝は現在と同じです。
料亭「一條」には正月のお飾りが何もありません。これはID 11840と類似しています。ただし、ID 78と83では遠くに一條が見えています。 |
袋町37ではなく、神楽坂5丁目37です。藤間高寿氏の本名は高村光子で、藤間藤子に師事し、日本舞踊家に。生年は大正8(1919)年11月11日、没年は昭和59(1984)年4月29日、享年は満64歳。 |
裏道は、下の地図で「毘沙門横丁」の「横」と「丁」との間に右に曲がる道です。路地の名前はありません。やや遠く見えるのは料理の「ゆかり」、右手は麻雀「山彦」とその手前でクーラーがあるのは すき焼「牛もん」、左手のスチールフェンスは三菱銀行。路地は石畳です。 |
この裏道は以前から毘沙門横丁といっていました。最初の看板は「すき焼 割烹 牛もん」。毘沙門天のコンクリートフェンスがあり、取り外した看板「所」「会」があります。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。さらに電柱看板「宮城道雄記念館」、何も書いていない家は藤間高寿邸、看板の「藤間高寿→ 小勝→ はやま→」、電柱看板の「あまなっと 五十鈴」と「麻雀クラブ 三功」、さらに奥の家は料亭「松ヶ枝」。左側に行き「寿し処 寿し作」で、離れて「一條」があり、松ヶ枝駐車場は最後の黒い塀です。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189は、神楽坂5丁目を撮ったものです。5丁目から神楽坂上交差点に向かって撮影しました。半袖の男性もいますが、ほかは長袖や背広です。街灯はおそらく昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかですが、左側の歩道は縁石と下水溝をおおう「どぶ板」以外にはなさそうで、右側は電柱も街灯も、家のすぐ前に立っています。神楽坂上交差点では路面電車の道が見えます。交差点を越えた道路は対面通行です。
神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点) | |
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三善(みつよし)(料理屋)
某大企業のグルメの社長さんが昔こっそりお忍びで食べに来ていてお気に入りだったそうです。先日久しぶりに神楽坂に来たので行ってみたら「石かわ」に変わっていた。入ってみたら、こちらもおいしくて「やっぱり神楽坂はいいね」と思われたそうです。
✅「石かわ」は最初に(2004年頃?)神楽坂仲坂に居を構えていました。現在は毘沙門横丁。
福島ピアノ店(ピアノ専門店)
きれいなピアノを並べた、高級なピアノ専門店がありました。とても感じが良く上流社会の匂いがしましたね。
✅最初は福島ピアノ店だけ。次に1階はジョンブル、2階はピアノ店に。その後、ピアノ店がなくなり、2002年以前には既にジョンブルも閉店していたようです。現在「ロッキー カナイ 神楽坂店」(大衆酒場)「小浜水産」です。
ジョンブル(喫茶店)
30年ほど前、矢来町の友人宅を訪れた帰りによく入ったのが「ジョンブル」。ドライカレーと食後のコーヒーがおいしくて、ひと息つくのにいい場所だった。背の高いご主人がエプロン姿でよく客に話かけていた。店内は少し暗かったけど、その暗さがちょうどよかった。
✅「東京みてあるき地図」(昭文社、昭和59年)では「50種のコーヒーをお好みによって出す本格派で、2000円也のコーヒーもある」。書家のマスターに詩人のママという異色の組み合わせ。やがて喫茶店からレストランになりました。
五条(喫茶店)
1、2階のフロアがとてもきれいなお店でした。
✅おそらく五条ビルでしょう。左に袖看板「SUNTORY BAR 五条」とあります。
万平(すき焼き)
ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。
✅「おでんやすき焼、荼めしなどがうまい」と「東京みてあるき地図」(昭文社、昭和59年)。「ちょっと陰気な柳」はID 6-7で。現在は「万平ビル」から「クレール神楽坂」。万平ビルの3階に移動すると檜風呂も置かれた。また、2階の「あまくさ」(居酒屋)は万平と同じ吊り看板がある。
神楽坂青果店(八百屋)
その時季の出始めのものが店先に並んでいて、旬のものはもちろん、高級でめずらしいものがそろっていたのを覚えているけど、それも料亭が近くにあったから他の八百屋とは違っていたのかもしれないわね。
✅こまった。この店は「神楽坂フーズガーデン」として現存し、最初は芋を焼いて売ったのが当たり、次第に商品構成が変わったようです。「ビルのオーナーでもあるので生き残っている」とも。
キムラヤ(パン・菓子)
明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。
✅こまった。「キムラヤ」スーパーは6丁目、こちらは正しくは「木村屋」です。銀座木村屋の初代の娘が神楽坂の木村屋に。創業は明治39年(1906)、閉店は平成17年(2005)なので、100年ほど存続。なお「キムラヤ」として「木村屋」店が使っていた場合もありました。
