鷲尾浩(雨工)|矢来町

鷲尾浩

鷲尾浩

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「矢来・江戸川」の一部です。ここで出てくる鷲尾わしお氏ってどんな人でしょう。
 私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行く…
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、売ったりする店。書店。本屋。
鷲尾浩 早稲田大学文学士。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。

 また尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には
 矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾 (のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。
 大正15年の、秋の末だった。それまでに二三度は顔を出しでゐたその店へ私が一人で入って行くと、六七人の一座が、店中を占領したやうなおもむきで飲んでゐた。私は少し離れたところで、ちびりちびりやり始めた。
  空白1つがあります。「浩」がはいるはずでしたが。

 筆名の鷲尾雨工うこうという名前も出てきています。
 本名の鷲尾浩氏も「人間直木の美醜」(中央公論、昭和9年)でこう書いています。
 僕が牛込矢来で江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木(註。三十五氏)の関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。
 まず「日本の古本屋」で「鷲尾浩」氏を引いてみます。鷲尾浩氏は「新亜細亜行進曲」を除いて、「男と女」「性の心理」「売淫と花柳病」「愛と苦痛」などはすべて大正10~11年、冬夏社から出た本で、性愛で一杯のものでした。
 一方、「鷲尾雨工」氏は違います。昭和10年、南北朝時代の武将・楠正儀を描いた「吉野朝太平記」を発表し、11年、それで第2回直木賞を受賞。「小説明智光秀」「関ケ原」「明智光秀」「伊逹政宗」「豊臣秀吉」「若き家康」「開拓者秀衡」「甲越軍記」「武家大名懐勘定物語」と書いていきます。つまり、本名の鷲尾浩氏はもっぱら性愛について書き、筆名の鷲尾雨工氏は、直木賞を受賞し、大衆文学の歴史物について書いていました。
 では江戸屋の場所は? 塩浦林也氏の「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)では
 大正14年5月、雨工は住まい探しのため一人で山卯の別宅等に幾日間か滞在して、六日付『都新聞』に「江戸家」の売り広告を見付け、それを居抜きのまま買った。住まいと生活手段とを、一挙に解決しようとしたのであろう。
 神楽坂から少し離れた矢来町の、それも最上等ではない江戸家にねらいをつけたというのは、「このたびの資金など親戚からも一文も出ず」、山卯も「それに対して資金の融通もしてくれなかった」ので、「殆んど無一文」(鷲尾倫子「私の記録」)だったからであるが、別に、学生時代以来熟知の土地で、山卯の別宅(西五軒町三番地。赤城神社右奥)にも近く、神楽坂周辺が早稲田膝元の繁華街として早稲田派文士の集まる所だと知っていたからでもある。

大正11年東京市牛込区(江戸屋)

大正11年東京市牛込区(江戸屋は赤点)


塩浦林也「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)から


 さらに「鷲尾雨工の生涯」を続けます。
 一家が江戸家に移ったのは大正14年5月末だった。
 江戸家の位置は、牛込区矢来町22番地の表通りに面した所(現・松下文具店の位置)である。ほぼ筋向かいの地にお住まいの岡田啓蔵氏によれば、岡田氏宅の正面が千葉博己宅だったとのことだから、22番地から20番地の間に5軒あったことになる。地図で見るとそれぞれの区画が約4間幅だから、若干の大小はあってもほどんどの家が約2間間口で、22番地にも、ともに2間間口の江戸家と金子洋服店が立っていた。
 江戸家の外見は、2階建の正面上部いっぱいに「江戸家」の横看板があり、入口にのれんが掛かっていたようだと岡田氏は語られる。家の内部は、「店の土間には板がはってあり、ガタ/\と歩くたびにうるさい音がするのです。その土間を上ったところが4畳半。それに台所が板敷きで、真中に水道の蛇口があって廻りを管のやうに囲んであり、坐ってお茶碗でも何でも洗ふのです。こんな台所も都合のよいものでした。2階が3畳、4畳半とあって老母2人で2階は一杯ですから、私共は4人(引用行注――雨エ、倫子、長男、二男)で4畳半。それも荷物の中に人間がはさまったやうな、あんな生活がよくも出来たものと唐寒さを覚えます」(「私の記録」)と倫子が書いている。
 なお、坂学会会長の山野氏の言では、中央の坂は「おぼろの坂」というようです。また、見にくいですが、隣のアイコン「おでん」は鷲尾氏の家を指しています。現在は「シーフードダイナーFINGERS神楽坂店」です。

神楽坂通り(2丁目北西部、360°)

文学と神楽坂

 神楽坂通りの2丁目北西部です。まず場所を確認します。


 神楽坂通りを、路地角に建つ「俺流塩ラーメン神楽坂店」(関東大震災前は「かもじ屋」)から、神楽坂仲通りの「さわやビル」(以前は「佐和屋」)まで行きましょう。1927年➊「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷。昭和45年新宿区教育委員会)では、店舗は計11軒ありました。

1927年 ➊ 古老の記憶による関東大震災前の形。神楽坂クラブは明治44年2月、大逆事件の合同茶話会を行った場所。

 一方、➋2017年にはここには6軒しかありません。この11軒のうち1927年と同じ軒は1軒のみで、神楽坂仲通りに接する佐和屋(さわやビル)でした。

2017年➋ 住宅地図

 では、2017年から時計を逆に回し、33年前、つまり➌1984年ではどうでしょうか。

1984年➌ 住宅地図

 上図を見る限り、➋とはほとんど変わりません。変わった点では➌の「さわや」から➋の「さわやビル」に変化しました。1990年に「さわやビル」ができています。あと➌の「ニューイトウ靴店」から➋「食道楽」と「第83東京ビル」に変わっています。

 では、➍1970年(2017年から43年前)はどうでしょうか。さすがに変化が出ます。

1970年➍ 住宅地図。

1番目は「さわや化粧品」のお隣に「亀井寿司」があったこと。2番目は「ヴェラハイツ神楽坂」はまだなく、かわって1970年には「喫茶クラウン」と奥の「旅館 かやの木」があった点です。
 また「コーヒー坂」と「イトウ靴店」➍から「ニューイトウ靴店」➌になり、それから「食道楽」と「第83東京ビル」➋になりました。しかし、地元の人によれば、おそらく「コーヒー坂」と「イトウ靴店」は2つのままだったといいます。つまり、1984年➌の「ニューイトウ靴店」が間違いで、正しくは「ニューイトウ靴店」と何か他の店舗があったというのです。なお「第83東京ビル」は1990年にできています。

 さらに昔に行くと、➎1963年では…

1963年➎ 住宅地図。

「神楽坂ビル」が「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」の2つに別れています。また「旅館 かやの木」は「旅館 かぐら苑」になっています。

 では、戦後すぐの地図はどうでしょうか。➏1952年です。

1952年➏ 昭和27年、火災保険特殊地図

「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」が「(料)かほる」になっています。

 つまり、第2次世界大戦後の6軒などは、あまり大きな変化はしていません。名前とその建物は色々変わりますが、所有した土地になるとおそらく変化していません。

 戦前の地図はあまり多くはありません。まず➐1937年の火災保険特殊地図です。

1937年➐ 火災保険特殊地図

 1937年➐の「スシヤ」と1970年➍や1963年➎の「亀井寿司」は同じでしょう。1937年➐に戦後➎を重ねてみると…(赤字は戦後)

 次は➑1930年です。うち下が昭和5年頃です。ちなみに上は平成8年です。

1930年❽新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)

 昭和5年の地図を1937年の地図に加えて、下図になります(赤字は戦前)。なお、大内理髪店は上図❽と同じで、幅は大きくしてあります。また「神楽坂クラブ」は正式には奥まった場所なので、ここではそこに行く道を2本の線で表しています。なお、この路地は戦前と戦後で、路地の場所が違います。そもそもこの路地が続く建物は、➐は都館、➎はかぐら苑で、その建物の大きさも違っています。土地の所有が変わっている可能性もあると地元の方。

 これを1927年➊の「古老の記憶による関東大震災前の形」と比べてみます(下図)。いろいろな点で同じです。

➊1927年

 左から見ていくと、「佐和屋」は「さわや」に漢字からひらがなに変換し、「靴屋」は「川口下駄」と「堀田洋服店」になり(靴屋=川口下駄)、「ハンコ屋 西山」は「愛両堂印店」(ともにハンコ屋)、「幸煎餅店」は「神楽せんべい」(2店ともせんべい)、「大内理髪店」は同じで、「はき物 脇坂」は「瀧上靴店」「近江屋下駄」になり、「小林金物店」と「金物・小林」はまず同じで、「遠藤書店」は「文泉堂書店」になり、「かもじ屋」(女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪)から「えり庄」(衣服のえりの店舗)になりました。

 戦前の「貸席 神楽坂クラブ」は「ハンコ屋 西山」の左側の路地、あるいは「靴屋」の右側の路地に入っていきました。戦後はこの「ハンコ屋 西山」は「喫茶 クラウン」に、「靴屋」は「神楽坂ビル」と名前が変わります。その中にあった「旅館 かぐら苑」は「ハンコ屋 西山」の右側にでてきます。つまり、戦前は「神楽坂ビル」と「ヴェラハイツ神楽坂」の間に路地があり、戦後は「ヴェラハイツ神楽坂」と「陶柿園」の間にあったのです。

坂道の独特の景観と“遊び方”|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)から「坂道が作る独特の景観」「坂道の“遊び方”」(2006年秋)です。氏は産経新聞記者で、初の女性編集長になりました。
 まえがきでは「実際に暮らしてみての東京。それも酸いも甘いもかみ分けた(はずの)、大人の五十代が感じた等身大の大都会。大阪の新聞社で長く生活面の記者をしてきたから、衣食住は取材の基本だ。見て聞いて食べて住んで、心に残る東京を語ってみよう」 はい、難しいけれど、できればそうしたい。

坂道の独特の景観

坂道が作る独特の景観 東京には坂道が多い。名前がついているものだけでも600とも1000とも言われる。東京を語るのに坂道は欠かせないが、さすが東京、「そうですか」で済まない人が多いのは、坂道を語る本が多いことでも知られる。だから、町歩きが好きな知人がたまたま新宿区の戸山公園を散策していて、声をかけた男性が坂道ウォッチャーであったのも、さほど珍しい偶然というわけではないのかもしれない。で、「面白い人に出会ったのよ」と紹介され、話を聞くことになったのも。
 お名前を山崎浩さん(72)という。大手企業をリタイアし、5、6年前から坂道ウオッチングを楽しんでいる。その日に歩いていた戸山公園は尾張徳川家下屋敷があったところで、なんと園内に箱根山を模した40メートルを超す築山もあり、そこで知人に出くわした。「何しているのですか」とお互い話が弾み、メールを交換する仲になった。都会にはそんな出会いもあるらしい。知人も相当町歩きの達人だが、その彼女が興味をかきたてられるほど、山崎さんの「坂道熱」は高かった。まず持ち物が違う。並みの案内書だけでなく、江戸切り絵図、過去と現在とを比べた重ね地図のコピーをたずさえ、そこをマーキングしつつ歩くという徹底ぶり。すでに600の坂を踏破したという。600といえば主だった坂ほぼすべてじゃないですか。「まあ、そうなりましょうか。いまはかつてあった坂道がどう変貌したか、あるいはしていないか。そちらの方に興味が移り、同じ道を歩き直しているところです」
 確かに東京の坂道を歩いていると、道の上と下では日当たりもがらりと違って階層というものを見せつけられる気がするし、六本木の裏道あたりのしゃれたレストランは決まって坂道の途中にあり雰囲気を増す。坂道は東京の街に独特の景観を作り出しているんだな、という感想は持つけど、それっきり。山崎さんをそこまで駆り立てるものは何なのか。「若いころはどこに行くにも徒歩で、なんで東京ってところはこんなにでこぼこしているんだ、と体に疑問がしみこんだ。それを解読しているわけですが」。もちろんそれだけじゃあない。


戸山公園 戸山公園は新宿区戸山一・二・三丁目、新宿区大久保三丁目からなり、箱根山地区(箱根山を中心とした地区)と、大久保地区(明治通りを隔てた地区)に分かれる。かつて箱根山地区の一帯は江戸随一の大名庭園と称された尾張徳川家下屋敷「戸山莊」があった。6代藩主宗春の頃には「東海道」を模して宿場町や渡船、山道などが再現され、人間がいない点以外はまるでテーマパークのようだった。
坂道ウォッチャー 坂道の観察者、観測者、見張り人、番人。
尾張徳川家 徳川御三家のひとつ。徳川家康の第9子義直を始祖。名古屋に居城に、石高は61万9千石。尾張家。尾張徳川家。
下屋敷 したやしき。江戸時代、本邸以外に江戸近郊に設けられた大名屋敷。

東陽堂『新撰東京名所図会』第42編

箱根山 神奈川県南西部、富士火山帯に属する三重式火山。
築山 つきやま。日本庭園に人工的に土砂を用いて築いた山。
江戸切り絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。分割して詳細を示した。江戸市街図刊本にこの例が早くからみられる。
重ね地図 東京と江戸時代の地図を、重ね合わせて表示する地図。
マーキング しるしを付ける。目印を付ける

坂道の“遊び方”

 坂道ウォッチャーの山崎浩さん(72)はこれまで東京の坂道600本を踏破した。しかし、まだ坂道を登りきった気がしない。「次から次に知りたいことが出てくるのです」
 そもそもの疑問は東京になぜ坂道が多いかだった。「地理的にいえば、東京は多摩川扇状地。そこに流れ込む無数の小さな流れが関東ローム層を削り、凹凸の多い地形になった。それを江戸幕府は町づくりに利用したといわれますね」。坂道の名前はどうやって決めたのか。「江戸以来の名前が多いですが、歩いてみてよくわかりました。実に単純。見たまま、それらしい名前をつけています」。例えば、富士山が見えるから富士見坂。うねうね曲がっているのでへび坂。狭いところなのでねずみ坂。「昔は地図なんてものがないわけですから川や橋、そして坂道が目印になった。いわば住所地がわりだったのです」。なるほどなるほど。「あっ、これらはもちろんすべて受け売りです」
 坂道案内の指南書はたくさんあるが、山崎さんが基本図書にしているのは横関英一著『江戸の坂東京の坂』、明治以降の坂が詳しい『江戸東京坂道事典』、わかりやすい『歩いてみたい東京の坂』など。そして江戸時代との比較で『江戸明治東京重ね地図』、江戸の地誌が詳しい『新編武蔵風土記稿』 『御府内備考』などが必需品だという。
 江戸から現代にいたるまで東京は大災害にあい、都市開発が続き大きく変遷した。坂道の運命もそれに伴い消滅したり、平らになったりしたのだが、それらを確認しながら坂道を歩くと、東京歴史散歩をすることになる。「鉄道、都電、オリンピック、この三つが東京の顔つきを大きく変えたことがよくわかりました」。こうなるともはや都市研究家。
 2006年の江戸川乱歩賞を受賞した早瀬乱さんの『三年坂 火の夢』(講談社)は、江戸の華・火事と坂道とをモチーフにした力作だ。「三年坂で転んでね」。謎の言葉を残して急死した兄の足跡を追ううち、文明開化の東京の陰影があぶり出される。あれ、読まれしたかと山崎さんに聞いたら、「三年坂は東京にはいくつもあり、名前が変わっているものもありましてね」と、たちまち解説が始まった。まさに作品の謎にかかわるところ。坂道ひとつでこれだけ都市を一人遊びできる。そこがすごい。

ウォッチャー watcher。ある対象を定期的、継続的に観察、監視する人。多くは他の語と複合して用いる。「政界ウォッチャー」
多摩川 東京都を北西から南東に貫流し、下流部では神奈川県との境界をなす川
扇状地 川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積たいせき地形
関東ローム層 関東平野をおおっている火山灰層。ローム(loam)とは砂、シルト、粘土からなる土壌の組成名で、国際土壌学会法ではシルト・粘土の合量35%以上、粘土(<0.002mm)15%以下、シルト45%以下と定義される。
富士見坂 新宿区では旧尾張藩邸に元々あった坂。現在は自衛隊市ヶ谷駐屯地内。その場所は不明。
へび坂 蛇坂。港区では三田4丁目1番、4丁目2番の間で、付近の藪から蛇の出ることがあったため。
ねずみ坂 鼠坂。新宿区の鼠坂とは納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂だった。現在は歩道橋に取って変えられた。
横関英一著『江戸の坂東京の坂』 昭和45年に有峰書店から出ている。続は昭和50年。ほぼ全ての坂が書いてある。
『江戸東京坂道事典』 石川悌二著。出版社は新人物往来社。平成10年。同じ作者の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)のほうが早い。この2冊、内容もほぼ同じで、ほぼ全ての坂が書いてある。
『歩いてみたい東京の坂』 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)。限られた坂について微細に書いてある。
『江戸明治東京重ね地図』 江戸時代・明治時代の東京と、現代の東京の地図を重ねて表示できるアプリ。16500円。しかし、2020年3月31日から、サービス提供は終了。「一般社団法人 地歴考査技術協会」で後継サービス提供を計画中。
『新編武蔵風土記稿』 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
『御府内備考』 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
早瀬乱 はやせ らん、小説家、ホラー小説作家、推理作家。法政大学文学部を卒業。生年は昭和38年。
『三年坂 火の夢』 2006年、第52回江戸川乱歩賞受賞作。兄が残した言葉の謎を追う実之。東京に7つある三年坂の存在に辿り着いたとき、さらなる謎が明らかになってくる。
三年坂 三年坂で転ぶと三年以内に死亡するか、転べば三年の寿命が縮まるという俗信がある。本来は寂しい坂道だから気をつけろという言い伝え。詳しくは三年坂・由来で。