茂木書店(書店)
まちの普通の本屋さんだと思っていたら、ポケットサイズの国語辞典を出版していたので驚いたよ。
✅美容室ニューマヤ以前の店舗
ジョウトーヤ(果物店)
戦前は、毎日毘沙門天辺りにバナナの叩き売りを出していた人が、神楽坂が気に入って果物屋を開業した。
✅ジョウトーヤはここで。
塩瀬(和菓子)
築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった。
✅こまった。塩瀬は明石町で、築地の隣町。
揚げ煎 揚げて作るせんべい
おかき 餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓
鳥忠(居酒屋)
地元民が普段着ですごせるこの店は、京都で知り合った老舗の友人との再会にぴったりだった。一人でも気負いなくくつろげる店だった。こういう「普通」な店が神楽坂から消えたのは残念で仕方がない。
✅「『安価でいい料理を』という大衆割烹の正しい姿がここにある』と神楽坂宴会ガイド(牛込倶楽部、1999年)
福鮨(寿司)
ご主人の福田さん北海道岩内町の出身。昨年暮れ57歳の若さで急逝した。座席8人の小店。が、そのネタケースはどの店にも負けぬ長さ。ネタは新鮮で、値も張った。が、満足度120%。噂を聞いて時の総理大臣も来店されるほど。福田さんは咽喉ガン手術のため言葉が不自由。それを引き取って、奥サマが通訳。かいがいしくお世話もし、愛想よく素敵な女性。あの豊麗美麗な鮨が二度と口にできなくなったことは、口惜しい限りである。
✅遠政の閉店後に建ったビルの店子でした。
海老屋(そば屋)
お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。
庄平(ビルマカレー)
ビルマカレーの店。チキンカレーが旨かった。会社の先輩と食べに行きました。
神谷(氷屋)
氷の固まりを買うときには、この店へ行った。夏の暑い時分や、風邪などの高熱の時にはお世話になった。
✅「軽子坂プロジェクト」の再開発で、御殿坂の升本本社の前に移転しました。今は閉店して建物も変わっています。
山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所 に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。
✅こまった。楽山の場所ではなく、隣りの「魚さん」の場所だった。⇒山本コーヒー。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)では「うなぎの御飯」や「コーヒー」を売る店舗がありますが、見ると、小さく「山本」と書いています。
サザンカンパニーからかつて小冊子「かぐらむら」がでていました。今はない店舗群を扱った「記憶の中の神楽坂」の短期連載もありました。その後、「記憶の…」はインターネットにも載りましたが、この小冊子は100冊で休止し、「記憶の…」も消えました。じーっと待っていましたが、どうもでる様子がなさそうです。そこで再度でるまで、ここに1~4丁目の一部をブログしておきます。全体の半分以下で、間違いもあります。
おかむら(トンカツ)
神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。20何年前にあそこで「これからフランス行きます!」って宣言した人、どうしたかなぁ…そういえば。(編集部注:神楽坂3丁目のお店とは別です)
✅こまった。まず「おかむら」は正しくは「森川」、「神楽河岸」は正しくは「神楽坂1丁目」。「なか卯」は正しく「トンカツは天下一品」は正しいらしいけど。⇒とんかつ森川
人形の家(純喫茶)
外濠沿いにあった間口の狭い純喫茶。ちょうど今の「きものの英」の場所にあって、いつもクラシックの名曲が店内に流れていた。ウエイトレスのお姉さんがきれいで、格調があった大人の喫茶店。昭和30~40年代、本と缶ピースをもって、この店のモーニング・サービスを朝食としていた。
✅現在は見返し横丁に移転⇒見返し横丁
きものの英 正しくは「きもの英」で、洗える着物の専門店
缶ピース 日本たばこ産業が製造・販売する紙巻たばこの銘柄で、1缶は50本入。
佳作座(映画館)
外濠沿いにあって、洋画の名作をよく観ました。お茶の水界隈の学生たちにとって、絶好の名画座でした。チケット売り場の裏が「ミッシェルズ」という喫茶店があって上映前の半端な時間をここでコーヒーをすすって過しました。
✅パチンコのオアシスにかわった。⇒佳作座
田原や(フルーツパーラー)
氷メニューが豊富でした。美味しかったですよ。ソフトクリームが美味しくて、それを使ったパフェも絶品!甘いものが苦手な人には小ぶりの丸パン3つに違った具をはさんだバンズセットというのが人気でした。当時の私は、お昼のお弁当を食べて、夕方それを食べて、家でまた夕食を食べるという食い気ばかりの高校生でした。(そうそう、そこの氷が独特で、名前も変わっていて、スノーハワイアンっていったかな?)