浄瑠璃坂の討入り|竹田真砂子

文学と神楽坂

 竹田真砂子氏の『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)です。

 この(浄瑠璃)坂で、寛文12年(1672)2月2日仇討ちがあった。
 仇は元宇都宮藩奥平家重臣奥平隼人はやと、討手も同じ藩の出身で奥平源八げんぱち
(中略)その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であったという。古記録『義のかたきうち物語』は、仇討ちのときの源八を(おおむね)こんなふうに伝えている。
『肌には白小袖緋綸子ひりんずの重ね下着に南蛮鎖なんばんぐさり着込みを着し、白綸子の小袖の上には黒糸で角の内に一文字、紅梅色の糸で八幡大菩薩と縫い取り。そして十たびの太刀をはき、一幅の緋綸子をもちいて鉢巻きとしているが、そのうえから柳の糸のように乱れかかる黒髪の有様はあっれ武者ぶりの美しさ。昔、九郎判官ほうがん義経頼朝の代官として西国で戦ったとき、赤地の錦の直垂ひたたれ黒糸おどよろい鍬形打ったかぶと猪首に着てこう手造りの太刀をはき采配を振るお姿は諸軍に勝れて見えたというが、それでも彼ほどではなかったろう、と皆々が誉めた』

 真偽のほどは定かではないが、ともかく美丈夫と伝えられ、日本のアイドル中のアイドルともいえる源九郎判官義経に勝るとも劣らぬほどの美々しく健気ないでたちであったとは恐れ入るが、そういわしめるだけの魅力を源八は持ち合わせていたと見える。
 この源八に助太刀するもの、筆頭家老夏目勘解由かげゆの嫡男夏目外記げき以下41名。総勢42人という大所帯であった。
 時刻はまだ夜が明ける前の寅の刻(午前四時ごろ)。浄瑠璃坂上、鷹匠町戸田七之助組屋敷前に勢揃いした42人は、大斧で門扉を打ち破り、抜刀して屋敷うちへ侵入した。
 浄瑠璃坂討人りの基本資料となっている『中津藩史』には『槍は(屋内では使いにくいので)特に門内に残しておき、松明たいまつを振りかざし、刀を抜き払って侵入したが、老人婦女子は殺傷してはならぬ、と互いにいさめあった』とある。不意の討入りで屋敷内がかなり混乱していたようだ。
 ところが、せっかく討ち入ったというのに、目ざす仇の奥平隼人はいなかった。親類の家で囲碁に興じていたための不在であったという。


若衆 わかしゅう。年若い者。若者。若い衆。美少年。特に、男色の対象となる少年。ちご。
義のかたきうち物語  宇都宮市立図書館にあり、新宿区図書館や国際国会図書館にはありません。
白小袖 しらこそで。白無地の小袖。しろむく。
緋綸子 ひりんず。緋色の滑らかで光沢がある絹織物。緋色ひいろ#db4f2e
南蛮鎖 16世紀ポルトガル人が日本の武将に献じたヨーロッパ製の鎖帷子(かたびら)。帷子とは細かい鎖を平らに編んでつくった略式の防具。
着込み 上着の下によろい・腹巻き・鎖帷子くさりかたびらなどを着込むこと。
紅梅色 こうばいいろ。紅梅の花の色のようなやや紫みのある淡い紅色。#f2a0a1
十たびの太刀 よくわかりませんが、「十回ほど丹念に打ち、また鍛えた太刀」でしょう。
八幡大菩薩 八幡神に奉った称号。仏教の立場から八幡宮の本地を菩薩として呼ぶ。
九郎判官義経 源義経。幼名は牛若丸。平安末期・鎌倉初期の武将。九郎は源義朝の九男だったから。判官は律令制で四等官第三位の官。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
直垂 主に武家社会で用いられた男性用衣服。

黒糸威し よろいの「をどし」の一つ。黒糸で綴られたもの。甲冑を作る際、縦方向につなぎ合わせることを「おどす」といい、各パーツをつなぎ合わせているのが「縅毛おどしげ」といっていました。
鍬形 かぶとの前びさしの上に、角のように二本出ている金具。
猪首 首が短く見えるところから、かぶとを後ろにずらして、少しあみだにかぶること。敵の矢も刀も恐れない、勇ましいかぶり方という。
こう手造り わかりません。ちなみに甲手こうしゅは手の過労性腱鞘炎。甲手こては小手、籠手、篭手とも書き、ひじから手首までの部分。なお、手甲(てっこう)は、上腕から手首や手の甲までを覆うように革や布でできた装身具
戸田七之助組屋敷 延宝年中(1673-80)の戸田七之助組屋敷は右下の青色で囲んだ地域(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)
中津藩史 黒屋直房著の『中津藩史』(国書刊行会、1987)です。

延宝年中(1673-80)

 初回は失敗と思えました。仇討ちを断念した一党が牛込橋前まで来たときに、隼人が手勢を率いて追ってきて、源八は隼人と対決し、討ち取りました。

 夜が明けてくる。味方に手負いもでた。いつまでも長居はできない。近くの辻番所で戸板を借りて手負いを乗せ、みなみな心を後に残しながらもひとまず引き揚げることにする。元来た道をたどり、水戸藩邸の少し手前、牛込土橋まで来たとき、後から弓矢、槍を引っ提げた武士20人余りを従えた隼人が追い駆けてきて、再び戦いが始まった。隼人方は矢を射かけ、槍を振り回す。源八方は、手負いと共に隊列を離れた者もあり、人数は半分になっていたが、ここでは、室内で使用できなかった槍を存分に振り回して、ついに隼人を水中に追い詰め、伝蔵の助太刀のもと、めでたく源八は本懐を遂げた。

辻番所 江戸時代、辻斬りが横行したことから寛永6年(1629)に江戸市中の武家屋敷町の辻々に設け、辻番人を置いて路上や一定地域の警備をさせた番所。町方で辻番所にあたるものは自身番である。
水戸藩 水戸藩上屋敷は文京区後楽地域や春日地域(現在の小石川後楽園など)。
牛込土橋 城郭の一構成要素。堀を横断する一種の橋。牛込橋。
水中 外堀の水中に落ちたともいいます。
本懐 もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。

 これから30年後の1702年、赤穂浪士の討入りが起こっています。

「どんどん橋」は一般名詞? 固有名詞?

文学と神楽坂

 神楽坂に住む地元の人がこんな異議を送ってくれました。 神田川(昔の用法では江戸川)にある「どんどん橋」についてです。
 まずその内容です。
「どんどん」は2つ?
 こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。
 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。
 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」
 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。
 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。
 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。

 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。
「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。

 まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
 赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。

「溜池葵坂 溜池は、江戸時代初期に広島藩主浅野幸長が赤坂見附御門とともに築造した江戸城外堀を兼ねる上水源で、虎ノ門から赤坂見附まで南北に長さおよそ1,400m、幅45~190mの規模を持つダムである。写真はその南端部の堰の部分で、堅牢な石垣の間から滝のように流れ出ている水が溜池の水である。どうどうと流れ落ちる水量の多さから、その落とし口は「赤坂のどんどん」と呼ばれ、江戸の名所の一つとして錦絵にも数多く描かれている。葵坂は写真左手を緩やかに登る坂で、高い樹本のあたりが坂の頂上となる。溜池は明治10年(1877)にこの堰の石を60cmほど取り除いたところ、瞬く間に干上がってしまったという.またこの付近は大正から昭和にかけての大幅な道路改正が行われ、葵坂は削平され、溜池も埋め立てられて外堀通りとなった」マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。


 右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製。日本地図センター、2011年)

 解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
 町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。

船河原橋之義町内東北之方御武家方脇小石川辺之往來、江戸川落口掛有之、船河原橋相唱候訳、且里俗どんどん橋相唱候得共
 なお、御府内備考の牛込御門の外にある「牛込橋」では「どんどん橋」だと書いてはありません。おそらく時間が経ち「どんどん橋」から、普通の橋になったのでしょう。御府内備考の「牛込御門」は……
    牛込御門
【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
 さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋だろうと思っています。

神楽坂地蔵屋

文学と神楽坂

最近気がついたものは、せんべいの自販機があったということ。インターネットでは

神楽坂地蔵屋     2020年9月30日
お煎餅の自動販売機を神楽坂地蔵屋の本店に設置しました。手土産も充実しています。是非皆さま、お立ち寄りください!

かなり昔からあったんですね。神楽坂通り五丁目を南に上がり、藁店(地蔵坂)から袋町に出ると、登場します。


2つ、買ってみました。1つは「はちみつおかき」で、賞味期限は2021.4.24、125g、580円。もう1つは「こわれ久助」で、賞味期限21.5.25、150g、500円。買った日は21.1.29。

決して湿ってはいません。でも、高級品を食べたって感じはない。そもそも、せんべいの高級品であるのかなあ。しかし、なかなか美味しい。

2012/2/22、この日もテレビかな、録画をしてました。

2012/3/13、こんな新聞広告も掲載していました。すごい! お主はただの煎餅店ではない。

神楽坂下の夜景(写真)昭和34年 ID 39, ID 31, ID 32

文学と神楽坂

 4枚の写真は50~60年代の神楽坂の夜景です。新宿区新宿歴史博物館にいけば、おそらくさらに沢山の写真(坂下中腹)があるのでしょう。

 最初は昭和34年、神楽坂の中腹部です。

『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)(昭和34年)

「神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目
  1. 電柱看板「石川歯科」。小栗横丁にある
  2. 「夏目写真館」とネオン「photograph 夏目写真館」
  3. 「+ク」スリ。神楽坂薬局。「☎でんわ」と解熱鎮痛剤「ケロリン」。「ハーモニン 神楽坂薬局」
  4. 「田」丸屋。せんべい。「手焼せん 」
  5. ネオンは「洋装生地 林屋」
  6. 化粧品の十奈美。見えません。
  7. 山岸煎餅店。見えません。
  8. 洋品の「エス」ヤ
  9. 「メガネ」と、ひとつ奥には「ト」ケイと時計10:10。大川時計
  10. 肉・増田、太陽堂。見えません
  11. 神楽坂仲坂。見えません
  12. 山本薬局。見えません
  13. 「ヒデ美容室」
  1. 「パチンコマリー」。現在はカグラヒルズ。
  2. 「ヤマヤ ⇒」
  3. 「洋食と喫茶 京屋 どうぞ⇒」。一軒ほど右奥にはいった場所にあります。
  4. 壁面看板「ジュ 」「靴 はニ 」
  5. 「靴 ニューイトウ」。広告のぼりは「セカイチョ」。運動靴の会社「世界長 セカイチョー ゴム株式会社」。「文部省教育用品審査合格品」
  6. 「コーヒー坂」と「陶柿園」は見えません。
  7. 「旅館 かぐら苑」。右奥にはいった場所にあります。
  8. 「珈琲 グラウン」と 「クラウン」
  9. 「ルナ美」容室。
  10. 「ポーラ化粧品」
  11. 「亀井鮨」
  12. 喫茶「七福」


 下図は小さな文字で描かれていますが、大きくすると、店舗の名前もわかります。

神楽坂1~2丁目。1963年の住宅地図。

 2番目は神楽坂下から見た写真です。時代は同じく昭和34年。

新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡

➀ 「赤井商店」。戦前は足袋店。戦後は紳士用品や高級シャツの仕立てで「赤井シャツ店」に。1996年、転業し、10年間喫茶店。
➁ 印章・ゴム印で「津田印店」
➂ 「パチンコ」。おそらく「パチンコマリー」
➃ 「清水衣裳店」。結婚式、成人式、卒業式等の貸衣装店。現在は千代田区飯田橋3-2-12に。
➄ 「田原屋」。坂上の田原屋の兄弟店。フルーツパーラー。
➅ 「パチンコ」

 ほかに一方通行の標識があります。この時期、道路は坂を上る方向だけでした。

 3番目「神楽坂まちの手帖」第12号の「昭和30年代とその周辺 僕らの育った神楽坂」は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 32と同じものです。

新宿歴史博物館 ID 32 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 31では

新宿歴史博物館 ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)。時代は昭和42年。着物を着る芸者はもうなくなっています。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

赤井足袋店(神楽坂入口付近/明治40年代/『新修 新宿区区史』〈都立中央図書館蔵〉)
神楽坂下の角、現在では不動産屋になっている場所(神楽坂1-12)にあったのが「赤井足袋店」である。足袋の形の大看板に江戸の名残が感じられる。神楽坂の入口の良い目印であった事だろう。戦前は足袋店だったが、戦後は足袋と共に紳士用品や高級シャツの仕立てを行い「赤井シャツ店」となる。1996年に転業して10年間喫茶店を開いていた。2006年から不動産屋となっている

田原や(フルーツパーラー)
氷メニューが豊富でした。美味しかったですよ。ソフトクリームが美味しくて、それを使ったパフェも絶品!甘いものが苦手な人には小ぶりの丸パン3つに違った具をはさんだバンズセットというのが人気でした。当時の私は、お昼のお弁当を食べて、夕方それを食べて、家でまた夕食を食べるという食い気ばかりの高校生でした。(そうそう、そこの氷が独特で、名前も変わっていて、スノーハワイアンっていったかな?)



2度目の緊急事態宣言と神楽坂

文学と神楽坂

 地元の人からの情報提供です。

東京都などに、新型コロナウイルス感染症に対する2度目の緊急事態宣言が発令されました。

昨年(2020年)は神楽坂の表通りだけでも、炉端の炉(3丁目)、鳥茶屋(4丁目)、鮒忠(5丁目)などが閉店しました。地元商店会によれば、退会した店は約20店舗だったということです。

飲み屋の多い裏通りは、さらに大きな打撃を受けています。神楽小路を歩くと閉店の張り紙をいくつも見ます。世話役が店を閉めたため「神楽小路親交会」は解散したそうです。

昨年の緊急事態をなんとか乗り切った店が、2度目の打撃に耐えられるかどうか分かりません。ワクチン接種が始まり、なんとかコロナが収束してくれることを祈念しています。

一方で、この事態にしたたかに立ち向かっている店があることも事実です。昨年の春まで神楽坂の貸し店舗には空きがなく、新規に店を開けない状態でした。コロナで空いた後、直ちに出店したのが「すしざんまい」(3丁目)です。チャンスだと考えたのでしょう。またコロナ以前に建設が始まっていた大久保通り角のビル(5丁目)にも、コンビニの出店が決まったそうです。

コロナを機にビルの建て直しを始めたところも、いくつかあります。ビル完成時にはコロナが収まっているだろうとソロバンを弾いたのでしょう。なるほど、しばらくは商売にならないから、逆に休業・転業してビルを建て直すにはいい時期といえます。ビンチをチャンスに変える戦術かもしれません。

地元商店会によれば、新たに入会する店も10店ほどあるのだそうです。神楽坂は、まだまだ強いなと思います。


2度目の緊急事態宣言 2021年1月7日です。
炉端の炉 鳥茶屋 鮒忠 図を参照
世話役 ラーメン屋「黒兵衛」店主です。黒兵衛も閉店しました。
解散した 神楽小路(360°VRカメラ)の360°カメラの5枚目か6枚目にあります。

すしざんまい 炉端の炉と同じ場所です。

大久保通り角のビル 10階建てのビルです。名前は「神楽坂5丁目ビル」でした。現在は「セブンイレブン 神楽坂5丁目店」です。完了予定は2020年11月でしたが、実際には遅れて築年月は2021年1月でした。

 また「ここは牛込、神楽坂」第4号で「泉鏡花の神楽坂時代」で竹田真砂子氏が書いている……

 「婦系図」には、めの惣という魚屋が登場します。原作ではあまり目立ちませんが、劇化によってお蔦主税の悲恋がクローズアップされるに伴い、欠かせない人物になりました。めの惣のモデルが、現在、当主五代目をかぞえる料理屋、うを徳の創始者であることは、すでにご案内のとおりです。このうを徳が、魚屋から料理屋になるとき鏡花は、開店御披露報條を記して祝いました。
報條 報条。ほうじょう。引札ひきふだ。ちらし。

 この「うを徳」も2022年に閉店しました。

牛込・神楽坂 酒問屋 升本総本店の別館「涵清閣」 主人が語る https://blog.goo.ne.jp/sake-masumoto/e/bb8eddb82b096a97453cbabb5cd4cc31

材木横丁|津久戸町

文学と神楽坂

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)を引用します。坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長です。

井上 この先をゆくと、材木屋が見える道に出る。
坂崎 で、『材木横丁』。
井上 安易ですねえ。でも、途中のビルの脇にビーナスの裸像があった。
坂崎 じゃ材木横丁、別称『ビーナス横丁』
井上 う~ん。ま、いいでしょう。

ビーナスの裸像 大久保通りから材木横丁にはいって1分以内、大郷材木店の反対側(OSビル)にあります。

 材木横丁は大郷材木店の名前から出ています。

 大郷材木店は元から持っていた津久戸町の場所に移転しました。しかし、東京都都市整備局Webの「都市計画情報」では相当部分(青色)が新しい道路になります。なんかなあ。でも、残っている土地もあるので、まあ、いいか。


和泉屋横町|白銀町

文学と神楽坂

 和泉屋横町ってどこ? 「町方書上」で牛込白銀町には

町内東横町、里俗和泉屋横町申候、以前和泉屋と申酒屋住居仕候故申習候

 つまり、和泉屋横町は白銀町内の東にあり、酒屋の和泉屋があったといいます。また東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では…

     ◎町名の起原幷に沿革
牛込白銀町は慶長年間の開創にして。田安の地に居住したりしもの移したる所なりといふ。町内に和泉長屋と稱する所あり

 東京都新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(昭和51年)では津久戸町について

白銀町との間を俗に和泉屋横町といった

 なるほど白銀町と津久戸町を分ける場所だったんだ。つまり灰色の場所だったんだ。

 さらに新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば…

牛込白銀町 起立の年など詳細は不明。一説には慶長年間(1596~1615)の江戸城修築の際、田安(現千代田区)の住人を移して町を開いたともいう(町名誌)。町内の東側のあたりは、かつて和泉屋という酒屋があったことから和泉屋横丁と呼ばれていた(町方書上)
 明治4年(1871)6月、常陸松岡藩中山家(水戸藩付家老)上屋敷ほか近隣の武家地と合併(市史稿市街篇53)。明治44年、「牛込」が省略され白銀町となり、現在に至る。

 江戸時代、「牛込白銀町」は2つありました。2つとも「牛込白銀町年貢町屋」でした(青色)。「年貢町屋」とは年貢を納める農家がある町。明治4年、白銀町は拡張し、拡張した町は黄緑色で描いています。巨大な場所です。

 2つのうち中央下のほうの牛込白銀町に「和泉屋横町」があったのでしょう(赤色)。現在はマンションになっています。なお、明治時代には「和泉長屋横丁」と呼ばれたようです。