✅1丁目南東の2番目の店舗。戦前からあったようだ。⇒田原屋
神楽坂メトロ(映画館)
昭和20年代の後半、洋画3本立ての劇場は映画少年にとってはたまらない夢の殿堂だった。今でもそこで観た「第三の男」のチターの音が耳の底にこびりついている。
✅「神楽坂メトロ」の写真は⇒ここで。最初の図は間違いを避けるために橙色で。
チター 弦楽器。ドイツ南部、オーストリア、スイスなどで使用。
軽い心(喫茶店)
クラブ活動で遅くなり日も落ちて、飯田橋の駅あたりから見える神楽坂の街が夜の賑わいを見せ始める頃、明るい時間には全く気付かなかった“軽い心”という紫色のイルミネーションが目に鮮烈でした。
✅神楽坂メトロから軽い心にかわりました。図は赤色で。
のりもの倶楽部(模型・書籍)
今は市ヶ谷に移転。通りに面した窓辺には、飛行機や電車の模型が並び、独特の雰囲気。半地下に階段を下りると突然「暗くないおタクの世界」が展開しているのに感動した覚えがある。唯一感のあるところが、神楽坂らしい。
✅「軽子坂田中ビル」の半地下テナントから市ヶ谷に。しかし、2017年、32年間続いてきたのにここも閉店
パール(ビリヤード)
理科大に行く路地に入って、最初の角を右にまがったところにあったビリヤード。「ハスラー」という映画が人気だった頃で、パールのご主人が手ほどきもしてくれた。3クッションが1台、4つ玉が2台、ポケットが1台あった。
✅パールは結城ビルにあった。現在も結城ビルは同じ。
3クッション ポケットのない大台を使い、球は通常3つ、プレーヤーが撞く手球を他の2つの球に当てる、難易度の高いゲーム。
4つ玉 ポケットのない中台を使い、球は通常4つ、プレーヤーが撞く手球を他の2つの球に当てる。
ポケット 中台を使う。手球1個に対して的球9個をいかに早く落とせるかを競う競技
Bar kagura(カフェ・バー)
バーだけど、ランチもやっていて、カフェ飯的なワンプレートランチが、750円。仕事をしながらコピーライターの学校に行っていたとき、ここで、ひとり卒業式をしたのでした。飲めもしないカクテルをちびちびしながら一人で乾杯したっけなあ。人生の転機の記念となった、忘れられない思い出の場所。
✅新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)「神楽坂と縁日市」では、平成8年(1996年)に陶柿園の1軒下(南西)に「カフェテラス Kagura」があった。
カフェ飯 「カフェ」でランチなどとして提供する軽食
赤-2000年から現在
茶-戦後
緑-戦前
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 72~73とID 11841~11842までは、昭和54年(1979年)1月5日、料亭「松ヶ枝」を撮ったものです。後者の二枚のほうが、よりよく撮れています。
実は区の「松ヶ枝」の写真は多く、たとえば
2つ門が出ていますが、左の門は正門(表門)、右の門は勝手口(通用門、潜り戸)です。
1974年12月の『サンデー毎日』では
格子戸つくりの表門。その門の左の端に、木の札に『松ヶ枝』と格調高い筆跡で書き記された表札がかかっている。格調高いの道理、何とこの表札は、かの名画家・川端竜子の筆になるもの――などというのも、実は先入観のうち。(中略) 驚くべき点の第一は、この料亭が何とユウレイに買われたものであるということ。 ユウレイといっても、ユウレイ会社のことなのだ。室町産業と並んで、いまや知らぬ人とてない かの新星企業。設立発起人・田中角栄、資本金六憶円にして社員はゼロ、専用電話もないというこのユウレイ会礼が、一昨年の六月に、この商級料亭を買ってしまったというのだから、これはオドロキ。 ユウレイの正体は、田中サンであるというのは日本の常識ですから、これすなわち、現職の総理大臣が料亭を貿って自分のモチモノにしちまったというオハナシ。お値段は、四億円とも、五億円とも。 |
創業者はお竹さんで、創業は明治38年。お竹たけさんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。
また『神楽坂まちの手帖』第12号(けやき舎、2006年)では
松さん、竹さん、梅さんという三姉妹がいたことで有名。末娘、梅さんの切り盛りで全盛期を迎えるも、梅さんが亡くなったあと持ち主が変り、実質的な営業を終了。数年後に取り壊され、現在はマンションに変っている。 ●思い出語り● 私たちは出入りの業者ですから、正面からは入りませんよ。塀の右端のほうに勝手口があってね、そこから入ると庭に出るんです。そこで作業してると女中さんが出てくるから、花を渡して出てくる。それでも夕バコ銭ってくれるんですよ。懐紙にいくらか包んでね。あの頃の料亭さんはみんなそうだったけど、松ヶ枝は額も多かったからね。盆や正月になると更にはずむでしょう。仲間内で喧嘩になるんですよ。「俺が行く」「いや俺だ」ってね。(田口生花店、寺田司郎さん) |
廃業後、松ヶ枝駐車場を4つに分割しました。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 69から71までは、昭和51年(1976年)8月26日、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。この写真はID 9109、ID 11478からID 11480までとしても保存されていますが、画角、解像度や鮮明さがやや異なります。
大きな左向きの標示はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。
神楽坂1丁目(昭和51年)牛込見附 | |
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田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。
神楽坂1丁目(昭和49年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67は、昭和48年(1973年)5月22日、牛込橋から神楽坂1丁目などを撮ったものです。
中央の通りは早稲田通りで、中央帯はありません。渡辺功一氏によれば、昭和54年にここも逆転式一方通行になったといいます(『神楽坂がまるごとわかる本』けやき舎、36頁)。この通りの右側は神楽河岸、左側は神楽坂1丁目です
街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、左側の街灯(写真では「同棲時代」の右前。4枚目の写真)だけが形が違っています。新宿区の予算ではなく、この場所は区境を越えて、千代田区でした。
また、最前部の車道と歩道は、石畳でした。この時代の牛込橋はコンクリート製。平成8年に現在の鋼製の橋に架け替えられました。ID 68も同様です。
最初は4階以上の高層ビルです。これこそ地元の方の協力がないとできません。
では1丁目です。左から右に…
右側に電柱看板「洋装店 ナカノ」があります。現在は3丁目のナカノビル。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65と66は、昭和48年(1973年)2月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識があります。電柱の上には柱上変圧器があり、「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできています(カラー写真)。また、休日の歩行者天国が始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」が出ています。なお、ID 65は「神楽坂入口から坂上方向」でも細かく見ています。
神楽坂1丁目(昭和48年) | |
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サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。
牛込から早稲田へ お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷八重子が芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号の家は何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入ると寄席だ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんな家は影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。 |
待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町の花屋だ。新小川町なんていうより大曲の方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ君なる揚げまんじゅうみたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。 大曲へ来てしまったか! 電車道を早稲田へ行く。石切橋。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋のそば、こいつも有名だ。この二軒は小石川に属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代町。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。 |
昭和42年(1967年)7月2日発行の「サンデー毎日」です。
六浦光雄氏はここで「六さんの途中下車」を連載していました。氏は朝日新聞の嘱託漫画家で、細密な風俗漫画で有名でした。昭和38年、第9回文芸春秋漫画賞を受賞。生年は大正2年2月23日。没年は昭和44年6月12日。享年56歳。死因は脳出血でした。
ドデン、ウイーン、チンジャラ、パラパラ、バタン、キュ。 この音のヌシは、都電とクルマと、パチンコ屋と、その客をはやいとこオケラにするたくらみのホット・ジャズと、交通事故だ。むかしは人が倒れる音も、バターン、キューとのんびりしとったが、スピード時代のいまは、バタン、キュとのばさずにノビちまう。こちら牛込見付交差点。行く手には神楽坂がある。 ドデン、パタンという現代の神楽バヤシのひびきのなかをオカメ、ヒットコ群衆が、ピーヒョロ行きかう。テンツクテンツク、スッテンテン。物価高はテンをつき、庶民のふところはもはやスッテンテン。なのに右の空に「軽い心」というクラブのネオン。ハハノンキダネ。左の空にジュラルミンの星ひとつ。 昔、ホシひとつの兵隊のとき、よくこの坂を通った。九段から戸山ヵ原へ行く通りミチだ。同年兵はほとんどフィリピンでパタン、キュと消えた。私って重い心になるとハラの虫がなく。神楽坂下の左手に「信華園」というシナソバ屋がある。この家のチャーシューはうまいねえ(チャーシューメン120円)。 この店のすじ向かいに『紀の善』というしるこ屋がある。夏の甘味ではなんたって氷アズキが一ばんだ。おしまいころのあのシタにのこるアズキの香がなんともいえんねえ。坂上、三菱銀行前のゲタ屋の横丁を右折して明治ビリヤードの角を左にはいると『おひで』というオサケ屋がある。剣菱180円。スイトン180円。 本日は、話も横道にそれた。「おひで」での私の音は、キュキュ、ゴキーン。いろいろと申しわけない…… |
剣菱 剣菱酒造。本社は兵庫県神戸市東灘区。日本酒「剣菱」の蔵元
スイトン 水団。小麦粉の団子を入れた汁物。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64とID 8317は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8317のほうが画角は大きくなっています。
大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、信号機にはゼブラ柄の背面板があります。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。
神楽坂1丁目(昭和45年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 59から63までは、夜になって牛込橋の方向から神楽坂1丁目などを撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
「ID 59-63の撮影時期は、かなり絞り込めます」と地元の方。逆転式一方通行の標識があるので1958(昭和33)年以降。大島ビルは完成し、従って、1959(昭和34)年2月以降、「神楽坂」の標識ポールの鉄骨の柱には、ID 31-34(昭和34)にも写っているけれど、ID 7002(昭和34年)、ID 5510(昭和35年)にはなく、ニューマヤの看板がないので、1960(昭和35)年以前。つまり「ID 59-63の撮影時期は1959(昭和34)年と推測されます」と地元の方。
ただし、新宿歴史博物館の撮影は昭和37年(1962)頃になっています。しかしこの説明は標識ポールの柱があるところから難しいと思っています。
左端にパチンコニューパリー(New Paris)があり、そこにエッフェル塔に似たネオンが出ます。ID 52(昭和36年頃)にも確かにそっくりのネオンが出ています。
しかし、と地元の方。「ID 52に写っているネオンは残骸じゃないかなあ。もし現役なら、電柱の向こうに塔の頭が見えていると思う。古いネオンで補強していなくて、強風でダメになったと想像します」。う~ん、そうかもしれぬ。(しかし、昭和36年頃、ID 5995では塔の上半分もでています。機能はわからないとしても、塔の外見はあります)
これ以降で昭和48年5月22日に撮影したID 68にはこのネオンは全く出ません。
また、より早い場合で、昭和27年(1953年)、火災保険特殊地図では「伊藤菓子」という店舗がありますが、ネオンはなし。1954年、ID 21もネオンはない。パチンコニューパリーはいつから開店したのかわかりませんが、昭和34(1959)年には営業していて、この時点ではエッフェル塔そっくりのネオンもありました。