なぜ、小説家は昭和2年に洋行できたのか

文学と神楽坂

 はい、数年前から売れている小説家は豊かに、金持ちになっていったのです。巌谷大四氏が書いた「懐しき文士たち 昭和篇」(文藝春秋、1985年)では…

 大正15年10月19日、昭和改元の二ヵ月余前に、改造社が「現代日本文学全集」(全38巻)を大々的に発表した。三ヵ月遅れて新潮社が「世界文学全集」(全38巻)を、これまた大々的に発表した。どちらも定価一円ということで、円本合戦、円本時代という言葉が生れた。(中略)
 この二つの全集が口火となって、続々と全集が出はじめた。創業50年記念と銘うった春陽堂の「明治大正文学全集」(全50巻)、新潮社が「世界文学全集」に次いで打ち出した「現代長篇小説全集」(全24巻)、当時新興出版社であった平凡社の「現代大衆文学全集」(全40巻)(中略)といった具合に、次から次へと、全集が刊行され、漱石蘆花独歩啄木等の個人全集も続々刊行されて、まさに“円本全集黄金時代”を現出した。
 “円本時代”のもたらした印税の札束は、文壇に“洋行熱”を捲起した。昭和二年の末頃から、文士連が次々と憧れのソヴェート、ヨーロッパ、アメリカ、中国へ旅立って行った。

巌谷大四 いわやだいし。編集者、文芸評論家。巌谷小波の四男。早大卒。「戦後・日本文壇史」「波の跫音―巌谷小波伝」などを発表、平成3年「明治文壇外史」で大衆文学研究賞。生年は大正4年12月30日、没年は平成18年9月6日。享年は満90歳。
改造社 出版社。1919年(大正8年)、改造社を創立。総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
新潮社 出版社。明治29年(1896)新声社を創立するも、失敗。明治37年(1904)、文芸出版社の新潮社を創業、『新潮』を創刊。大正3年(1914)、出版界初の廉価本(20銭)「新潮文庫」創刊。昭和2年(1927年)発刊の『世界文学全集』が大成功、現在に到る。
春陽堂 出版社。明治11年(1878年)創業。明治文壇の主要作家の作品を独占的に出版。しかし関東大震災に遭遇、日本橋の社屋全てを破壊される。昭和2年(1927)『明治大正文学全集』で成功し、社業を回復。戦後、春陽堂書店の社名で「春陽文庫」として大衆文学書を発行。
平凡社 出版社。大正3年(1914)小百科事典『や、此は便利だ』の刊行で創業。昭和2年(1927)「現代大衆文学全集」の成功で業界に進出、1931年『大百科事典』全28巻を刊行。1955年に『世界大百科事典』全32巻、同じく全34巻(2007)を刊行。
蘆花 徳冨蘆花。とくとみろか。小説家。小説「不如帰」、随筆「自然と人生」を発表。トルストイに心酔。生年は明治元年10月25日、没年は昭和2年9月18日死去。享年は満60歳。

 金力のため作家も欧米を訪ねることは簡単になりました。

 昭和2年10月13日の朝11時、秋田雨雀は一週間以上もかかったシベリア鉄道の旅を終って、夢にまで憧れたモスクワの駅に降り立った。うっすらと雪が積っていた。その日、モスクワは初雪であった。(中略)
 雨雀より二ヵ月遅れて、最初の夫と離別して心に傷を抱いていた中条百合子は、昭和2年11月30日東京を発ち、京都で湯浅芳子と落ち合って、12月2日、朝鮮―ハルビン経由でモスクワへ旅立った。
 百合子と湯浅芳子を乗せたシベリア鉄道は、ハルビンからバイカル湖畔をすぎ、はてしなく雪の降りしきるシベリアの礦野を七日間走りつづけて、12月15日の夕方、モスクワの北停車場に着いた。(中略)
 正宗白鳥久米正雄より一日遅れて、11月23日、これも夫人同伴で、横浜からアメリカへ旅立った。
 つむじまがりの正宗白鳥は、誰にも知らせず、こっそり旅立とうとしたが、事前にことがもれ、しぶしぶ白状したので、その日は横浜埠頭に、徳田秋声上司小剣近松秋江菊池寛山本有三中村吉蔵細田源吉小島政二郎岡田三郎ら30名余が見送った。
 白鳥はいつもの袴に白足袋といういでたちで、新聞社のマグネシウムをいやな顔をして、ぶつぶつ言っていたが、いざ出帆となると、下から投げられる赤、白、青、黄、さまざまのテープを迷惑そうにつかんでは、にこりともしなかった。
 船が出はじめると夫人の方は、流石に心ぼそくなったのか、べそをかきはじめ、顔をくちゃくちゃにして涙を流しっぱなしで、夢中で手を振ったが、白鳥は、一層しかめつらをして、ぶっとしたまま、それでも気がとがめたのか、大分はなれてから、やっと二度ほど手を振っただけだった。(中略)
 なおこの年は、その他、林不忘夫妻、三上於菟吉長谷川時雨夫妻、与謝野寛晶子夫妻、佐藤春夫中村星湖本間久雄木村毅らが、それぞれ、西欧、中国へ、世界漫遊へとにぎやかに旅立って行った。

湯浅芳子 ゆあさよしこ。大正・昭和期の翻訳家、随筆家。早稲田大学露文科の聴講生だったが、中退後、雑誌・新聞記者となり、大正13年、中条(宮本)百合子と知り合い、一時、共同生活。昭和2年から3年間、2人でモスクワに留学。帰国後、プロレタリア文学に参加。22年「婦人民主新聞」編集長。生年は明治29年12月7日、没年は平成2年10月24日。享年は満93歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早大在学中、小説が新聞の懸賞に入選、卒業後、米国に留学,イプセンやショーの影響を受け、1909年、帰国後劇作家に転じた。1913年、芸術座に参加。社会劇「剃刀」や歴史劇「井伊大老の死」を執筆。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満65歳
細田源吉 ほそだげんきち。プロレタリア作家。早大卒業後、春陽堂に入社。昭和7年検挙され転向する。以降は執筆はなく、府中刑務所の篤志面接委員を務めた。生年は明治24年6月1日、没年は昭和49年8月9日。享年は満83歳
小島政二郎 こじままさじろう。作家。慶応大学卒。通俗小説、大衆雑誌、婦人雑誌が主な活躍の舞台。講釈師の神田伯龍をモデルにした『一枚看板』で認められた。生年は明治27年1月31日、没年は平成6年3月24日。享年は満100歳
マグネシウム マグネシウムリボン発光器の意味。閃光粉ともいう。マグネシウムは空気中で強く熱すると閃光を放って燃える。1880年頃から使用。ところが、1929年ドイツで、昭和6年(1931年)日本で、危険性がより少ない閃光電球に変わった。
林不忘 はやしふぼう。小説家・翻訳家。初め谷譲次の名で渡米の経験をつづった『テキサス無宿』。その後、牧逸馬では海外探偵小説や、『地上の星座』など通俗小説を発表。林不忘では、時代物の『丹下左膳』を発表。小説を量産し「文壇のモンスター」との異名をもった。
三上於菟吉 みかみおときち。小説家。早大英文中退。長谷川時雨の夫。時代物の大衆小説を多く書いた。生年は明治24年2月4日、没年は昭和19年2月7日。享年は満54歳。
中村星湖 なかむらせいこ。小説家、翻訳家。早大英文卒。「少年行」が「早稲田文学」に一等当選。同誌の記者となり,島村抱月門下として自然主義を鼓吹した。戦後、山梨学院短大教授。生年は明治17年2月11日、没年は昭和49年4月13日。享年は満90歳。
本間久雄 ほんまひさお。評論家・英文学者。早大英文卒。「早稲田文学」同人、のち主宰者として活躍。英国留学後、早大文学部教授となる。関東大震災後から日本近代文学研究に専念。生年は明治19年10月11日、没年は昭和56年6月11日。享年は満94歳
木村毅 きむらき。小説家、評論家,文学史家。早大英文卒。明治文化研究会同人として、創作・翻訳・評論に幅広く活躍。日本労農党に参加、社会運動に関わる。著作に「ラグーザお玉」「小説研究十六講」など。生年は明治27年2月12日、没年は昭和54年9月18日。享年は満85歳。

 しかし、文士の洋行は長続きしません。まず、昭和4年、米国ニューヨーク市から世界恐慌が始まり、日本にも波及、空前の不況に襲われました。また、日本では言論弾圧が強まり、昭和8年、プロレタリア文学の小説家、小林多喜二氏は拷問死します。さらに昭和11年2月26日、クーデター未遂である2・26事件が起こり、昭和12年、日中戦争が始まり、ついに昭和14年、欧州で第2次世界大戦になり、昭和16年、日本では、米国ハワイで真珠湾攻撃が起こりました。

高島屋10銭20銭ストア(写真)

文学と神楽坂

 「三井住友トラスト不動産」の「四谷・牛込」で「戦前期の四谷・牛込」「神楽坂にあった均一ストア」(https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p06.html)を見てみます。

高島屋

百貨店の『高島屋』は1927(昭和2)年より店内に均一商品の売場を設け好評を得ていた。1931(昭和6)年、10銭均一の『高島屋10銭ストア』を大阪で開業。その後、20銭均一の商品も加えて『高島屋10銭20銭ストア』として全国でチェーン展開。「昭和恐慌」の時勢ということもあり、翌年には51店舗まで成長した。1935(昭和10)年の資料では、陶磁器、菓子、玩具、家庭・雑貨用品など、10銭均一の商品として2,000種以上、20銭均一の商品として400種以上を取り扱っていた。現在の100円ショップの原型といえるものであった。写真は1932(昭和7)年に開店した『高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店』で、1933(昭和8)年頃の撮影

 では、早速、国立国会図書館で東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)のコピーを依頼しました。でてくると、写真はこれだけ。巨大な地図の一部なのでした。

 では文章は? はい、これだけです。

10銭20銭ストア

 あとは全部「三井住友トラスト不動産」が作った説明だったのです。最後に「三井住友トラスト不動産」では

1938(昭和13)年には別会社の「丸高均一店」として独立、最盛期となる1941(昭和16)年に106店舗となったが、その後、戦時下になると均一での販売は困難となり、戦局の激化に伴い次々と閉店に追い込まれた。

「てくてく牛込神楽坂」の「三角堂と買取り店」では神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)からの引用を行い、

相川さん (中略)そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

 高島屋10銭ストアは「時代」が「震災後」の所にあります。

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

すずらん通り(写真)本多横丁 ID 5092

文学と神楽坂

 本多横丁はかつて「すずらん通り」といっていました。記憶に頼ると、巨大なアーチ看板もあったと思います。しかし、写真はない。本当にない。そこで新宿歴史博物館に聞いてました。なんと「すずらん通り」がはいった写真は1枚だけで…

昭和20年代。新宿歴史博物館蔵

しかもピンボケ。でも電柱2本に「すゞらん」と書いてある。

すゞらん通り(拡大図)

 ちなみに、下水はこの時点で汲み取りのおかげで、きれいでした。

 新宿歴史博物館はもうひとつ写真を貸してくれました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5092 神楽坂 本多横丁

 こちらは2階建ての家が少ないことから、時代は少し早く、まだ「すゞらん」と書いていません(と思う)。また、昭和20年代の本多横丁の街灯は、昭和30年代に神楽坂通りで見た街灯(↓)とは少し違っています。

昭和34年。坂下から坂上を見る。『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

 一方、この本多横丁の戦前(ID 96)と戦後の街灯がよく似ています。ただし、電灯の形は違っているようです。

 では地図を見ておきます。これは昭和27年の地図です。中央は本多横丁で、一番下は神楽坂通り。

本多横丁(火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年)

 その次は昭和35年の住宅地図しかありません。これは左に神楽坂通りがあり、真ん中が本多横丁です。

住宅地図。昭和35年

 神楽坂通りに近い場所から写真を撮ったものです。

本多横丁(年は不明)
  1. 「うなぎ」で、「たつみや」
  2. 「中村屋本店」。戦前からある染め物と洗い張り屋。京染(きょうぞめ)とは京都で染めた、また京都風の染め物の総称。
  3. 「めん類食堂 海老屋」
  4. 「松月パン」。この時代は明月堂ではなかった
  5. 「ニン」
  6. 「コーヒー」
  1. 「神楽坂グリル←」
  2. 「飯田橋 犬猫の診療所」。場所は不明
  3. 「パーマネント(みすず)」
  4. すのこの下に「神楽坂」「53部」
  5. おでん
  6. 「神楽坂グリル」
  7. 「㐂らく寿司」。現在もあります。
  8. 電柱看板「パーマネント 大(場)」

20/12/10→21/11/6

神楽坂4丁目(360°カメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂4丁目は明治時代にはかみ宮比(みやび)(ちょう)と呼ばれていました。江戸時代では武家地で岡野、奥津、中村、東條他二、三軒の武家が住んでいましたが、明治2年、土地の開放があり、町屋が出来て市街地となりました(明治20年の地図)。宮比神社があったので、宮比町になりました。

礫川牛込小日向絵図。当時の上宮比町(将来の神楽坂四丁目)は青色の部分。

 上下2つの宮比町があり、この上宮比町と下宮比町との間には牛込神楽町三丁目や津久戸町が介在していて上下のつながりはありません。

明治12年「東京実測図」

 昭和26年5月1日、ようやく上宮比町は神楽坂4丁目と名前を変更しました。通りの北側だけが神楽坂4丁目です。 下の写真は矢印をたたくと左右に進み、黄色の∧はその道路の名前です。

紅小路

 ここで「楽山」から奥に行く小さな路地があります。楽山(前方)とみずほ銀行(後方)の間です。この路地をあでやかに「紅小路」と呼びます。なんで? 通りに面するビル、昔の楽山とみずほ銀行がどちらも赤いビルの壁になっているから。これは今の楽山に変わる前で、今ではそうでもないようですが。


 ではまた元の通りに戻りましょう。
鳥茶屋せんべい福屋の間に大きな路地が見えます。これは賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」、千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」と呼ばれています。酔石

 奥には右側の古い居酒屋「伊勢(いせ)(とう)」と左側のクレープ屋「ル・ブルターニュ 」が対でならんでいます。この奥に、兵庫横丁が出てきます。

 ではもう一度元に戻って、3軒先に進みます。細身

「AWAYA」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」と呼んでいます。神楽坂で最も狭い路地です。

 しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持ってこの路地を抜け毘沙門天で待つ中川時夫に会う

2013年2月21日→2020年12月6日


360度カメラ(5)

5
神楽坂1丁目


神楽坂三丁目

神楽坂四丁目

神楽坂五丁目

高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのか

文学と神楽坂


 特定非営利活動法人「粋なまちづくり倶楽部」の神楽坂を良く知る教科書では…
(6) 三年坂
本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂である。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。

 本当に堀部安兵衛が自分の住居から三年坂を通り、決闘した高田馬場跡に向かったのでしょうか。講談「安兵衛 高田馬場駆け付け」では、自宅は京橋八丁堀・岡崎町にあり、八丁堀から高田馬場へと向かったといいます。しかし、本当の自宅は牛込納戸町のほうがよかったといいます。
 郷土史家の鈴木貞夫氏の『新宿歴史よもやま話』(公益社団法人新宿法人会、平成13年)「高田馬場と安兵衛の助太刀」では… なお、ここでの括弧つきのひらがなはルビに変えています。
 ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
 まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の顛末てんまつ』として事情を書留めるとともに「2月11日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
 元禄元年(1688)越後新発田しばたから江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ徒頭かちがしら稲生いのう七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
 これを根拠付ける、元禄4年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄3年)より唯今に牢人ろうにんにて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は1500石の旗本で延宝8年(1680)から元禄10年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
 稲生屋敷から高田馬場まで、2.2キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
 以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。

牛込元天竜寺 図の左上の天龍寺は天和3年(1683年)、火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越ししました。その後、天竜寺前は代地でしたが、町並名主付にしたいと願い出、元禄九年(1696)町奉行支配となり、御納戸町と名付けられました。また、払方町の地域も合わせて「元天龍寺前」とも呼ばれていました。

地図➀ 地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

竹町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「中御徒町通南側は竹町といわれている。これは寛永12年(1635)に天龍寺が召し上げられた跡に、竹薮があったからといわれる」
御徒頭 江戸幕府の職名。若年寄わかどしよりの支配に属し、御徒組おかちぐみを率い、江戸城および将軍の警固に任じた。

地図➁ 現在の地図

中小姓 ちゅうこしょう。小姓は武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う職種。中小姓は徒歩で随従する歩行小姓
牢人 主人を失い秩禄のなくなった武士。
稲生七郎右衛門屋敷 「地図➀」では橙色で、「➁現在の地図」では赤色で囲んだ家は稲生七郎右衛門の家です。
意外に近い 稲生屋敷から高田馬場までは徒歩で27分でした。駆け足の速度はほぼ2倍、約14分です。
 最後に両者の人数を書いています。

 また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取ぞうりとり七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。

村上 この決闘の一方は伊予西条藩の村上庄左衛門の軍団6~7人。
菅野 他方は伊予西条藩の菅野六郎左衛門の軍団4人。
若党 わかとう。江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった身分が低い従者。
草履取 武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。

 なお、決闘前に自宅にいたという根拠も、全くどこにもありません。たとえば、池波正太郎氏の『堀部安兵衛』では、決闘前日は近くの林光寺に外泊したと書いています。同じ作者の『決闘高田の馬場』では、天竜寺の長屋から決闘に行ったと書かれています。住所でも外泊でも三年坂や本多横丁は全く出てきません。つまり、高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのは、ほぼ間違いなのです。


三年坂|まちの手帖

文学と神楽坂

 平成16年(2004 年)、平松南氏編集の「神楽坂まちの手帖」第4号(けやき舎)の「神楽坂界わいの名坂」「三年坂」では

 三年坂      坂推薦入 坂本二朗さん(坂本ガラス)

 毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、筑土八幡神社の石段の始まる大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。古い記録に「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうなところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。
 坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び、脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、八千代鮨を営む斎藤本多横丁商店会会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ‥。その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸者新道」だ。そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。
 ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。斎藤会長は馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和50年ごろだという。
 「昔の名前で出ています」のほうがすてきだと、わたしも思う。なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も住んでいた頃からのものだから。
 斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛決闘の助っ人に走ったコースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう‥と目を輝かす。ないとは言えぬ、とわたしも思う。
 そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、そこで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。
 堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。それでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。そのことを尋ねようにも坂名に起因した、当時はあった西照院成願院も今は無い。
(明森まつり)


一間四尺 約3m。一間は六尺なので一間四尺は10尺、10尺は約3m。
二間二尺 約4.2m。二間二尺は14尺。
車のすれ違いは難しそうな 実際は南西方向から北東方向への一方通行です。
本多対馬守 江戸前期の旗本である本多対馬守の屋敷があったため。万治元年(1658年)、本多忠将は対馬守に任官している。
すずらん通り 昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。道路も「すずらん通り」になりました。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、昭和27年頃「本多横丁商店会」に改名。しかし道路は「すずらん通り」のままで、大きな街灯看板も残っていました。その看板を変更したのは昭和50年ごろです。
昔の名前で出ています 歌謡曲「昔の名前で出ています」は1975年(昭和50年)に小林旭が発表。作詞は星野哲郎、作曲は叶弦大でした。
大久保彦左衛門 「小日向小石川牛込北辺絵図」(嘉永2年、1849年)では

大久保彦左衛門の家

堀部安兵衛 江戸時代前期の武士。赤穂47士で一番の剣豪。高田馬場の決闘で有名に。生年は寛文10年(1670年)、没年は元禄16年2月4日(1703年3月20日)。享年は数えで34歳。
決闘の助っ人に走った 講談ではこれでもいいのでしょうが、実際に八丁堀は出発点でしょうか。違うという声が聞こえます。
八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場 以下を参照。このコースは徒歩で約2時間半かかります。

村上三兄弟 村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門を倒しました。
西照院 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願院 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

神楽河岸埋立(写真)ID 493, 537, 539, 540, 543 昭和51年

文学と神楽坂

 神楽河岸の写真を見てみたいと思っていました。でも、神楽坂の写真すら見ることはかなり困難で、坂といっても普通は神楽坂一丁目から上がる坂しか出てこないし、昔のスズラン通りの写真もない。まあ、これと比べると、神楽河岸はかなりラッキーで、昭和51年8月26日に新宿歴史博物館が撮った写真数枚があります。
 昭和51年はどんな時代なのでしょうか。東京都建設局がつくった「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)を読むと、昭和45年に都議会が「飯田壕の埋め立て請願」を採決し、昭和46年、飯田濠の埋立を申請し、昭和47年10月、埋立に着手し、約5,308㎡を埋め立て、昭和48年3月末に完了しました。つまり、昭和51年には埋め立てはおおむね終わっているのです。
 昭和51年には地元の「飯田橋地区市街地再開発連絡協議会」ができています。また昭和52年には「飯田壕を守る会」が発足し(渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」けやき舎、2007年)、同年6月には都議会へ再開発の中止を請願しました。つまり、神楽河岸はなくなる可能性の計画があり、埋め立てが終了したために、新宿歴史博物館もあわてて写真を撮ったのでしょう。

 写真は赤色の地点にカメラを置き、青色の神田川(つまり、飯田壕)を中心に撮ったものでしょう。地図は昭和53年の住宅地図です。また①②➂はカメラの角度です。

 ➀の焦点は飯田橋駅と東京燃料林産などにあてています。新宿歴史博物館は「河岸の雰囲気が残る神楽河岸地区。飯田橋駅の東口(目白通り)・西口(早稲田通り)と外堀通りに挟まれた飯田濠の再開発は、昭和61年(1986)に完了。飯田橋セントラルプラザ・ラムラに生まれ変わっている」と、解説しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 493 神楽河岸。昭和51年8月26日

 なお、「東京燃料林産の寮」はどうも社宅だったようです。kさんの下の発言をどうぞ。

②の焦点は牛込橋と埋立地などです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 537 神楽河岸。昭和51年8月26日



 いまではなくなった情報誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」では「とんかつ森川」について(ただし名前は間違えています)

おかむらもりかわ(トンカツ)
神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。

 目立つ建物は東京理科大学だけを除いて全てなくなりました。移転したり、あるいはオーナーは残っても建物は別の業態に変えたりしています。奥山酒造からはマクドナルドハンバーガー、さらにカナルカフェに代わっています。

 この埋立地は「鋼矢板を打ち込んで水面を区切り、土砂などを投入し」たものだと地元の方。埋立地は巨大で、ゴミもありません。汚臭もなさそうです。この埋立地の上にフタをかぶせ、循環式「せせらぎ」と緑地をつくり、さらに左奥にはラムラが建ちました。

 昭和46年の写真(下図)と比べてください。この写真にはゴミも、古材も、廃物もありそうです。でも昭和51年には何もなく、古材も悪臭もなさそう。「昭和46年の写真の廃材を、埋立地に埋めて処理したのかも」と地元の方。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 ➂の焦点は➁よりも近い場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 540 神楽河岸 昭和51年8月26日

 銀鈴会館の屋上には巨大なPR用の看板がでています。ある時点でこれは大きな「東京ワンタン本舗」の看板でした。現在はこの看板の前に大きなビルが建ち、看板は全く見えません。

 これはID 539で、ID 537とよく似ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 539 再開発前の神楽河岸3

 またカラー写真も新宿歴史博物館から借用しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 543 神楽河岸 昭和51年8月26日

 さらにIDは大きな数になりますが、変わらない写真もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11465 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11467 神楽河岸から飯田橋駅ホーム

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11470 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向

浄瑠璃坂の仇討跡(標示板)

文学と神楽坂

 2020年11月、最近(でもないけれど)市谷鷹匠町の「浄瑠璃坂の仇討跡」は新しい案内標示板になっていました。でも、内容はほとんど何も変わりません。ただしこの標示板を取り巻く周囲を見回すと、マンションや大日本印刷のビルが沢山建築中でした。

「浄瑠璃坂の仇討跡」は赤い矢印で書かれていますが…

現在の地図と新板江戸外絵図(1679)

でも、決闘した戸田七之助邸は実際は遙かに巨大な場所でした(下図)。大日本印刷とおそらく同じぐらいの大きさだったと思っています。(大日本印刷はまだまだ大きくなっている)

明暦江戸大絵図(1657)

 平成28年の標識は…

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
   所 在 地 新宿区市谷鷹匠町 浄瑠璃坂上・鼠坂上
         指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂ねずみざかの坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越いがこえの仇討」(鍵屋かぎやの辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月に死亡した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允くらのすけだが同じく家老の奥平隼人はやとに、以前から口論となっていた主君の戒名かいみょうの読み方をめぐって刃傷にんじょうにおよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易かいえきになったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記げきらと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠たかじょう町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討ち入り、牛込見附門付近で隼人を討ち取った。源八らは大老井伊掃部守かもんのかみ直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流はいるとなり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成28年12月2日
新宿区教育委員会

宇都宮藩 現在のおおむね栃木県。
戒名の読み方 竹田真砂子氏が『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)についてこう書いています。
「まず仇討ちに至るまでの経緯を、『中津藩史』に倣いつつ、いささか意訳してお伝えしておこう。
 寛文8年(1668)2月19日、宇都宮藩奥平家の当主奥平忠昌ただまさが他界する。享年61歳であった。その折、位牌にしたためられた亡君の戒名の読み方が分がらなかった家老の一人である奥平隼人に対し、同じく家老職にある奥平内蔵允くらのじょうがすらすらと読み下してみせたことから事件は始まる」
源八 竹田真砂子氏によれば「その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であった」といいます。
改易 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収する。
掃部守 行事に際して設営を行い、殿中の清掃を行う。
配流 流罪に処する。島ながし。

 ちなみに、この標識が、1代古くなると、平成3年に発行したものとなります。ルビがなく、印刷は非常に見にくいけど、内容は同じです。

(文化財愛護シンボルマーク)

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
        所 在 地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上
        指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の読み方をめぐって刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは大老井伊掃部守へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成3年1月
東京都新宿区教育委員会

 さらに昭和57年もありました。

 新宿区指定文化財
  旧 跡  浄瑠璃坂の仇討跡
 宇都宮藩家老の奥平内蔵允は、主君奥平忠昌の追福法要の際、同じ家老の奥平隼人と口論の末、刃傷に及んで切腹した。その子源八は父の恨みを晴らそうと近縁の奥平伝蔵、夏目外記らとその機会をうかがった。追放された隼人は父半斎ら家族と江戸に逃れて浄瑠璃坂上に隠れ住んだ。探しあてた源八は四年後の寛文12年(1672)2月2日夜、総勢42名で、大風に乗じ門前に火を放って討入り、牛込御門前で隼人を討取った。自首した源八らは、そのけなげな挙動は感じた井伊直澄のはからいで助命され、伊豆大島に流された。
 浄瑠璃坂の名の由来については江戸時代から諸説があるが、いずれも確証はない。
 昭和57年3月
東京都新宿区教育委員会

浄瑠璃坂の仇討跡

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-11-24-3「浄瑠璃坂仇討案内板」 1984-10-18



納戸町

文学と神楽坂

 納戸なんどはそもそも天龍寺の門前町(下図の青色)でした。下図で江戸時代の延宝年間(1673-1681年)です。この時代、将来の納戸町になる青色の町が三つありました。なお、納戸とは物置部屋で、服や調度類、器財など物品を収納します。また、天龍寺は天和3年(1683年)に火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越しします。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

 町方書上(文政8年、1825。再版は新宿近世文書研究会、平成8年)では

町内里俗之唱
一 町内東之方北側片側町之所、里俗木津屋町唱申候、年代不知、先年木津屋申、太物、醤油類渡世仕候者罷在候付、里俗右之如く唱候由
一 同中御徒町通南側、里俗竹町唱申候、寛永十二亥年 天龍寺御用付、被召上候跡竹薮有之候場所故、竹町唱候由
一 同所飛地、弐拾騎町続之所、里俗墓町唱申候、天龍寺墓所有之候由
一 同所裏通り、御細工町隣り候処、表大門里俗唱申候天龍寺大門有之候由申傅候


太物 太物は呉服(絹織物)と正反対で、太い糸の織物の総称。綿織物や麻織物など。

 つまり、納戸町の東方は木津屋町、中御徒町(現在の中町)と同じ通りを竹町、飛地は墓町、御細工町と隣り合った通りを表大門と呼んでいます。

 また、「市ヶ谷牛込絵図」(安政6年、1857年)では…

 通りは表大門だけではなく、裏大門も出ています。さらに通りには木ヅヤ丁、タケ丁もでて、合計で3つの通りが出てきました。木ヅヤ丁は、木津屋丁に、タケ丁は竹丁に変えることができます。現在の言葉では木津屋路地、竹路地でしょうか。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、慶応四年(1868)、牛込御納戸町は「御」の字を削除して牛込納戸町に、明治44年(1911)牛込も省略し、納戸町となったようです。

 さらに牛込中央通りの一部を通り、銀杏坂通り中根坂鼠坂は納戸町から出ます。以上をまとめて……。なお、士邸とは武士の邸宅です。



神楽坂と神楽河岸 松沢光雄 昭和43年

文学と神楽坂

 昭和43年、地図協会の雑誌「地図の友」に松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」があります。その神楽河岸の中に東京都の清掃事務所があると言っていますが、これはかつての糞尿の集荷所でした。理由が不明ですが、近所から反対されて、この糞尿集荷所はなくなったと書いてあります。

 国電飯田橋を出るとがある。この堀にかかっている橋が飯田橋で、これを渡ると揚場町である。揚場町というのは、舟から荷を揚げる場所という意味で、神楽河岸はそこにある。かつてはこの堀を舟が往来して海から荷を運んでいた。いまもお茶の水までは舟が来る。この神楽河岸は浅くなって舟が上れなくなったし、それにその必要もなくなっている。
 神楽河岸には土砂や石や木材の材料の施設が集っている。これは江戸時代からの材料荷揚場残象である。
神楽河岸 もとは、各地から舟で材料が運ばれてきた。いまもつづいている材料屋の土万の主人にきくと、この主人の子供のじぶんには舟で浦安からシジミが運ばれてきたという。
 舟で2杯も3杯ものシジミがきた。これを山手一帯の乾物屋が買出しに集った。こんなふうで、良種の物品が舟で揚げられた。
 酒の白鷹の総本店の升本はいまもここにある。中央大学の総長になった升本氏の生家である。升本の酒倉は道をはさんで現在もいくつも並んでいる。これも河岸のものである。
 いまの清掃事務所は、かつては糞尿の集荷所で、ここから舟で各地に運んでいた。都市化のすすむにつれて近所から反撃されて、ついに糞尿集荷を止めて事務所になったのである。新宿区役所の土木部の材料もここに置いてある。水道局の工事材料もここにある。各地からトラックで運ばれてくる。
 土万のいまの主人は二代目で、ここに陣取って100年近い土砂材料屋である。この河岸に生まれてここに育ち、ここで河岸の変遷を見つめてきた。
 神楽河岸に揚げられた材料は荷車と馬力車で神楽坂を引きあげられた。とにかく急な坂だからこれをあげるにはたいへんである。
 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがるのあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 外濠(外堀、そとぼり)のうち飯田濠。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

神楽河岸 昭和63年に初めて神楽河岸という名前に。以前は揚場あげばの一部だった。
江戸時代 これは「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」で。
荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。
残象 ただしくは残像。外部刺激がやんだあとにも残る感覚興奮のこと。
土万 図では土萬土砂置場。
乾物 かんぶつ。野菜、海藻、魚介類などを、保存できるように乾燥した食品。
白鷹 白鷹はくたか株式会社は兵庫県西宮市に本社を置く酒造会社。生粋の灘酒。
升本 ますもと。江戸時代に牛込揚場・神楽河岸で創業した酒類問屋。日本酒の銘酒「白鷹」で有名。
中央大学の総長 四代目の升本喜兵衛。養子。大正8年、中央大学法学部卒業。昭和37年、中央大学総長・理事長。昭和43年、学園紛争で中央大学理事長・総長・学長を退任。生年は明治30年、没年は昭和55年。享年は満83歳。
清掃事務所 神楽坂のある地元の人は「神楽河岸にゴミの積み替え拠点はなさそうです。砂利や土石(建築残土)は運んでいたかも知れません」といい、また、後楽橋のゴミについては、この「ゴミの詰め替え場は臭かったですよ。だって収集車のフタをあけて、中のゴミをハシケに移す(落とす)んですもの。そのハシケを夢の島の埋め立て地までタグボートで曳航するんです。そりゃ苦情も出ますよ。」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう。」といっています。さらに「資材倉庫や廃材置き場だった神楽河岸の開発が遅れた」と「古くは「糞尿」処理をしていた(らしい)」との2つを並べて「両者をないまぜにせず、きちんと区別しないと不正確になりそうです」。つまり、かつての飯田壕は臭くても、他の川と比べると同じ程度だと結論しています。
神楽坂を引きあげられた 神楽坂ではなく、軽子坂を引きあげられたのでしょう。
たちんぼう 坂の下に立って大八車などの荷車を押すのを手伝って駄賃を貰う職業。明治から大正にかけて多かった。
 自動車ではなく、大八車だと思います。西山松之助氏「江戶の生活文化」(1983年)では江戸の山の手には急な坂道が多いと書きます。

三年坂|由来

文学と神楽坂

 三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。
 新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』(平成22年)では

()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(三年坂とも書く)。三年坂という名称は各地にあり、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信=寂しい坂道だから気をつけろという意味で名付けられたという説もある(町名誌)

 『町方書上』「牛込津久戸前町」では

町内南角片側町家続之処小坂有之、里俗字三念坂申伝候、右訳合相知不申候
 但道幅弐間余り、高三尺五六寸程

 今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。なお、年貢町屋とは年貢を納める農家がある町です。

神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂

 つまり、現在では交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。坂の標柱や標識としては、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

 三年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)でこう書いています。

  三年坂にまつわる俗信
 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも小供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。(中略。台東区の三年坂について書いた後で)
 つぎは、筑土の三年坂であるが、これは新宿区神楽町三丁目上宮比町との境から北へ津久戸町に下る坂である。ところが、『東京地理沿革誌』には「牛込津久戸前町下宮比町との間を新小川町二丁目のほうへ下る坂を三念坂と云ふ」とある。文政10年の「丁亥町方書上」によると津久戸前町のところに「坂。巾二間程、高三尺余、右町内南角ニ片側家続之所小坂有之、里俗三念坂と唱申候」と、くわしく書いてあるので、今の下宮比町の坂でないことは明らかである。下宮比町境には、古くお寺があったような記録も見あたらない。しかも右のような古い書上かきあげに、津久戸前町に下る坂であると明記されているので、『東京地理沿革誌』の説明は間違いである。とにかく、お寺に関係もないところに三年坂はありえないのだ。
 神楽坂の頂上から、北へ津久戸前町ヘ下る坂の西側には、西照院(絵図には西照寺)があったり、坂のふもとには成願院(絵図には成願寺)があった。この津久戸の三年坂こそ、正頁正銘の三年坂の坂路である。しかし、今は、西照院も成願院も他へ移転してしまって、この坂みちは、昔の寂しさはどこへやらお寺の跡にはぎっしり商家が建ち並んで、この近辺ではいちばん繁華な街になっている。
この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬ たとえば『洛陽名所集 巻之四』(万治元年、1658年)で京都の「再念坂」について「長さ半町ばかりもあらんか。世のことはざに三年坂とて。この坂にてつまづきころべる人。かならず三年をすぐさず身にしよからぬなど云つたへたり」と書かれています。(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081L253.pdf
筑土の三年坂 三年坂の由来にはがあります。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

上宮比町 現在の神楽町四丁目。
東京地理沿革誌 明治23年、村田峯次郎 (看雨隠士) が書いた地誌学の本です。出版社は稲垣常三郎。
牛込津久戸前町 津久戸町のこと、以前は牛込津久戸前町と呼んでいました
丁亥 ひのとい。干支の一つで、24番目。文政十年は丁亥にあたる。
 面ではなく而が正しい。
小坂 二ではなく小坂が正しい
西照寺 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年(1860)の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願寺 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

 横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)の続きです。

 三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと、それから全く「三年」をきらって、鶯坂螢坂淡路坂地蔵坂のように別の名に改められたものもある。
 三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂袖きり坂袖もぎ坂花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。