エッフェル塔に似たものをつくった理由は? 1957年6月に東京タワーの工事が開始して、昔だから国民は全員わくわくして、タワーにあやかったものでしょうか? それともエッフェル塔を単に作ってみたかったのでしょうか? まあ、どうでもいいですね、はい。
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文学散歩』(昭和29年、創元社)は、昭和27年の記録で、昭和28年12月に「あとがき」を書き、昭和29年2月には「アルバム 東京文学散歩」として出版しました。
これは「あとがき」で、どうしてカメラを使ったのか、その理由と目的を書いています。
あ と が き 私が自分の仕事にカメラを利用しはじめたのは昭和27年の初めからで、それまではスケツチ・ブツクやノートに鉛筆を走らせてゐたのを、カメラに代へたのである。 スケツチも嫌ひではないが、素人のかなしさで、とても時間がかかる。それに、これは絵にしたいと思ふやうな風景とか事物などを調査するのではないから、絵心が大して動くわけでもないし、動く場合があるとしても、それにかかづらつてゐると、私の必要とする資料の意義から離れてしまふ。やつばりカメラに限ると云ふことになつたのである。だから断るまでもなく本書は写真の本ではなく、あくまでも文学書である。 東京文学散歩の仕事をはじめてからもう四年になるが、何しろ戦後の復興途上のことなので、一年一年様相が変る。さうした慌しい変化の中に見えかくれする近代文学の遺跡を、自分の文学として描かうとするのが私の目的であるから、カメラはその目的のために、時折必要に応じて利用するに過ぎない筈だが、いざカメラを使ひはじめると、常に携帯してゐないことには気がすまなくなつてくる。ちよつとした調査で出かける時は、今日は力メラは要らないと考へてゐるが、そこで仕事をしてゐると、必ずカメラを持つて来ればよかつたと後悔することがあるし、そんな場合は後で又同じ所にカメラを持つて出かけねばならない。カメラが私よりも先に記録の必要を感じてゐて。それを私に教へるのである。 私はただペン一本の人間で、機械いぢりはまことに不得手だし、撮影に自信など更にない。ペン一本を命とたのんで、もう20年以上にもなるだらうが、未だにそのペンにさへ自信の持てない私が、馴れない精巧なカメラを自信を持つていぢれるわけはない。にもかかはらず、私のカメラは同情深い生き物で、自信のない私を落膽させない程度には何時も役立つてくれるのだから、このカメラだけは愛さないわけにはゆかない。 ――このやうに全く写真には素人の私が、写真を主体とした本書を出版するなどは盲人蛇に怖ぢぬたぐひで、盲人でもないつもりの私としては、まことに恥かしいことであるが、それにもかかはらず本書を出版したのは、私一人の恥を犠牲としても尚あまりある文学的な意義があると信じたからである。文学の眼で見た文学的記録写真とも云へるこのやうな書物が、必要なのにもかかはらず今日迄出版されなかつたのを、ともかくも実現したと云ふこと一つからも、私はよくもやつたと自らを慰めてゐる。もつとも、カメラに馴れない私が、この仕事を一応貫くまでの勇気を持ち得たのは、絶大な後援者があつたからで、先づ私の仕事のために高価なカメラを提供された柏山清一氏と、この素人写真を本にするために編輯から製版造本に至るまで苦労を惜しまれなかつた柚登美枝さんの御厚意を忘れることは出来ない。 尚本書に入れた随筆は昭和27年の毎日新聞に「東京文学散歩」と題して連載したものに、書き下ろしを加へたものである。使用カメラはキャノン4SB・レンズf1.8であつた。 昭和28年12月中浣 |
野田宇太郎氏の「アルバム 東京文学散歩」(創元社、1954年)の一部で、神楽坂3丁目を扱っています。撮影の方向は、坂上から坂下。街灯は簡素な電灯で、昭和28年頃から始まった、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯ではありません。
写真ではベストの人がいますので、夏ではなく、春か秋でしょう。
歩道と車道の高さはほぼ同じようにみえます。
「アルバム 東京文学散歩」の元は毎日新聞で、氏は昭和27年に「東京文学散歩」を連載し、同時に初めてカメラを扱ったと書いています。おそらくこの写真も昭和27年に撮ったものでしょう。
神楽坂3丁目(坂上→坂下) | |
地元の方にはまだ何点か、気がついていました。
左から……
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「仁丹」は新宿歴史博物館のID 30の拡大図でもっとよく出てきます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、歩道は綺麗で平坦で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。全員コートを着ています。
メトロ映画のメーン作品は「修羅八荒」で、市川右太衛門と大川橋蔵が主演の娯楽時代劇。公開は昭和33年11月11日。「神州天馬侠 完結篇」は昭和33年9月23日。「裸の太陽」は昭和33年10月1日。どれも昭和33年の映画です。この写真を撮ったのはおそらく昭和33年11月に寒くなって撮ったのでしょう。
神楽坂2丁目(昭和33年10月) |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
横断幕の「本日特売日」があります。
また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。
神楽坂2丁目(昭和33年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 55と56は、昭和37年頃、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。牛込橋の車道にセンターラインがあります。鈴蘭灯はなくなり、昭和36年から街灯は円盤形の大型のものに代わりました。この街灯は白く光るので蛍光灯です。寒いのか、外套を着る人もいます。遠くにキャバレー ムーンライトが見えています。
新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)も上げてみました。本は昭和37年3年に出版していますので、この写真は主に昭和37年2月以前に撮影しているのでしょう。
左側に大きな桜の木があり、裸木なので、冬です。また、下の田口重久氏の写真は昭和42年で、この時は桜の木そのものがなくなっています。この写真についてもう一度、別の場所で取り上げます。
さて、ID 55と56にまた戻り、メトロ映画の屋上の看板は「 ロ映画」ですが、メトロ映画の廃業は、 昭和41年(1966)ごろなので、まだまだ映画は健在です。
昭和37年に「キャバレー ムーンライト」は人文社「日本分県地図地名総覧」では出ています。しかし、昭和37年版や昭和38年版の住宅協会「全住宅案内図帳」にはなく、昭和40年版では出ていますが、ただし「コーヒー ムーンライト」です。おそらく昭和36年か昭和37年に正しくでているのではないかと思っています。
「厚切 とんかつ 森川」はこの頃神楽坂下から南東方向の5軒目でした。さらに最右端の官庁は警視庁第2機動捜査隊です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 54は、昭和36年4月に神楽坂1~2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上です。街灯は昭和36~7年まで続き、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。電灯は1本あたり3個なので、よく見ると、かなりの電灯は壊れています。別に神楽坂通りに桃の造花がいくつもあります。コートを着た人はいますが、半袖の人はいません。
神楽坂1~2丁目(昭和36年?) | |
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ID 48(昭和34年)と比べると、いくつかの場所が代わっています。左側は万屋販売所だったのから「生花 花 造花」となり、右側は「トリスバー」から「BAR みなみ」に代わりました。昭和35年の神楽坂三十年代地図では万屋が出ています。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 52と53を見ましょう。撮影は牛込橋周辺で、昭和36年4月。レンズは外堀通りや神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。
寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第1集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2007年)では《なつかし写真館➀》としてこのID 52を「飯田橋付近から神楽坂通りをのぞむ(昭和30年ごろ)」として描いています。しかし、「昭和30年ごろ」はおかしいと思っています。
「牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあります。この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていました」と地元の方。
よく見ると牛込橋の桜の木に若葉がついているようです。
写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「y ヽロ映画」)では東映作品「鳴門秘帖」(公開日は1961年1月26日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。
加藤産婦人科は袋町7番地でした。
なお、下の地図の「神楽坂通り」の「通」のすぐ下の「あき不庵」は「おきな庵」(翁庵)の間違いでしょう。
右中央に「赤井商店」が見えますが、その前に女性が描かれた看板が見えます。「よく見ると『ナポ』らしき字がある。ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開1960年12月)を佳作座でやっていたのではないか」と地元の人。佳作座は2番館なので、1961年に出ているようです。
それでは左端に行きましょう。中央にある電柱広告「旅館かぐら苑」の隣の漢字は「野」の草書体で、「野乃木」でした。また居酒屋「酒蔵三富」がその左上にあります。
なお、これよりも昔は電柱広告が「旅館かぐら苑」のままで出たこともあります。ID 7002(撮影は昭和34年)です。
以上、昭和36年(1961年)4月の写真でした。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 51は、神楽坂6丁目を撮ったものです。撮影の方向は、神楽坂上交差点から北西向き、街灯は昭和36年位まで続いた鈴蘭灯でした。歩道はほとんど車道と同じ高さで、車は対面通行を行っています。
「このID:51の面白みは、なんといっても街灯です。向かって左、『大久保通りを越えた神楽坂5丁目』は1-4丁目と同じスズラン灯。向かって右の6丁目は、似ているけれど別の街灯。商店会が別で、仲悪かったんですよ。今は、こういうことはなくなりました」と地元の方。
神楽坂5丁目と6丁目 | |
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俳優・タレントの峰竜太氏が20年余前に家を新しく購入しました。その顛末を含めて氏は「かんべんして下さいヨ!」(集英社、2000年)で書いています。大事なことですが、今の邸宅ではありません。1代前の邸宅についてです。
生年は1952年(昭和27年)2月29日。趣味は熱帯魚、犬、スポーツジムなど。
私と大違いの度胸のよさは、現在の下嶋の大邸宅(ってほどでもありませんがね)購入の際にも発揮されました。 土地は、バブル絶頂期のとき、私がちょうど海外に取材に行っている平成2年に、カミさんが新宿の神楽坂で見つけて買いました。帰国するなり、 「買ったわよ」 と言うわけです。何を? って感じでした。 土地を買ったなんて、そんな思い切ったことをと思っても、もうあとの祭り。決断が早いというか、後先考えないというか。(略) 値段を聞いてまたびっくり。場所がまた神楽坂という東京の中心地ですから、安いはずがない。なんでカミさん、そんなに高い土地買っちゃったわけ? これには税理士の人ですら、びっくりしてましたもん。 どうして神楽坂かといえば、私もカミさんもできるだけ山手線の中へ中へという気持ちが強かったからです。特にカミさんのところは代々東京の下町ですから、高級住宅地といわれる世田谷の成城や田園調布に対しても、 「えー、あんな遠い田舎、住めない」 と思っていたようです。 私がちょうど忙しくなる時期でしたが、まだそんなに稼いでいたわけじゃない。それでも当時の銀行は無担保でお金を貸してくれた、恐ろしい時代でした。バブルの頃はそうだったんです。あの頃土地を買って大変なことになっている人は(私を含めて)、いっぱいいるんですから。 でもあまりにも金額がでかすぎて、ぜんぜんリアリティがない。100万、200万の借金なら、大変だ~、なんて思うけれど、本当に天文学的数字で、現実感がまったくありませんでした。 買った土地は更地ではなく、ウワモノがついていたので、そこはずっと人に貸していました。新築したのは平成8年です。 最初に買った土地は45坪ですが、その後バブルがはじけ、土地の値段も急激に下がり、つけ足しつけ足しで少しずつ買っていき、今は100坪ぐらいになりました。 |
バブル絶頂期 1985年から1990年まで。株や土地をはじめとした資産の価格が、経済の基礎的条件からみて適正な水準を大幅に上回って上昇した状況。
平成2年 1990年
更地 建物がなく、すぐにも建物を建てることのできる宅地や工業用地。
ウワモノ うわもの。上物。不動産関係の用語。土地の上にある家屋やビルなどの建築物