 坂の名前がいくつも出てきます。

産寧坂 さんねいざか。京都市の坂で、ウィキペディアでは「この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから『産寧坂』と呼ばれるようになったという説が有力だ」
三延坂 日光山輪王寺に行く坂。
鶯坂 目黒区大岡山。昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたため。
螢坂 台東区谷中5丁目。坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。三年坂の別名もある。
淡路坂 千代田区神田淡路町2丁目。鈴木淡路守の屋敷はこの坂の上であった。
地蔵坂 坂の1つは新宿区神楽坂5丁目から袋町までの坂。
二年坂 京都東山の坂で、産寧坂の下だから。「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがある。
百日坂 不明。
袖きり坂 茨城県行方市の西蓮寺。西蓮寺に訪れた女人が、袖きり坂で怪我をしてしまい、何も奉納するものもなく、着ていた着物の袖を切り取り、薬師様に捧げたら怪我が直ったことから由来する説
袖もぎ坂 岡山県邑久郡玉津村大土井の山中で、細道の坂の辺りを袖もぎ坂。ここで転ぶと袖をちぎって捨てないと不吉があるという。
花折坂 和歌山県高野町の坂。高野山への参拝者がここで花を折って御供えした。

 石川悌二氏の『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年)では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久上町へ抜ける長い。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久上町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし」とし、またについては「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁目の方へ下る。長さ五十七開、巾一間四尺より二間二尺に至る」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りにむすびつく商店街である。

 これは上のに相当します。
他のところ 同書の「麹町台中部」のなかで「三年坂という名は、要するに人淋しい場所の無気味な坂で、各地に共通する迷信『坂道で転んだら三年のうちに死ぬ』という伝えから来たものであろう。」
東京府志料 明治5年4月、陸軍省が各府県の地図並びに地誌の編纂を企画し、国内各地の沿革現勢を記録させ、当時の日本の国勢を明らかにしようとした地誌。東京府は府下一円に渡って調査編纂した。
給地 領主である主君が家臣・被官に与えた土地
 これは上のに相当します。



コロナ禍と老舗|鳥茶屋

文学と神楽坂

 以下は地元の方からの情報です。
 鳥茶屋の本店は閉店しました。真のコロナワクチンがてきるまで、こういった苦労が続いていくのですね。

鳥茶屋

閉店後の鳥茶屋(2020/11/24)

 4丁目の「鳥茶屋」本店が2020年10月末で閉店することになりました。新型コロナによるお客さんの減少が理由と思われます。3丁目にある別亭は営業を継続するそうなので、伝統の味は残ります。
 もともと別亭は親子丼のランチがメーンで、敷居の高い本店に比べて入りやすい店として企画したと聞いています。その別亭を開いておいたから、本店閉店の決断もしやすかったのでしょう。

 コロナ以降、神楽坂で閉じた店はいくつかありますが、それなりに名の通った老舗の撤退は初めてではないでしょうか。とても残念です。
 神楽坂の店が、コロナに比較的、強いことは以前にもお伝えしたと思います。その理由は、古くからある店の多くが土地・建物のオーナーであることです。
 本業が不振でも、ビルを建てて他のフロアをテナントに貸せば存続できるわけです。また自分の店以外にも貸家などを持っているケースが珍しくありません。逆に、そうした資産のない店は環境変化に弱いです。

 鳥茶屋の撤退も、店としての弱さの現れと思います。
 もともと鳥茶屋は4丁目の軽子坂の側に店がありました。商売がうまくいかなくなり、オーナーが身売りをしたそうです。
 ちょうど地上げの話があったらしく、新しいオーナーは土地を売って借金を返し、テナントとして今の本店を開きました。裏通りから表通りに移ってきたのでイメージは悪くなかったと思います。その後は商売も順調だったと聞きます。

 それでもコロナには勝てませんでした。土地を手放したのは、それだけで店の弱さなのです。
 コロナ禍が続けば、神楽坂でもさらに厳しい局面に追い込まれる店が出てくることでしょう。そうした時に、本当の老舗の強さが試されます。


鳥茶屋 本店と別亭があります。本店は神楽坂四丁目で2020年10月に閉店、別亭は熱海湯後の階段に接して、営業中。

鳥茶屋の閉店のお知らせ

軽子坂の側に店 読売新聞の昭和51年8月16日「上り下りも世につれて…」を見てください。

鳥茶屋(昔)


神楽坂仲坂

文学と神楽坂

 神楽坂仲坂ってなに? はい、神楽坂通りの路地の1つです。えっ、どこにあるの。はい、でも、まず歴史から。
 寛政年間(1789年~1801年)の神楽坂二丁目の南方を見てください。「穴八幡旅所」がありますね。旅所とは一般には神体を乗せた神輿が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。

仲坂

 文政年間(1818年~1831年)ではこの部分、多くは「市谷田町四丁目代地」に変わっています。代地とは、江戸時代,江戸で公用徴収された町地に対して代償として与えられた土地です。「穴八幡旅所」はぐっと減り、左に小さく出ています。
 さらに小栗横丁が初めて出てきました。おそらく、1801年から1818年までのどこかで出てきたのでしょう。
 では「?」の路地は何という名前なのでしょうか? 1801年から1818年までのどこかで、この路地も出現したのです。北の横丁は「神楽坂仲通り」です。
 で、「?」について、本当に調べてみました。でも結論はわからない。というか、名前はない。「無名の坂」でした。無名の坂でもいいのですが、3つ星の日本料理店「虎白」もあります。あった方がいいと思いませんか? 「つけたい」と思っているのは、地元ではない人。それもわかっています。
 北に「神楽坂仲通り」があり、南はなだらかでも坂は「坂」です。そこで「神楽坂仲坂」ではどうでしょうか? 簡単? まあね。





お座敷遊び|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)の「お座敷遊び」(2005年秋)です。神楽坂で「芸者衆とお座敷遊び」を行った経過を書いています。筆者は1951年生まれなので、この時は54歳ぐらい。
 芸者さえいれば、どこでも同一か類似の座敷遊びをやっているんだ。なお、東京神楽坂組合にはいっている料亭は、現在は、うを徳、千月、牧、幸本の4軒だけですが、芸者がでる料亭は割烹加賀などにもあります。

 ハリウッドが鳴り物入りで「SAYURI」を作ったように、芸者という存在はどこか人の心をかき立てるものがある。あでやかで、神秘的で、あやしくて、物悲しい。残念ながら映画は、そんな陰影と無関係にあまりにストレートな美しさしかありませんでしたが。
 そんなわけで、「神楽坂の料亭で芸者衆とお座敷遊び」というイベントに参加しませんか、という案内をいただいて、二つ返事で飛びついた。声をかけてくれたのは、以前、ご紹介したグループタウンウォッチングの会の代表・前田波留代さん(58)。神楽坂は町歩きの会でも人気の場所だが、界隈かいわいの神髄はお座敷遊び。料亭「うを徳」の協力を得て、昼間の一席を企画したという。「うを徳は明治の文豪・泉鏡花の小説にも登場する老舗です。お江戸の土産話にいかが」。土産話にしては少々高くつくが、これも体験。芸者新道と呼ばれる石畳の路地を抜け、胸おどらせて黒板塀をくぐった。参加者は約20人。ほとんど中高年女性。大変な人気で、急遽きゅうきょ追加のお座敷を用意したという。
それこのあたり、四季の眺望は築土の雪、赤城の花、若宮の月、目白、神楽坂から見附晴嵐。縁日歩きのすそ模様(中略)魚よし、酒よし、あん梅よし」
 名調子の文章は、初代と親交の厚かった鏡花が開店のお披露目に書いたもの。歴史ある神楽坂だが厳しいご時勢に料亭の数も減っていまや10軒、芸者さんも35人ほど。ただ最近は芸の世界にあこがれてOLから転身する女性もありうれしい傾向です、といった女将のあいさつのあと、いよいよお待ちかね、芸者衆の登場だ。
 若手とややベテランの芸者さんに、三味線をかかえたおねえさん。三人の登場で座が一気に華やかになる。金びょうぶを背に長唄三番そうなどをひと舞。金比羅ふねふねやら、じゃんけんやらで、にぎやかなお座敷遊びが続く。女だてらの疑似体験、少々こそばゆいところを、お姐さん方は慣れたもの。着物の話など女性向きの話題で盛り上げる。
 お白粉しろいのにおい、きぬ擦れの音、三味の音色。伝統を身につけたきれいどころがどこまでも客をたててくれる。これを自分のものとできる醍醐だいごは格別のものだろう。
 外に出ると、春の日差しがまぶしかった。

SAYURI 2005年、米国映画。原作は1997年の米国人作家のA・ゴールデンの小説『さゆり』。第二次世界大戦前後で京都で活躍した芸者の話
お座敷遊び 芸者や芸妓を相手に、酒を飲み余興を行うこと。
二つ返事 「はいはい」とためらわず、快く承知すること
高くつく 2020年の神楽坂では、おそらく1人3万円ぐらい
石畳の路地 現在の芸者新道は白黒タイルで舗装した道路です。1990年代、芸者新道の石畳の取り替えがあり、当局に石畳を再び使えないかと聞いたところ、ダメといわれ、現在の白黒タイルになったといいます。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。
それこのあたり この全文はここにあります
築土 赤城 若宮 目白 見附 揚場 全て周辺地域の名前です。見附(みつけ)は、ここでは牛込見附のこと。

 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
あん梅 塩梅。あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
芸者さんも35人ほど 現在はおそらく10数人でしょうか
金びょうぶ 金屏風。地紙全体に金箔きんぱくをおいた屏風。
長唄 三味線音楽。歌舞伎舞踊の伴奏音楽として誕生
三番叟 能の「おきな」で、千歳せんざい、翁に次いで3番目の狂言方が演じる老人の舞。
金比羅ふねふね 日本の古い民謡。舞妓や芸妓と行うお座敷遊びの曲。「金毘羅こんぴら船々ふねふね 追風おいてに帆かけてシュラシュシュシュ」と歌う。
じゃんけん グー、チョキ、パーの手の形で勝敗を決める。じゃんけん「とらとら」では、青年・和籐内わとうないの鉄砲は虎に勝ち、虎は老母に勝ち、老婆は息子の和藤内に勝つ。歌詞は「千里走るよなやぶの中を 皆さん覗いてごろうじませ 金の鉢巻きタスキ 和藤内がえんやらやと 捕らえしけだものは とらとーら とーらとら」
女だてら 女に似つかわしくないという非難を込めて、女らしくもなく
きぬ擦 きぬずれ。衣擦。衣摺。着ている衣服のすそなどがすれあうこと
三味 「三味線」の略。
きれいどころ 綺麗所。花柳界の芸者をさす語。または着飾った美しい女性。
醍醐味 物事の本当のおもしろさ。深い味わい。

新蛇段々(360°カメラ)

文学と神楽坂

 新蛇段々です。以前は、といっても昭和時代ですが、ここが袖摺坂だと思っていました。実は袖摺坂は大久保通りの北側で、別です。

新蛇段々

 360°カメラでは道路を南から北に向かって下がっていきます。矢印を叩いてみてください。ひとつ先にでていきます。ここから袖摺坂まで歩いてみましょう。


 下図は東京都都市整備局の地図です。この地図を実際に見てみましょう。最下部の「同意する」を選び、「新宿区」を選択、「都市計画情報」の「表示切替」から「都市計画道路」だけに✓をいれると下図がでてきます。大久保通りの道幅は、現在と比べて、南に拡大します。

牛込の文士達➆|神垣とり子

 泰三は文士のだれ彼を辛辣に評していた。よくまああんな毒舌があの小男の口から出るかと思うくらいだ。葛西善蔵さえも「田舎っぺい」とやっつけたらしい。それにしてはよく若い者が集った。お節句には文学青年が集って泰三が郷里から持って来た獅子噛み火鉢にさざえを入れて、めいめい具を足して壷焼きにして食べた。お酒は茅場町白雪の支配人の池田みのるが2升ぶら下げてきた。この連中は集れば銀座をのすより京橋の裏通りや横町のうまいもんやを歩き、甚兵衛で「くさや」の干物を買ってきたり「酒盗」を買ってきてくれた。その頃猫が7匹もいて、くさやは、赤いけどあべこべの名をつけた「くろ」には大好物のものであった。「ちび」というのは一番大きくてアスパラガスの鍵をあけると一目散に飛んでくるので不思議だった。味淋ぼしを、それもよくかんでごはんにまぜてやる役に早稲田の学生で、泰三の隣村の村長の次男坊があたった。はじめて横寺町の家を訪れた時、「ちまき」をうんとこさともってきた坊主頭の男の子で「どうもう児」と名をつけた。それが近所の下宿から泰三の所へころがりこんで猫の食事係となった。「みりんぼしを噛んでいてよく食べたもんですよ、とてもうまかった」と何十年かたってから聞いて思わず苦笑した。

郷里 相馬泰三氏は現在の地域で、新潟県新潟市南区の生まれです。
獅子噛み火鉢 「獅噛火鉢」が正しい。しかみひばち。獅噛みを足や把手にとりつけた金属製の丸火鉢。
茅場町 東京都中央区の地名。日本橋茅場町一丁目から日本橋茅場町三丁目まで。
白雪 おそらく兵庫県伊丹市の小西酒造では? 「山は富士 酒は白雪」がそのキャッチフレーズ。
池田みのる 名前があまりにも普通なので探すことはできません。
のす 勢いや力を伸ばす。発展させる。
京橋 明治11年から昭和22年までの東京市京橋区。現在は中央区南部。

1878年東京15区

甚兵衛 不明。現在、新橋駅にある甚兵衛の開店は3~40年前。ここでは約100年前に開店していたので、違います。
くさや 魚からつくる塩干しの一種。伊豆七島の特産物。特有の臭みがある。
酒盗 しゅとう。魚の内臓を原料とする塩辛
くろ 猫の名前です
 いわし。マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシの海水魚の総称
味淋ぼし 味醂干。みりんぼし。魚の干物の一種。魚を開き醤油や砂糖、みりんなどを合わせたタレに漬け込んで味付けし、乾燥する。
ちまき 餅菓子の一種。笹や竹の皮などで巻き、い草で三角形に縛ってつくる。

 バスケットに原稿を入れて島田清次郎の向うを張るつもりらしい新潟の質屋の伜が上京して横寺町の泰三のところへおちついた。同郷のよしみでたずねてきたおとなしい少年で「豚児をよろしく」と親から添え手紙をもってきたのでみんなが「質やのトントン」ということにして、今もって「トントン」で通っている。
 神楽坂で現金の一番あるのが坂の途中の焼芋やだといわれていた。一番月給の多いのは牛込郵便局長さんだというので折があった時きいたら「95円」だというので少いと思った。うちではいくら人の出入りが多いとはいえ、家賃は17円の二階だが北町の岩瀬肉店へ15円、出入りの魚やが10円、八百やが10円、映画、寄席、芝居が7円くらい、ほかにオザワ水文紀の善など。横寺町に新居をもった年の暮に残金2円50銭で大笑いをした。佐倉炭が1俵2円の頃だったかしら。「今日は帝劇、明日は三越」の頃で、帝劇の入場料が最高4円で牛込駅から坂を上って横寺町までの入力車が50銭だった。

豚児 自分の子供をへりくだっていう語。豚の子。
坂の途中の焼芋や 焼芋屋は、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではなく、『露店研究』でもありません。
岩瀬肉店 昭和12年の火災保険特殊地図では、新宿区北町に同じ名前はありませんでした。
佐倉炭 千葉県佐倉地方に産するクヌギからつくる炭。上質で、茶の湯などに用いられる。

 無一物主義で通していた泰三も、結婚したらお宗旨を変えてしまった。というより私の浪費癖がそうさせたのだろう。「クルイロフ」の「乞食の財布」を捨てなければならない時が来た。長谷川時雨女史が経営している鶴見の旅館「花香苑」に原稿を書きに出かけたり、越後寺泊りに冬の日本海の荒波を見に行ったりするのに疲れて来た。泰三は誰にも相談しないで郷里に帰った。広津和郎葛西善蔵は鎌倉へ住みつき、秋庭俊彦等々力に農園を始めてメロンを作ったりしていた。その秋に関東大震災があったが焼けなかった神楽坂は前にも増して賑やかになった。その賑わいに文士たちが一役買っていたことも事実だった。

無一物 むいちもつ。何もないこと。何も持っていないこと。
主義 常にいだく主張、考えや行動の指針
宗旨 しゅうし。自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。
クルイロフ イワン・クルイロフ。Иван Андреевич Крылов。19世紀ロシアの劇作家、文学者。庶民の日常語を用いて、不道徳、社会悪、農奴制による罪悪を風刺した。生年は1769年2月13日、没年は1844年11月21日。
乞食の財布 豊島与志雄、高倉輝訳「世界童話集」(アルス、昭和3年)ではコマ番号110-111が「不思議な財布」として出ています。この財布、1日に1枚ずつ中で金貨を生んでくる。でも、使えない。財布を川でなくすと、はじめて金貨を使える。主人公は900枚金貨を持っていて、使わずに、死亡しました。
花香苑 はなかえん。大正14年、横浜市鶴見区に長谷川時雨氏が田舎料理の旅館「花香苑」を開いた。
越後 佐渡を除いて新潟県の全域にあたる地域
寺泊り 固有名詞として、新潟県長岡市の地名。日本海に面し、漁業が盛んで、古くは佐渡へ渡る重要な港として栄えた。他寺の僧や参詣人が泊まる、寺の宿舎は宿坊(しゅくぼう)といいます。おそらく固有名詞のほうでしょう。
等々力 とどろき。東京都世田谷区と神奈川県川崎市中原区の地名
関東大震災 大正12年(1923年)9月1日11時58分頃に発生。

牛込の文士達⑥|神垣とり子

 秋田雨雀水谷竹紫小寺融吉――画家の小寺健吉の弟――も神楽坂組だった。小寺の一番末の弟が中村伸郎となった。小寺一家は伊藤熹朔一族と同じくみんなそれぞれの道に進んだ幸福な者たちで融吉の妹も歌人の山田邦子の弟と一緒になった。
 その妹は女子大生の頃よく神楽坂へきたものだ。小寺融吉は森律子に「真聞の手古奈」を書いて帝劇に上演して名が出ると鶴見の花月園で子供芝居をして朝日新聞が後援した。可愛いい女の児をつれて神楽坂へお茶を飲みにつれ歩いていた。その中に水谷八重子の従妹の水の座清美瀬川京子飯島綾子菊沖みえ子が小学二年三年のおかっぱ姿で融吉について町をさわいで泳いでいた。