建築は『殖産住宅』なんですが(ちなみに営業マンの彼は今は独立しています)。 「つきましては更地の状態から家のできるまでをドキュメントで撮りますから、少し安くしてくださいね」 カミさんのひとことで、『殖産住宅』の社長も登場して、撮影が入りました。地鎮祭から撮りはじめ、半年で完成するまでのドキュメント。 家具は、知る人ぞ知る四国の高松に、『森繁』という家具屋さんがあり、その東京支社に頼みました。 社員の方がうちへ来て設計図を作り、1階と3階に漆塗りの特注の家具を備えつけました。椅子に家紋を入れたり、家具だけでもそうとうかかったと思います。それも、 「撮影しますから」 ということで安くしていただきました。 撮影のためにカミさんはわざわざ着物姿で四国まで出かけ、家具造りの工程をビデオに収めてきたのです。 |
こんなカミさんでも値切れないモノがふたつありました。バブル期の土地と水槽です。 ふたりで相談し、家のメインテーマとして好きな熱帯魚を飼うことに決め、大きな水槽を置くことにしました。熱帯魚は唯一カミさんとの共通の趣味。(略) 水槽を置くことに関してはいろいろ勉強したのですが、勉強すればするほど奥の深いものであることがわかり、結局高くついてしまったようです。 家のテーマが水槽だなんてカッコいいのですが、簡単に言えば「こんにちは~」と玄関を開けて入ってきたお客さまを、これで驚かそうと思って作ったものです。でも作ってよかった。これが今一番、癒しになっている。 とにかく海と魚が好きな私は、水族館は一日いてもあきないところ。そのミニ版が家にあるだけで、ほっとします。海の中はまったく違う世界なのです。しばし現実から離れてリラックスできます。あと家でリラックスできるのは、トイレの中だけでしょうか……。 この下嶋家の大邸宅、神楽坂水族館と命名しています(偉そうに、スイマセン)。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 47からID 50までを見ましょう。撮影の方向は、神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道は平坦です。
なお、ID 47はID 5510と、ID 50はID 7002と同じです。また、ID 5510は昭和35年頃、ID 7002は昭和34年頃を撮っています。
昭和34年と比べて、看板2点が違っています。つまり、山田紙店の2階にニューマヤ美容室が入り、神楽堂はヤマザキパンを売っている点です。
ID 48でのメトロ映画の上映作品は、上は「右門捕物帖、地獄の風車」1960.03.01か「右門捕物帖、片目の狼」1959.03.03で、下は「大願成就」1959.11.29だ、と地元の方。
同じくID 7002でメトロ映画の上映作品は上は不明、下は「孔雀城の花嫁」1959.04.08だ、と地元の方。
神楽坂1~2丁目(昭和35年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 40からID 45までは、神楽坂1丁目を中心に撮ったものです。ID 31からID 39同様に昭和34年ではと思います。夕暮れが終わって晩、遠くに横断幕「火の用心」があります。
神楽坂1~2丁目 | |
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森本不動産はここです。
「ここで同じ日の写真だとわかるけど、もっと特定できないかと手がかりを探しました」と地元の方。そこで…
1) メトロ映画の看板。添付写真で、映画タイトルの先頭は「ト」です。
http://www.jmdb.ne.jp/1959/a1959.htm |
尾沢翁追想録編纂会の『尾沢豊太郎翁追想録』(尾沢豊念会、1932年)は新宿歴史博物館図書閲覧室だけにあります。国立国会図書館にはなく、他でもないでしょう。
尾沢薬店は神楽坂4丁目の郵便局や隣のカフェ・ベローチェ神楽坂店がある場所にありました。
かうして翁の店員生活は19歳の春まで續いたのであつた。 宮比町開業時 牛込神樂坂も現在のやうに花柳界もなく、勿論、早稲田大學や共他の學校もなかつた。それ故に粋なつぶし島田の藝妓のなまめかしい姿も見られず、隊をなした學生達の散歩姿も見られず、附近は多く武家屋敷のあとで、たゞところ/”\に商家が竝び、淋しい町であつたころだ。明治8年7月21日、毘沙門天前の牛込區上宮比町一番地に、翁は獨立して藥種賣藥業を開業することになつた。店員として、たゞ一人大西橘三氏が、翁の下で働くことになつた。たとへ筑土本店の附近に開業したとはいへ、創業の苦難はやはり味はねばならなかつた。艱難辛苦を嘗めながら翁の活動力は愈々漲つて奮闘は績けられた。 |
翁 尾沢豊太郎のこと
つぶし島田 芸者衆に特に好まれた粋筋の髪型。髷の中央部が凹んで潰れている。
薬種 やくしゅ。薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。
売薬 ばいやく。薬を売ること。あらかじめ製造、調合して市販する薬を売ること。
艱難辛苦 かんなんしんく。つらい目や困難な目にあって苦しみ悩むこと。たいへんな苦労
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
漲る みなぎる。力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる。
現在、翁の最後に殘した事業としての東京醫藥株式會社が、小石川音羽町に在るのが、妙な奇綠でもあるが、翁が明治12年、23歳の時、最初の事業に着手したのも小石川音羽町7丁目であつた。そこに翁は司藥場の技師であつた某氏と諮り製藥所を設けて、エーテルを製造し叉神樂坂の自宅構内で蒸餾水、杏仁水、ギブス、林檎酸鐵丁幾等の製造に従事した。これ等の藥品製造に從事したのは恐らく我が邦では最初であつた。翁、去つて今や13年、翁以外にこの藥品製造の動機を聞くべく人もない。何事に依らず慧限な、先見的な翁のことであつたから何等かの大きな動機があつた筈であるが、その術もない。翁は夫等の製造した藥品類を日本橋本石町の藥種問屋中村瀧次郎商店から市場に販賣したのであつた。 |
これら薬品の効能はあるのでしょうか。1846年(弘化3年)にアメリカ・ボストンの歯科医がエーテル吸入麻酔を発見します。また、全身麻酔は1804年(文化元年)華岡青洲氏が行いました。明治12年は1879年なので、吸入麻酔は十分できたと思います。蒸留水、鎮咳薬・去痰薬の杏仁水もできたはず。骨折の固定に石膏(ギプス)を応用することは1852年、フランスの軍医が始めて行ない、これもできたはずです。リンゴ酸鉄チンキは不明ですが、やはり鉄剤でしょうか。
司薬場 輸入薬品の検査のために明治政府が設立した官立の薬品検査機関。
製薬所 医薬品を製造する場所
エーテル 尾沢豊太郎氏はエーテルの製造に初めて成功した。一般的には、エチルエーテルのことで、現在は麻酔剤として用いる。
杏仁水 きょうにんすい。アンズの種子からとる杏仁油を除いたものを水蒸気蒸留し、留液にアルコールと水を加えたもの。苦味と芳香があり、鎮咳薬・去痰薬として用いる。
ギブス 骨折の患部を固定する石膏。
林檎酸鉄 りんご酸鉄。効能は不明だが、やはり貧血か?