小寺融吉 民俗芸能・舞踊研究家。早稲田大学英文科卒業。歌舞伎舞踊と民俗芸能の研究に専念し、大正11年「近代舞踊史論」を刊行。昭和2年、折口信夫、柳田国男らと民俗芸術の会を結成し、昭和3年、雑誌「民俗芸術」を創刊。生年は明治28年12月8日、没年は昭和20年3月29日。享年は満51歳。
小寺健吉 洋画家。文展入選。大正12年と昭和2年に各々一年余り渡仏。昭和3年「南欧のある日」で帝展特選。風景画が多く、温和で穏やかな作風を示した。生年は明治20年1月8日。没年は昭和52年9月20日。享年は満90歳。
中村伸郎 俳優。岸田国士、久保田万太郎、三島由紀夫、別役実ら劇作家の作品に多く出演。生年は明治41年9月14日。没年は平成3年7月5日、享年は満82歳
伊藤熹朔 いとうきさく。舞台装置家。東京美術学校洋画科卒業。築地小劇場公演『ジュリアス・シーザー』の装置でデビュー以来、日本における舞台装置の先駆者として、新劇、歌舞伎、新派、舞踊、オペラなど、手がけた装置は4000点にのぼる。生年は明治32年8月1日。没年は昭和42年3月31日、享年は満67歳
山田邦子 閨秀歌人。旧姓が山田、結婚後は今井邦子。明治42年、文学を志して上京。「アララギ」の同人だが、島木赤彦が死亡後『明日香』を主宰。生年は明治23年5月31日、没年は昭和237月15日。享年は満58歳
森律子 帝劇女優。第一期生。喜劇女優として人気があった。生年は明治23年10月30日、没年は明治23年10月30日。享年は満70歳。
真聞の手古奈 ままのてこな。真聞は千葉県市川市の町名で一丁目から五丁目まで。手古奈は万葉集に歌われた美女で、多くの男性に慕われても、寄り添うことはなく、真間の入り江に身を投げたという。
鶴見の花月園 神奈川県横浜市鶴見区にあった遊園地、開園は大正3年。動物園、噴水、花壇、ブランコ、「大山すべり」や「豆汽車」などのアトラクションの施設があった。閉園は昭和21年。
水の座清美 みずのやきよみ。女優。宝塚音楽歌劇学校を経て、昭和30年、東宝に入社。喜劇映画を中心に脇役として活躍した。叔母に初代水谷八重子。生年は大正5年8月18日、没年は不詳。
瀬川京子 飯島綾子 菊沖みえ子 3人とも不明

 世田谷から秋庭俊彦が女房をつれてきて暗い世田谷へなかなか帰りたがらなかったので横寺町へとめた。チェホフの話、モスコウの芸術座緞帳の「かもめ」の図案を表紙にして「奇蹟」が誕生した話をしてくれた。秋庭俊彦は品川東海寺で大きくなったとか、旧姓中山孝明天皇を暗殺した一味のつながりで東海寺へ預けられたそうな、俊彦をみんなが俊彦坊主(しゅんげんぼうず)などといっていたのはその為だ。
 福永渙太子堂あたりにいて時たま神楽坂へきて、にぎりなどに舌鼓をうっていた。道玄坂宮益坂も淋しくて神泉弘法湯があって飲み屋がわずかにあるだけだし、新宿も宿場の名残りで、何といっても神楽坂の比では無かった。かといって銀座は普段着ではいかれないし、店だってー流の店ばかりで裏通りにも有名な袋物屋や菓子やばかりなので山の手の野暮には縁遠く、広津が「ウーロン茶」にこって通いつめたりしたのは異例だった。


モスコウの芸術座 モスクワ芸術座。Московский Художественный Академический Театр。モスクワの劇場,劇団名。 1898年スタニスラフスキーらが創設。リアリズム演劇を確立し、世界の演劇界に多大な影響を与えた。
緞帳 どんちょう。厚地の織物でつくった模様入りの布。劇場の舞台と観客席とを仕切る垂れ幕。
奇蹟 同人雑誌。1912年9月から13年5月の9冊。早稲田大学文科出身の舟木重雄、広津和郎、谷崎精二、光田穆、葛西善蔵(聴講生)、相馬泰三らが創った。自然主義の影響を強く受けた。
品川東海寺 とうかいじ。品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院
旧姓中山 明治天皇の生母は中山慶子氏だった。
孝明天皇 明治天皇の父。天然痘患者として死亡したが、毒殺説もある。生年は1831年7月22日(天保2年6月14日)、没年は1867年1月30日(慶応2年12月25日)。享年は満35歳。
福永渙 フクナガキヨシ。詩人、翻訳家、小説家。二六新報、万朝報に入社し、日本女子高等学院などで教職に就いた。明治45年。詩集「習作」、大正9年、小説集「夜の海」を刊行。翻訳にもデュマの「椿姫」など多数ある。
太子堂 東京都世田谷区の地名。東急電鉄の三軒茶屋駅、西太子堂駅がある。
道玄坂 渋谷駅ハチ公口前から目黒方面に南西に上がる坂道
宮益坂 渋谷駅から青山通り(国道246号)に東に上がる坂道神泉 京王井の頭線沿線の駅
弘法湯 京王井の頭線・神泉駅の南にあった「弘法湯」。1979年まで営業し、現在は「アレトゥーサ渋谷」ビル。
ウーロン茶 ウーロン茶を飲ませる喫茶店として一般的には、明治38年頃、尾張町二丁目(現、銀座五~六丁目)に開店した「台湾喫茶店」ですが、はたして広津和郎を本当に虜にしたのか不明です。

 実業の世界をやってる野依秀市が「女の世界」というのをやっていて、そこの記者に芳川と井上というのがいていろいろゴシップを書いていた。宮地嘉六が自称アメリカ伯の山崎今朝也とやって来た。宮地嘉六がお祝のハガキをくれたが何も知らない男で終りに御丁寧にも鶴亀・鶴亀と重ね文句が書いてあった。鶴と亀をお目出たいと思ったらしいが世間並では悪い時取り消しにつかうものだ。「婦人公論」の波多野秋子が独身者みたいな顔をして作家に原稿を書かせるのも有名だった。「読売」の平井ます子、「」の真壁光子、「婦女界」の太田菊子も10人並の器量だった。中央公論から嶋中雄作が原稿をとりにきて、その頃にしては珍らしく赤いネクタイをしていたのが神楽坂へお茶をのみにいっても目立った。袴をはいた半沢三郎が嶋中雄作の代りにきて神妙に座っていたが、これが諏訪三郎になった。淑女画報から佐藤鐘一が写真を集めにやってきたりした。

実業の世界 野依秀市は石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称、さらに「実業の世界」と改称し、昭和60年まで出版した。
野依秀市 のよりひでいち。ジャーナリスト、政治家。慶応義塾商業在学中に石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称して社長に。「右翼ジャーナリスト」といわれた。浄土真宗に帰依して「真宗の世界」などを刊行。昭和7年、自民党の衆議院議員。生年は明治18年7月19日、没年は昭和43年3月31日。享年は満82歳。
女の世界 大正4年に発行。それ以外は不明。
宮地嘉六 みやちかろく。小説家。小学校中退後、労働運動に目ざめ、文学を志して上京。9年日本社会主義同盟に参加。労働文学者として活躍した。生年は明治17年6月11日、没年は昭和33年4月10日。享年は満74歳。
山崎今朝也 正しくは山崎今朝弥(けさや)。弁護士、社会主義者。1900年、明治法律学校を卒業し,03年、渡米。社会主義運動に関係し、労働争議や借家争議などの裁判事件の弁護をした。戦後は松川事件、三鷹事件の弁護人として活躍。生年は明治10年9月15日、没年は昭和29年7月29日。享年は満76歳。
鶴亀・鶴亀 不吉なことを見たり聞いたりしたときに縁起直しに言う語。
婦人公論 創刊は大正5年。女性たちに身近で切実なテーマに扱っている。
波多野秋子 中央公論社の『婦人公論』記者。有島武郎の愛人で、軽井沢の別荘で心中した。生年は1894年、没年は1923年6月9日。
読売 読売新聞
平井ます子 不明
 都新聞。創刊は明治17年「今日新聞」。明治21年の「みやこ新聞」から明治22年、「都新聞」に改称。昭和17年、國民新聞と合併し「東京新聞」に
真壁光子 日本女子大中退。大正14年、入社し、家庭面を手伝った。なお、磯村春子のほうが有名
婦女界 明治43年、同文館が創刊、大正2年からは婦女界社が編集発行。昭和18年、発行を停止。
太田菊子 女性の「婦女界」編集長。この時代、女性の編集長は非常に珍しかった。
中央公論 明治20年、『反省会雑誌』として創刊。明治32年に『中央公論』と改称。
嶋中雄作 出版者・編集者。中央公論社社長。生年は明治20年2月2日、没年は昭和24年1月17日。享年は満63歳。
半沢三郎 諏訪三郎 筆名は諏訪三郎。本名は半沢成二。小説家。「中央公論」の記者。大正13年「応援隊」で文壇に登場。川端康成らの「文芸時代」の同人。婦人小説や通俗小説で活躍。生年は明治29年12月3日、没年は昭和49年6月14日。享年は満77歳。
淑女画報 博文館が大正元年に創刊。大正12年に廃止。
佐藤鐘一 不明。須藤鐘一では? 須藤氏は小説家で、博文館の「淑女画報」の編集主任が長い。大正7年「白鼠を飼ふ」で文壇に。生年は明治19年2月1日、没年は昭和31年3月9日。享年は満70歳。

 武林夢想庵と渡仏を前提として結婚したという婦人記者中平文子が、年増の化粧のもの凄さでのして歩いていたのには呆れた。歌舞伎新報から山本紫房という年若い記者がきていろいろ話の結果市川松蔦の従弟で母親同志が姉妹で、大久保の家を帝大の異人さんに貸して本町入江町へ越したが、その異人さんがラフカデオファーン小泉八雲で驚いたといっていた。

武林夢想庵 たけばやし むそうあん。小説家、翻訳家。ドーデの翻訳を通じて大正ダダイズムの先駆けとなる。大正9年、中平文子と結婚し渡仏、以後離婚にいたる放浪生活を「性慾の触手」「飢渇信」などに描く。戦後は共産党に入党。生年は明治13年2月23日、没年は昭和37年3月27日。享年は満82歳
中平文子 大正9年、武林無想庵と結婚、パリにわたる。昭和9年、離婚し、10年、ベルギー在住の貿易商宮田耕三と契約結婚。戦後は自伝や旅行記を執筆。生年は明治21年7月21日、没年は昭和41年6月25日。享年は満77歳。
歌舞伎新報 演劇雑誌。明治12年2月創刊,通巻1669号を数えて平成9年3月に廃刊。
山本紫房 不明
市川松蔦 しょうちょう。歌舞伎俳優。明治29年、初代市川左団次の門弟となり、明治45年、2代目市川松蔦を襲名。2代目左団次の妹と結婚。立女形が得意で、女形より一層女性に近い演技を工夫した。生年は明治19年9月23日、没年は昭和15年8月19日。
本町 渋谷区、中野区、さらに本町はまだあるという。
入江町 墨田区の本所・入江町では?
ラフカデオファーン 小泉八雲 パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。作家、文芸評論家、英語教師。国籍はイギリス。英国陸軍軍医の父親とシチリア島生まれの娘との間に生まれ、幼い頃、父親の生家アイルランドのダブリンに移った。1869年渡米し、新聞記者に。1876年、ニューオーリンズに移住。1890年、通信員として来日。1896年、日本に帰化し、小泉八雲と改名。生年は1850年6月27日、没年は1904年9月26日。享年は満54歳

牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。
くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。
生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。
花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でロンドン1年間、パリ5年間の遊興生活。帰国後、時事新報5年間、読売新聞27年間勤め企画部長で退職。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は明治31年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

牛込の文士達④|神垣とり子

文学と神楽坂


 藤森秀男という詩人がよく来た。目的はやはり間宮茂輔をふった京都生れの女子大生にあるらしかった。「こけもも」という詩集をくれたが朝の九時頃から夜までいて、彼女のことばかり話すので弱った。お相手をしているけど「雀のお宿」じやないからお茶にお菓子、お土産つづらというわけにもいかず、河井酔若が尋ねてきたのでこれ幸いと神楽坂へ出かけて「オザワ」で食事をした。
 「オザワ」は毘沙門の向う側で薬局をやっていて地内の芸者やへ通りぬける小路があって芸者が声をかけてゆく。その奥と二階で洋食やをやっていた。「田原や」は果物やでここも裏でフランス料理をやっていたが、味も値段も銀座並みなので、お客のなりたねも違っていた。文士連も芥川竜之介菊池寛今東光の「新思潮」や慶応の「三田文学」の連中が常連で、とりまきをつれて肩で風を切って神楽坂を歩っていた。
 坂上の料理屋には芸者も入り、神検・旧検に別れている。待合松ヶ枝が幅をきかせていた。毘沙門横丁には「高しまや」という芸者やに、松蔦・寿美蔵なんて役者の名にちなんだ芸者がいた。ロシヤ芸者の松子なんていう毛色の変ったのもいた。

藤森秀男 ふじもりひでお。正しくは秀夫。ドイツ文学者。東京大卒。詩人、童謡作家。慶大や金沢大などの教授を歴任し、ゲーテやハイネを研究。訳詞としては「めえめえ児山羊」(ドイツのわらべ歌)。生年は明治27年3月1日、没年は昭和37年12月20日。享年は満68歳。
こけもも 1919年、藤森秀夫氏は『こけもゝ 詩集』を文武堂から発行しています。
雀のお宿 童謡『すずめのおやど』の歌詞は すずめ すずめ/おやどは どこだ/ちっちっち ちっちっち/こちらでござる/おじいさん よくおいで/ごちそう いたしましょう/お茶に お菓子/おみやげ つづら/ 作詞は不詳、作曲はフランス民謡で、昭和22年に作られました。
つづら 葛籠。蓋つきの籠の一種。後に竹を使って縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱。
河井酔若 かわいすいめい。詩人。「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。生年は明治7年5月7日、没年は昭和40年1月17日
地内 現在は「寺内」というのが普通
なり 形。身なり。服装。なりふり。風体。
たね 血筋。血統。
新思潮 文芸雑誌。第1次は1907年~08年、小山内 (おさない) 薫が主宰し、演劇を中心とする外国文学の翻訳紹介。第2次は10年~11年で、小山内の他、谷崎潤一郎,和辻哲郎,後藤末雄等の東京大学の同人誌。第3次は14年2月~9月で、山本有三,豊島与志雄、久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、菊池寛等が創刊。第4次は16年~17年で、久米、芥川、松岡、菊池等が再刊。全同人が文壇への登場を果し、第3次と第4次の同人を『新思潮』派と呼ぶ。以後、十数次に及ぶ。
三田文学 文芸雑誌。1910年5月、永井荷風を中心に森鴎外、上田敏を顧問として創刊。三田文学会機関誌。自然主義の「早稲田文学」に対した耽美主義の立場をとった。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
神検・旧検 昭和10年頃、神楽坂花柳界に政党関係の内紛があり、神楽坂三業会(神検、新番)と牛込三業会(旧検、旧番)に別れた。神検は民政派、旧検は政友会だった(松川二郎「全国花街めぐ里」誠文堂、1929年)。戦後の昭和24年、合併して東京神楽坂組合に。
待合 花街における貸席業。客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
高しまや 毘沙門横丁に「分高島」があります。ここでしょうか。なお「分」「新」「金」などが名前についている場合は「分家」のことが普通です。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

 坂の途中で「ルーブル紙幣」が5銭10銭と売れていた。塩瀬の最中が一つ買える金額で「100ルーブル」の所有者になれ、ふたたび帝政ロシヤの夢を見るには安いのでよく売れた。売れたといえば毘沙門さまの境内にしんこ細工の屋台店があった。このしんこ細工でよせ鍋や、お櫃(ひつ)の形をつくって2銭で売っていた。葛西善蔵は子供をつれて上京するときっと泰三の家へ来るのでよく買ってやった。
 原稿紙は相馬や山田やのがいいっていって遠くから買いにきていた。坂下の「たぬきや」瀬戸物店では新婚の連中がよく買物をしていた。足袋やの「みのや」は山の手では一流店で手縫だった。銀座の「大野屋」と同じ位の値段だった。本多横丁の小間物やも「さわや」より少し落ちるが品物が多く、徳田秋声山田順子とベタベタしながら買いものをしていた。

帝政ロシヤ 1721年から1917年までのロシア帝国。日露戦争は1904年から1905年まで。
しんこ細工 新粉細工。新粉(うるち米を粉にしたもの)を水でこねて蒸し、それをついたものが新粉餅。これでさまざまな物の形をつくるのが新粉細工。
お櫃(ひつ) 炊いた飯を釜から移し入れておく木製の器。めしびつ。おはち。
きっと 確実にそうなるだろうと予測しているさま。自身の事柄に関しては決意を、相手に対しては強い要望を表す。必ず。あることが確実に行われるさま。必ず。
たぬきや 「古老の大震災の前」では神楽坂2丁目北側の「瀬戸物・タヌキ堂」です。「しのだ寿司」から「オアシス」になっていきます。
大正11年頃
古老の大震災の前
昭和5年頃
新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
昭和12年
火災保険特殊地図
昭和27年
火災保険特殊地図
昭和35年
住宅地図
平成22年
住宅地図
神楽坂2丁目・坂上
絵草紙屋松来軒中華11空き地パチンコマリー第2カグラヒルズ
山本甘栗店11
茶・山下山下園茶店11
山本油店クスリ山一オアシススロットクラブ
瀬戸物・タヌキ堂ワコー喫茶キッサしのだすし
銘仙屋大木堂パンキッサ空き地コーヒーリオン
バー沙羅
第1カグラヒルズ
夏目写真館夏目写真館11メトロ映画館メトロ映画館
瀧歯科医濫長軒皮膚科医院
棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
吹野食料品富貴野食品〇〇〇ヤ
大畑バン店大畑菓子店キッサパチンコバンコク理容バンコック大内理容店
坂下

小間物や 「ここは牛込、神楽坂」第5号(平成七年)32頁には本多横丁の神楽坂四丁目に「小間物・桔梗屋」があったといいます。ここでしょうか?

 横寺町飯塚は近くに質やもやっていて、土蔵のある親質屋で牛込きっての金持とかいわれ坪内博士令嬢息子が嫁にもらって評判だった。公衆食堂がそのそばにあった。この店は近所の人達まで利用した。ごま塩が食卓にあるので労働者に喜ばれた。横寺、通寺は「めし屋」がない所で、この公衆食堂の前に天ぷらやが出来、15銭の天丼を売って出前をするので、芸術クラブ住人に重宝がられた。
 松井須磨子が首をつった二階の廊下は格子がはまって明りとりになって吹きぬけになっていた。その部屋を見に行く学生があった。そこの前に小さな雑貨屋があり、お湯やに行く人に石鹸や垢すりを売っていた。その家には娘が3人いて上の子が15~6で、抱月が須磨子と歯みがきなんか買いにきてよく顔をしっていたけどそんなに偉い女優とは知らなかったという。

令嬢 写真家の鹿嶋清兵衛と後妻ゑつの長女くにを6歳の時に養女にしています。
天ぷらや 一軒家か屋台です。新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)でも、1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』でも昭和10年頃になると、なくなっていました。
格子 細い角材や竹などを、碁盤の目のように組み合わせて作った建具。戸・窓などに用いる。
明りとり 光を取り入れるための窓。明かり窓。外の光の取り入れぐあい。採光。
小さな雑貨屋 2000年の『よこてらまち』でも1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(下図)でも不明です。

よこてらまち

神楽坂界隈

お湯や 藤の湯でした。

牛込の文士達➂|神垣とり子

文学と神楽坂

 いよいよ相馬泰三氏がでてきます。この文章を書いた神垣とり子氏は彼の美貌の妻でしたが、あっという間に、人形芝居の青年と一緒になり、相馬とは離婚しました。

 「直し」と繩のれんのかかった居酒屋飯塚横寺町にあったが、その横寺町に相馬泰三いた。牛込警察のおまわりさんの独身寮の隣りで、筋向い聚英社という出版屋があって新潮社も近かったことから文士が原稿の持ち込みにきたり前借りしにやってきて留守だと寄り道をしていった。
 近くの都館には早稲田の学生がかなり多く下宿をしていた。渋沢栄一庶子だと自称する学生は赤くなったので養家先の名古屋の家から出されてきていた。高丘子爵御曹子もいた。泰三は弟子が多いというより若い友達が多かった。都館の連中も遊びに来たが誰一人、手土産をもってくる人もいなければ、又それを気にする人もなかった。宇野浩二葛西善蔵の弟子だという間宮茂輔鎌倉ハムをどっさりもって来たのは例外で当時出入していた女子大生に気があったらしい。

直し 直し味醂。なおしみりん。焼酎に味醂をまぜた酒。焼酎よりも甘くて弱い。なおし。直し酒。なおしざけ。腐りかけた酒や下等な酒を加工して、普通の酒のように直したもの。
繩のれん 一本の横竹に縄を幾筋も並べ垂らして、簾の代用としたもの。店先に繩のれんを下げたところから居酒屋・一膳飯屋などのこと。
いた 相馬泰三の住所は横寺町36でした。

横寺町36

筋向い 道や堀を隔てて斜め前方。
聚英社 聚英閣が正しい。
渋沢栄一 実業家、子爵。新政府では大蔵大丞。欧州を巡遊後、実業界に入り、第一国立銀行、初の私鉄日本鉄道会社、王子製紙など五百余の会社を設立。生年は天保11年2月13日。没年は昭和6年11月11日。享年は満92歳。
庶子 民法の旧規定で、父が認知した私生児。
赤くなった 酒を飲むと顔が赤くなったのでしょうか。
高丘子爵 たかおかししゃく。公家。藤原北家支流の閑院流。家格は羽林家
御曹司 おんぞうし。貴族や上流武家の子弟で、まだ独立せず親の邸内に部屋を占めて居住する者
鎌倉ハム 食肉加工品のハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売する。1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜市で外国人に販売する。1884年(明治17年)、地震で工場が出火、消火作業に行った近隣住民の恩義に報いるべく製法を伝授し、カーティスの妻の奉公元である大庄屋齋藤の満平へ1887年に製法を売却した。

 間宮は慶応ボーイなので銀座組だけど静岡の久根銅山に或る夏出かけ泰三の兄が何かの課長をしていたのでその縁故で出入する様になった。初め本名の真言を使っていたが泰三が「川原茂輔って代議士がいるぞ、なかなか優秀らしいから君も改名しろ」といわれたので真言をやめて茂輔といったが間もなく四国の阿多田島へ燈台守りになって東京を去った。というのはその女子大生に「升田屋」(今の寿海寿美蔵時代)に似ているといわれていい男ぶっていたが、仕事も職もなく居候ばかりしてもいられないので、四国くんだりまで流れていったのだ。鰯くさい土地の娘といい仲になったという噂も聞いたがやっぱりお江戸がなつかしく独りで上京してきた。そうして葛西善蔵広津和郎の鎌倉の先輩のところへ行ったり、上京して三十間堀の「万力屋」炭店――昔新橋七人組――の君太郎の弟丹羽一郎の所へ行ったりして相変らずの居候暮しだった。

久根銅山 くねどうざん。静岡県浜松市天竜区の鉱山。産出物は銅、黄鉄鉱など。
真言 間宮茂輔の本名は「間宮真言(まこと)」
川原茂輔 実業家、政治家。佐賀県政界・実業界で活躍。佐賀日日新聞社長など歴任。明治25年以来、衆院議員当選10回。昭和4年、衆院議長。生年は安政6年9月15日、没年は昭和4年5月19日。
阿多田島 あたたじま。 広島県大竹市の瀬戸内海の島。有人島。間宮茂輔氏の「三百人の作家」(五月書房、1959)によれば、実際は香川県高松市の男木島(おぎじま)に渡りました。
升田屋 市川寿美蔵(すみぞう)。歌舞伎役者の名跡。屋号は初代と二代目は不詳、三代目は大見屋から成田屋、以後五代目まで成田屋、五代目以降は升田屋。
寿海 1886–1971。五代目の養子。旧名は市川高丸、市川小満之助、市川登升(升田屋)、六代目市川壽美蔵(升田屋)、三代目市川壽海(成田屋)でした。
寿美蔵時代 六代目市川寿美蔵(升田屋)から三代目市川寿海(成田屋)に変わっています。
噂も聞いた 実際に間宮茂輔氏は正式に島の娘と結婚しています。
三十間堀 三十間堀川。さんじっけんほりかわ。中央区にかつて存在した河川
新橋七人組 明治後期から大正前期、新橋の半玉(芸者見習い)のなかで、優れた半玉を選ぶもの。白井権八氏の「美人大学いろ手帳」(美人大学社、大正3年)では、新七人組は小万こまん、その子、里千代さとちよ小奴こやっこ君太郎きみたろう春枝はるえ元香もとかと書かれています。
君太郎 清松家君太郎。六代目尾上菊五郎夫人になりました。

新橋七人組 君太郎(左)と小奴 https://twitter.com/FlowerSaphiret/status/614617463766974464/photo/1

 丹羽一郎の妹がやっていた鎌倉の雪の下の旅館で間宮と丹羽は風呂番などしていたこともあった。しかし相変らず神楽坂へは女子大生の顔を見に泰三の所へきていた。彼女が東大の学生と熱くなり近く結婚するという頃彼女の母親がうちの娘は裾まわしを痛めますとよくこぼした。「恋愛してほっつき歩くからですよ」といってやりたかった。素寒ピンの間宮より伏見の呉服やの息子の方が親の気にいって結婚してしまった。
 神楽坂へは渋谷から舟木重雄兄弟がよく散歩にきたが間宮茂輔は馴染めないようだった。そのくせ泰三の所ではあぐらをかいたりしていた。
 各務虎夫北村喜八守随憲治の東大組と名古屋の伊藤丑之助、高丘子爵の御曹子、越後の大地主の息子、大阪の正弁丹後の弟などの早稲田派と外語の平野静男が合流して横寺町の泰三の家はいつも人の出入りが多くて賑やかだった。

裾まわし あわせの着物の裾部分の裏布。江戸末期、吉原の芸者衆は裾を長く引きずる風習があり、足元で裾が広がり裏が見え、見栄えが良かったといいます。また、裾は非常に痛みやすいところです。
素寒ピン 素寒貧。すかんぴん。貧乏で何も持たないこと。まったく金がないこと
舟木重雄 早稲田大学文学科の「高等遊民」。広津和郎・葛西善蔵らと文芸同人雑誌「奇蹟」を創刊し、その編集兼発行人。作家・島田清次郎は舟木重雄の妹芳江をホテルに監禁している。生年は1884年、没年は1951年。
各務虎夫 各務虎雄か。かがみとらお。国文学。生年は1900年。没年は1984年
北村喜八 演出家、劇作家、翻訳家。東京帝国大学英文科卒。1924年、築地小劇場に参加。昭和25年、国際演劇協会(ITI)日本センターを設立し、26年理事長に就任。生年は明治31年11月17日、没年は昭和35年12月27日
守随憲治 しゅずいけんじ、近世日本文学研究者、東京大学教養学部名誉教授。生年は明治32年3月10日、没年は昭和58年2月7日。
伊藤丑之助 早稲田大学の学生運動を主導。若くして死亡した。
正弁丹後 明治二十六年「法善寺横丁 正弁丹吾亭」の誤植でしょうか。正弁丹吾亭は日本料理の料亭です。なお広島の「正弁丹吾」もあるようで、昭和35年創業、まったく無関係です。
平野静男 大正~昭和時代の平野静男はわからず、平野静雄はいるようですが、有名な人ではありません。

 葛西善蔵なんか朝っぱらから来て飲んだり食べたりした上、電車賃をねだっていた。「水文」なんかでおごられて帰りに「女房と牛は三日目にぶんなぐれ」なんて暴言をはいていた。泰三が金なにがしかを渡してやると、
「泰三、お前はがま口を二つもっていて、俺に銭をよこす時は少ない方をざらっと掌にのっけてよこす、ずるい奴だ」
 泰三は善蔵にそういわれても顔をしかめるだけで怒らなかった。新潮社の会計の中根駒十郎を葛西善蔵は「駒十郎,役者のような名をつけて、吉良になったり由良になったり」といったが傑作の一つだろう。善蔵は青森の碇ケ関の生まれで方言がひどく、お茶碗が「おつやわん」だったり浅虫が「あんじゃむし」で東京もんは面くらう。その調子で出版屋に前借りの金策に来て断われた時
  二百十日や危病神、鬼の子孫の高利貸、
  暗い暗い腹へった、行燈なめたら舌焼いた
とよれよれの袴姿で身振りおかしく、しらふで踊る恰好が淋しそうで気の毒だった。その癖少しお金がはいると、「直し」と筆太に5尺位の看板にかかれた飯塚の繩のれんをくぐっていい気げんになり、泰三の家へ来て「赤とんぼ」をおどる。
 赤とんぼ 赤とんぼ 羽根がなければ赤とんがらし
 赤とんがらし 赤とんがらし 羽根が生えれば赤とんぼ

碇ケ関 いかりがせき。地名。青森県平川市碇ケ関。
浅虫 あさむし。青森県の浅虫温泉のことでしょうか?
赤とんぼ 風雅遁走!から引用すると「芭蕉の弟子の其角がつくった『あかとんぼ はねをとったら とうがらし』という句を、師芭蕉みずから『とうがらし はねをつけたら あかとんぼ』と訂正したというエピソードが残っている。その時、芭蕉は言ったというのである。『それじゃ、俳句とはいえん。おまえはトンボを殺してしまっている』」

牛込の文士達➁|神垣とり子

文学と神楽坂


 与謝野鉄幹晶子の二人がお堀向こうの五番からきて夜店で買った植木を抱えて歩いているのを見た。宇野浩二も昔の「浪花腕なし芸者」の尼姿の年寄りをつれて歩いていた。菊池寛がだらしのないかっこうをして兵児帯がほどけて地べたにぶら下っていたので「帯がほどけていますよ」と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物丸帯猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が「姐さん、帯がほどけていますよ」と注意して「いけ好かない野暮天」とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ。
 珍らしく銀座の御常連の豊島与志雄が若い弟子をつれて肴町の方へゆくので挨拶したら、北町手島医院へゆくという。手島医院は私もかかりつけなので先生に聞くと「甥が小説家になるというんですよ」といっていたが、それが中戸川吉二だった。

五番町 大正4年から大正12年の間、与謝野鉄幹・昌子氏は麹町区富士見町五丁目に住んでいました。おそらく五番町ではなく、五丁目が正しいと思います。

浪花 大阪市付近の古称。一般に、大阪のこと。さらに浪速区は大阪市中部の区名
腕なし 実行力や技量、腕力のない者。口先だけで実際には何もできない人
尼姿の年寄り 宇野浩二と関係がある死亡したきみ子は4歳年下、「ゆめ子」モデルの原とみは8歳年下でした。母でしょうか。
兵児帯 へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
出の着物 芸者さんの礼装である黒の「」(裾を引いた着物)。お正月、初めてお座敷へ出るときに着る。


秋田魁新報
時代を語る・浅利京子(16)「出の着物」彩る正月


丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫ぢゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。
野暮天 きわめて野暮な人。
豊島与志雄 とよしまよしお。小説家、翻訳家。東京大学仏文科に入学。久米正雄、菊池寛、芥川龍之介らと第3次『新思潮』を創刊。心理小説を多く発表。35年東京大学講師、晩年まで教職に。生年は明治23年11月27日、没年は昭和30年6月18日。享年は満64歳。
手島医院 東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)によれば、確かにありました。当時は北町でしたが、現在はおそらく新宿区箪笥町44です。

手島医院。東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)


 肴町の鳥料理やに伊東六郎がよく見えた。伊東六郎は帝大生の時、西鶴の「好色一代女」「男色大鏡」を出してその筋の忌諱にふれて騒がれた男で、あとでキネマ旬報に関係したり、妻三郎を主演にして一立商会を起した猛者だった。プロデューサーの滝村和男も学生の頃は神楽坂党の一人だった。
 矢来消防署のそばのキリスト教会の牧師に村山鳥経という童話を話す男がいた。ほうぼうの少女雑誌の読者大会で、巌谷小波久留島武彦岸辺福雄の向うを張って人気があった。そして童謡を歌う可愛い女の子がいてそれが後のダン道子になった。その弟は映画の助監督になったが、色がとても黒いので「エチオピア」といわれていた。

伊東六郎 帝国大学中からチェーホフの翻訳や詩を発表する。自から高踏書房を経営。大正11年7月、松竹本社営業部の外国部長に入社。キネマ旬報の出資者。生年は明治21年7月18日。没年は不詳。
伊東英子 小説數篇の作がある。旧『処女地』同人。のち六郎とは離婚した。生年は明治23年1月15日
好色一代女 井原西鶴作。1686年刊。恋にやつれた若者2人が山中に庵を訪れ、庵主から懺悔話を聞く。没落貴族の娘は不義の恋で宮中を追われ、踊り子、国守の妾、島原の遊女、腰元、茶屋女、湯女などを経て夜鷹にまで落ちる。60歳過ぎに解脱し。庵を結ぶ話。
男色大鏡 なんしょくおおかがみ。井原西鶴作の浮世草子。8巻40章の短編小説集。前4巻は武家、後4巻は歌舞伎役者に関する男色説話。
忌諱 きい。忌み嫌うこと。おそれはばかること
キネマ旬報 映画雑誌。現存する日本の映画雑誌の中では最古。1919年7月に創刊。
妻三郎 阪東妻三郎。ばんどうつまさぶろう。映画俳優。歌舞伎界から1922年映画界に入り『鮮血の手型』 (1923) などでチャンバラ時代劇の大スターに。生年は明治34年12月14日。没年は昭和28年7月7日。享年は満51歳。
一立商会 配給会社のひとつ。東亜キネマから独立した立花良介が、独立して一立商会を設立した(足立巻一「大衆芸術の伏流」理論社、1967)。
滝村和男 東宝のプロデューサー。
消防署 明治44年、第三消防署矢来町出張所が矢来町一丁目にでき、昭和元年、牛込消防署に昇格。昭和2年、地番改正のため、108番になりました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」が建っています。

都市製図社『火災保険特殊地図』 1935年と1927年の消防署(牛込消防署『牛込消防署 70年のあゆみ』1996年)


村山鳥経 正しくは村山鳥逕(ちょうけい)。小説家、牧師。硯友社の藻社周辺作家としてデビュー。また角筈教会の牧師。生年は明治10年、没年は不明。
久留島武彦 くるしまたけひこ。児童文学者。関西学院神学部。明治39年、子どものお伽噺を中心とする団体「お伽倶楽部」を創設、日本最初の児童演劇「お伽芝居」を企画・演出。生年は明治7年6月19日、没年は昭和35年6月27日。
岸辺福雄 明治から昭和への幼児教育者。明治36年東京に東洋幼稚園を、のち岸辺幼稚園を創設。巌谷小波と久留島武彦と並んで、昔話や児童文学の作品を子供たちに話して聞かせる口演童話(story telling)の三羽烏と呼ばれた。
ダン道子 ダンミチコ。大正・昭和期の声楽家、童謡歌。山田耕筰に習い、村山道子の名前で童謡歌手として活躍。15年ピアニストのジェームズ・ダンと結婚し、ダン・道子と改名。ダン音楽教室室長。生年は明治37年9月16日、没年は平成2年3月7日。
 絵かきの鍋井克之は「ねずみ」の仇名のようにチョコマカしていた。矢来酒井伯爵お邸近くに女房子供と住んでいた。「生れ故郷の大阪を偲んで長女は澪子とつけたんや、澪つくしの澪や」 榎町お釈迦様のそばには硲伊之助がいた。鍋井克之とちがって紺がすりがよく似合った。
 ガランスをぬり奉れとよくいっていた村山槐多狂気してから母親が長唄の師匠をしていて、弟が信州の大町で「農民美術」の旗上げをした。白樺細エがおもで、朴訥というより田舎臭くて飾り物にはならなかった。妹の名が「有(あり)」というのでおかしかった。鍋井克之や永瀬義郎根岸興行部のお婿さんの高田保がてつだっていた。