丁幾 チンキ。生薬をエチルアルコールやエチルアルコールと精製水とで浸出した液剤
慧限 けいがん。物事の本質を鋭く見抜く力。炯眼。
先見 物事がおこる以前に見抜くこと。
その頃また別に牛込區新小川町に渡邊某と製藥所を設け、煙草の葉から炭酸カリの製造をもやつてゐた。 明治14年には種々の自家製劑を發賣し、そのなかには販賣政策としてイボ・ホクロ取りのやうな、その頃としては珍奇な賣藥を販賣して印象を強め宣傳さした、そして東京中に漸く神樂坂尾澤藥舗の名が擴がり、尾澤に行けば、どんな藥もあるといはれた。當時に於いてイボやホクロとりのやうな藥品を販賣するといふのも、實に珍らしいことで、翁がかやうな美容に関する皮膚病藥にまで着眼したことは、良く人心の機微を掴んだものであると思はざるを得ない。 |
明治17年には翁は(中略)、こんどは肝油の販賣に着目した。その頃に外國品で鶴日の出印肝油が輸入されてゐたが、我が邦で肝油製造に從事するといふことなどは思ひも寄らぬことであつたが、翁は逸早く肝油に眼をつけたのであった。傅手を求めて北海道小樽色内町の西川といふ人から鱈肝油を取寄せ、これを精製して、大阪道修町の藥種問屋日野九郎兵衛氏のところから發賣したのである。そしてこの肝油に鷹印の商標をつけた。外國品の鶴日の出印を鷹摑みにして驅逐する意味からであつた。(中略) 明治22年には蜂蜜の衞生試驗を受け、蜂蜜を小詰として營養劑、ならびに調味料として製造販賣した。營養劑としての蜂蜜は昨今、盛んに流行してゐるが、翁は當時早くもこれに着眼してゐたのである。 |
この年(明治28年)の四月には日淸戦役は、我が軍の勝利に歸し、淸國の全權李鴻章と講和條約を締結し、臺灣は完全に我が領土となつた。條約の上では領土となつたが、尚臺灣の蕃族は叛旗を飜すので、畏くも北白川宮能久親王が親征し給ひ、明治29年4月には全く全島を平定されたのである。(中略) 翁は、また臺灣に偉大なる事業を卒先して目論んだ。明治の新聞界の大先輩である故岸田吟香翁、實業界に雄飛した工學博士故久米民之助氏と共に製氷會社の設立を計畫したのであった。(中略) 臺灣に於ける事業家としての翁の面目は遺憾なく發揮されて、あらゆる方面に、その活動力は機敏に働いたが、みないづれも成功してゐた。製氷の如きも、我が邦の先駆を爲すもので今日の隆々たる大日本製氷株式會社は臺灣製氷の後身に當る。 |
夏など單衣を着て、鞭々たる腹を突き出し、恰度、上野公園の西郷隆盛の銅像そつくりといふ恰好をして店頭に立ち、多くの店員を指揮して、『いらつしやいまし』『ありがたうございます』と一々客に言葉を掛けてゐる光景は、神樂坂で尾澤が名物であつた如く、この光景もまた名物たるを失はなかつた。この何事にも拘泥せすに熱心に努力する態度が大勢の店員に輿へた無言の敎訓は偉大なるものであつた。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 46を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだありません。なお、ID 99のほうがこれよりも情報が多く、必ずID 99を見ておいて下さい。
新宿歴史博物館「新宿区の民俗」(5)(平成13年)p.57では「昭和30年前後の神楽坂3丁目付近」と書かれています。
また神楽坂三十年代地図の昭和35年頃では、丸富呉服は東京電力に、神楽魚は食品ストアに変わっています。同様な変化は住宅地図(人文社、昭和35年)でも見られます。つまり、ID 46は昭和35年以前だといいます。
一方、昭和27年(都市製図社「火災保険特殊地図」)と比べると、同時代になるといいます。
神楽坂3丁目(坂下→坂上) |
かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では
万平(すき焼き) ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。 キムラヤ(パン・菓子) 明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 36からID 39までを見ましょう。撮影の方向は、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだないようです。
ID 36とID 37は車2台のバンパーが流れてぼやけ、またID 37とID 38は印画紙?が乾燥し、ID 39だけがまあまあよさそうです。
ID 39について『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)に解説されています。
神楽坂、坂下方向よりの夜景(昭和34年) 現・神楽坂2丁目。神楽坂がそれらしくなったのは、江戸時代といわれている。その後、大正時代には花街として隆盛を極めた。昭和34年に、これだけ着物を着た女性が撮影されたのは、やはり料亭や芸者置屋が多いという花柳界ならでは。 |
しかし、これも新宿歴史博物館 ID 31-35と同様にやらせでしょうね。
神楽坂2丁目 | |
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石川歯科は小栗横丁にありました。