鍋井克之 なべいかつゆき。大阪出身。東京美術学校卒。大正4年「秋の連山」で二科賞。ヨーロッパに留学。大正12年二科会会員。13年小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。昭和22年、第二紀会の結成に加わる。昭和39年、浪速芸大教授。生年は明治21年8月18日。没年は昭和44年1月11日。享年は満80歳。
酒井伯爵 日本の華族。貴族院伯爵議員。旧小浜藩主、場所は酒井家矢来屋敷で。矢来町のほとんどを占めている。
お邸近く 住所は不明です。
澪つくし みおは河川や海で船が航行する水路。澪つくしは澪にくいを並べて立て、船が往来するときの目印にするもの。
お釈迦様 新宿区榎町57にある日蓮宗の一樹山宗柏寺。院号はない。寛永8年(1631)当地に創建。
硲伊之助 はざま いのすけ。洋画家。陶芸家。大正3年「女の習作」で二科賞。大正10年~昭和4年、フランスに留学。昭和8年から10年まで、再渡仏してマチスに師事。昭和11年、二科会を退会し、一水会を創立。戦後は日本美術会委員長。東京芸術大学助教授。晩年は陶芸に転じた。生年は明治28年11月14日。没年は昭和52年8月16日。享年は満81歳。
紺がすり 紺飛白。紺絣。紺地に白い絣模様のある織物。
ガランス 茜色。やや沈んだ赤色。     
村山槐多 むらやまかいた。画家。詩人。いとこの山本鼎の影響で画家を志し、日本美術院の研究所に行く。フォービスム風の作品を発表、異色作家として注目されるが、若くして結核で死亡。生年は明治29年9月15日、没年は大正8年2月20日。享年は満24歳。
狂気 結核だったという。Wikipediaでは「槐多は当時猛威を振るっていたスペイン風邪に罹って寝込んでしまう。2月19日夜9時頃、槐多はみぞれ混じりの嵐の中を外に飛び出し、日の改まった20日午前2時頃、畑で倒れているのを発見された。槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に息を引き取った。まだ22歳の若さであった」 内因性の精神病ではなく、外因性の精神異常でしょう。
農民美術 農民が制作した工芸・美術品。民具や陶磁器類など、素朴で郷土色に富み、生活に密接したもの。
白樺細エ 白樺の樹皮や根っこを使って細かい器物などを作ること。
永瀬義郎 大正-昭和時代の版画家。独学で版画をはじめ、文芸雑誌「聖盃」、のち「仮面」の表紙の木版画を制作。大正5年、日本版画倶楽部を創設、7年日本創作版画協会の結成に参加。生年は明治24年1月5日、没年は昭和53年3月8日。享年は満87歳。
根岸興行部 明治20年、茨城県出身の根岸浜吉が浅草に常盤座を建てた。「浅草オペラ」発祥の劇場である。大正12年の関東大震災で、根岸興行部も瓦解する。
高田保 劇作家,随筆家。 1917年、早稲田大学英文科卒業。1924年戯曲『天の岩戸』で認められて以来、劇作、脚色、演出などに活躍。戦後は「東京日日新聞」に随筆「ブラリひょうたん」を連載して好評を博した。生年は明治28年3月27日、没年は昭和27年2月20日。享年は満56歳歳。

 直木三十五三十三といった時冬夏社」で全集ものをやり出したが資金を使いはたして、債鬼に追われて大きな家にも帰れず「植木や」旅館の牛込支店にかくれていた。高台なので町を眺めるよい景色だった。お堀の向うに「番町の大銀杏」が夏になると北側に枝をのばして「お化け銀杏」といわれていた。
 肴町の上の消防署の近くの下宿に文士の卵がいて、その一人に富沢有為男がいた。うす紫のヘヤーネットを被ってキザな姿で、いろいろな切り紙をきざんで紙にはりつけて新しい画だといっていた。正岡容もいた。「鷲の巣」という同人雑誌をやっていた。有為男はそのうち海外へゆき「地中海」なんて小説をかき、「白い壁」も映画になった。
 坂を下りて揚場大溝を店の入口にして桝本酒店があり、そばに「葬儀や」がでかい看板をかけていたがそこが川路柳虹の細君の家だったらしい。
 竹久夢二もよくきたが何をしに来たかはよく知らない。岩野泡鳴が新しい女房の遠藤清子をつれてよく神楽坂を歩いていた。

三十三といった時 大正10年、ペンネームは直木三十一。大正12年には、直木三十二に変え、大正13年(1924)に直木三十三に変えています。
冬夏社 植村宗一(後の直木三十五)氏と鷲尾雨工氏は早稲田大学を卒業後、大正7年、冬夏社を創設しましたが、翌年、彼は手を離しています。
全集もの 「トルストイ全集」「ユーゴー全集」などです。
債鬼 さいき。相手の難儀や苦しみにおかまいなく貸した金をとりたてる人を鬼にたとえた語
資金 資金は春秋社が二万円。冬夏社は五万円。合併するつもりで名づけた名称だったし、十人たらずの株主も共通だった。
「植木や」旅館 東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正11年)によれば植木屋は筑土八幡町24にありました。
富沢有為男 とみさわういお。小説家・画家。東京美術学校中退後、新愛知新聞の漫画記者となる。昭和2年、絵画を学ぶためフランスに一年間留学。佐藤春夫に師事し、昭和12年「地中海」で芥川賞受賞。生年は明治35年3月29日。没年は昭和45年1月15日。享年は満67歳。
正岡容 まさおかいるる。作家。演芸評論家。日本大学芸術科中退。 1924年『影絵は踊る』を発表。吉井勇に師事。落語や講談などの演芸にしたしみ、多くの研究書や台本をかいた。生年は明治37年12月20日。没年は昭和33年12月7日。享年は53歳
鷲の巣 大正14年(1925年)10月創刊。同人は佐々木弘之、小林理一、坪田譲二、井伏鱒二らが参加。一年足らずで廃刊
海外 フランスに一年間留学。絵画を学んだ。
地中海 昭和11年(1936年)8月号の『東陽』で発表。第4回の芥川賞受賞。フランスで起きた日本人同士の決闘。
白い壁 おそらく『白い壁画』が正しい。小説と映画化した『白い壁画』があります。
大溝 おそらく大下水。絵では青色。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

葬儀や 都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では、葬儀屋があるのかないのか、不明です。
川路柳虹 かわじりゅうこう。詩人。美術評論家。東京美術学校日本画科卒。『詩人』に発表した「塵溜」は、口語自由詩の先駆となる。生年は明治21年7月9日、没年は昭和34年4月17日。享年は満70歳。
遠藤清子 明治~大正時代の婦人運動家、小説家。英語教師、新聞記者などをつとめ、婦人参政権運動に参加。明治44年青鞜せいとう社に参加。大正2年、岩野泡鳴と結婚したが、大正6年、離婚。大正9年新婦人協会に加入。生年は明治15年2月11日、没年は大正9年12月18日。享年は満39歳。

牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に新宿の貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌であっても、気性は激しく、浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、大正12年頃、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで神垣とり子氏は傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
火事はとこだい
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

火事はとこだい 昭和一桁に生まれた人はよく唄った「かけあい」言葉、「ハヤシ」言葉、地口じぐち歌、ざれ歌。地口とはしゃれで、諺や俗語などに同音や発音の似た語を使って、意味の違った文句を作ること。たとえば〈舌切り雀〉を〈着た切り雀〉という。
牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

[名所名店]

Paul神楽坂店以前|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 現在の神楽坂5丁目のPaul神楽坂店ができるまでの、波瀾万丈で、人間味が一杯の物語です。そして、ポール神楽坂ができました。なお、以下の図はすべて住宅地図から取っています。

➊ 昭和38年(1963年)

 最初は昭和38年(1963年)➊。東側から尾沢薬局(ここは神楽坂4丁目の最後です)、サンエス洋裁店(ここから神楽坂5丁目が始まります)、パチンコの東莫会館、KK牛込水産、洋菓子のハマムラ、倉庫、文房具の相馬屋、万長酒店、倉庫と並んでいます。

➋ 昭和42年(1967年)

 次は昭和42年(1967年)➋です。1つだけが変わっています。倉庫だったのが、日本勧業信用組合に変わっているのです。実際に、昭和40年、日本勧業信用組合の本店が新宿区神楽坂5-3に移ってきました。

➌ 昭和45年(1970年)

 昭和45年(1970年)➌、地元の人は、東莫会館は「模型自動車のコース」や「遊戯場になってい」たようですが、そこを「勧信が買収し、駐車場にしました」といいます。実際、名前も「日本勧業信用組合〇〇」に変わっています。どうして離れた場所にしたの? 場所がなかったのです。隣同士がいいとわかっていました。

 昭和46年(1971年)、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生し、この組合の名称も第一勧業信用組合に変更しました。

➍ 昭和55年(1980年)

 昭和55年(1980年)➍、さらに第一勧業信用組合の駐車場になります。まだ、牛込水産とかやの木はまだなくなりません。勧信はじーっと見ている以外に方法はありません。
 昭和57年(1982年)、勧信本店を四谷に移して、神楽坂は支店に格下げになっています。

➎ 平成2年(1999年)

 平成2年(1990年)➎には、やっと牛込水産とかやの木はなくなりました。30年前から、大きな土地になる、と第一勧業信用組合は思っていたはずなのですが…… が、この「2店舗(牛込水産、かやの木)を地上げした業者が、勧信に高値の買い取りを迫り、『買わなきゃビル建てるぞ』って。大もめに揉めて、駐車場というより空き地のまま数年間」時間だけが過ぎていったと、地元の人はいいます。

➏ 平成22年(2010年)

 平成22年(2010年)➏、第一勧業信用組合は、あきらめたのか、相馬屋の西(万長酒店と同じ場所)に店舗を建てています。一方、「ゴネた業者は旧勧信本店の土地の一部をあわせる形で、今のPaulのビル(仮称、野本ビル)を建て」ましたと、地元の人。

 最終的に令和2年(2020年)➐になりました。「土地の区切りも変わっているんです。旧勧信は、今のうお匠のビルより間口が広かったと記憶しています」。おそらく憶測すると、勧信が元の場所は要らなくなって、土地を買った人の間で話しあって、今のビルが建ったのではないかと、地元の人。

「商店街ならではの揉め事ですね」と、地元の人。

➐ 令和2年(2020年)

Yahoo!地図から

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)

小学唱歌発祥の地

文学と神楽坂

 国友温太氏が書いた『新宿回り舞台』(1977年)の中に、田村虎蔵氏について簡単にまとめた文章があります。
 この『新宿回り舞台』は、新宿区の職員報に、昭和46年6月号から毎号読切りで連載した新宿区の歴史を記録したものです。52年3月号で70話となり、そこで一冊にまとめています。

田村虎蔵

田村虎蔵

  小学唱歌発祥の地(46年11月)
 田村虎蔵、という人をあなたはご存知だろうか。しかし、“ムカシームカシーウラシマハー、タースケタカーメニーツーレラレテー“という歌は覚えておいでのはずだ。
 田村氏は亡くなるまでのおよそ40年間、新宿区に居住した小学唱歌の作曲家である。
 明治の頃、文部省編さんの教科書で子どもたちは「気はれて風新柳の髪を梳り、氷消えては浪舊苔の髭を洗ふとかや」といった時代離れしたものを歌っていた。さらに日露戦争による軍歌の流行で乱暴な歌い方がはやった。
 こうした歌の改革をと、氏は「モシモシカメヨ」の納所辨次郎、「夏は来ぬ」の小山作之助らの作曲家と、美しい声、美しい歌を主唱した言文一致体唱歌の創始者である。
 鳥取県出身。同地の師範学校を卒業後上野の音楽学校に学び、明治38年東京高師(現教育大)の助教授となり、翌39年から筑土八幡町31番地に住む。

唱歌 歌をうたうこと。その歌曲・歌詞。小学校で歌を教える授業の教科目名。
田村虎蔵 たむらとらぞう。作曲家、音楽教育家。1895年(明治28年)東京音楽学校を卒業。東京高等師範学校で教鞭。言文一致唱歌を提唱。『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』を作曲。生年は明治6年5月24日、没年は昭和18年11月7日。享年は満71歳。
気はれて… 平安前期の漢詩人、みやこの良香よしかが羅城門を通った時「気霽れては風、新柳の髪を梳る」(天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるようだ)と漢詩を詠むと、「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」(池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭を洗うように打ち寄せる)と楼上から詩の続きを詠む声がした。(『十訓抄』より)
時代離れしたものを歌っていた 本当にこの詩を使っていたのかは不明
納所辨次郎 納所弁次郎。のうしょ べんじろう。作曲家。音楽教育家。生年は慶応元年9月24日(1865年11月12日)。没年は昭和11年(1936年)5月11日。享年は満71歳。
小山作之助 こやま さくのすけ。教育者・作曲家。生年は文久3年12月11日(1864年1月19日)。没年は昭和2年(1927年)6月27日)。享年は満63歳。
言文一致体唱歌 言文一致唱歌。日常に用いられる話し言葉の口語体を用いて歌うこと。20世紀に入り、言文一致唱歌を作成する運動が、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎らによってすすめられた。
師範学校 小学校,国民学校の教員を養成した旧制の学校。
音楽学校 東京音楽学校。1887年、下谷区につくった唯一の官立の音楽専門学校。
筑土八幡町31番地 場所はここ。

筑土八幡町31番地

牛込区全図。昭和5年。筑土八幡町31番地


 当時緑濃い、近くの筑土八幡神社の高台を愛し、境内を散歩しながら曲想を練ったという。
 「金太郎」「浦島太郎」を始め、指に足りない、の「一寸法師」、大きな袋を肩にかけ、の「大黒様」、裏の畑でポチがなく、の「花咲爺」等、今でも愛唱される数多くの名曲がここで誕生したのである。
 氏は作曲活動と共に教育音楽界の指導にも尽力した大御所で、教え子は数千人にのぼるという。昭和18年11月7日、71歳でこの世を去った。昭和40年12月、教え子たちにより、ゆかりの筑土八幡神社の一隅に顕彰碑が建てられ、碑面には“まさかりかついできんたろう”と歌詞と楽譜が刻まれている。
 ところで、あまりにも著名な曲とは対照的に田村氏の名があまり知られないのは、小学唱歌作曲家の宿命なのであろうか。

顕彰碑 功績を記した碑。紀功碑。
まさかり… 金太郎の譜1部分

金太郎

金太郎

神楽坂、坂と路地の変化40年(2)|三沢浩

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(1)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。


ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

斉藤医院

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。




再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。


読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。
 なお、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792でも全く同じ写真です。

新宿時物語

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792 神楽坂付近か

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。


三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図




新宿時物語|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

新宿時物語

  新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)です(右図)。副題は「新宿区60年史」で、なかでも神楽坂の写真は沢山あります。
 さて、次の写真(下図)は「神楽坂の料亭街」と書いてあります。問題は、この場所はどこでしょうか。
 この写真と同じ頁に「楽 昭和20年代」と書いています。おそらく戦争も終わって「楽」が訪れたのしょうね。写真中央にもスカートをはいていて、文章も「ようやくにぎわいを取り戻した」と書いてあります。しかし、どう見ても「料亭街」らしくは見えません。本当に昭和20年代なの?

新宿区「新宿時物語」(星雲社、2007年)

 歴史博物館に聞いてみました。答えは、「100ページ『神楽坂の料亭街』の写真は新宿歴史博物館に所蔵しています。然しながら、申し訳ありませんが、写真のデーターに説明がなく、詳しい場所などはわかりません。昭和20年代には今よりもこの写真のような黒塀の建物は多かったようです。ただ、ほかの写真からの類推ですが、神楽坂毘沙門天の路地を入った料亭松ヶ枝付近かもしれません」
 これっておかしいでしょ。「料亭松ヶ枝付近」は絶対違う。そこで、地元の方に聞きました。答えは、神楽坂5丁目の一部だといいます。下の図を見てください。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。本当にここ以外に、なさそうです。さらに各々の家も書いてみました。

➀芸妓 分まん
➁法律OF 野町
➂民家      一時は神楽坂はん子の家に
➃料理 山下   柳家金語楼のお妾さんの家に
➄芸妓 富沢

 何もない写真だと思ったら、神楽坂はん子と金語楼がでている。こんな絶妙の写真でした。たぶん、この写真は、だれかが秘密を取り出すまで、じーっと待っている。まあ、違う可能性もあるけれど。

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


ギンレイホール|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 ギンレイホールや一昔前の銀鈴座について、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年、大正11年頃の地図)や都市製図社の「火災保険特殊地図」の昭和12年版と昭和27年版ではまだ存在していません。

昭和12年と昭和27年の火災保険特殊地図。将来のギンレイホールは青枠で。

 昭和20年代に、つまり、昭和28~29年頃には、木造一階建ての松竹系の封切館「神楽坂銀鈴座」ができていたようです。

 昭和33年12月、神楽坂銀鈴座は火災で全焼し、「住宅地図」によれば、昭和35年(1960年)、五階建ての銀鈴会館が再建しました。

1960年の住宅地図

 この「銀鈴ホール」は冷暖房完備で、当時飯田橋駅から神楽坂方面を望む一番高いビルでした。

 昭和49年(1974年)には、新しい名画座「ギンレイホール」に変えて再出発。さらに現在の加藤忠館主が平成8年、事業を引き継ぎ、改装工事を終え、翌9年、ギンレイシネマクラブという年会費1万円の会員制度を発足して、二本立て興行、洋画が多いといいます。

 映画監督、山田洋次氏がギンレイホールを舞台にした映画『キネマの神様』をつくることも知られています。

『大切な場所』
長い間、神楽坂を仕事場にしていたから、ぼくにとってギンレイホールは休息と研究が両立する素敵な場所だった。映画ファンならよだれが出るような粋な二本立ての番組をどれほど堪能したかわからない。
ぼくは今、そのギンレイホールをモデルにした映画『キネマの神様』を製作している。コロナ騒ぎにめげずに頑張ってほしい、あなた方は日本映画の、この国の文化の希望であり、とても大切な場所です、という思いを込めて。
映画監督 山田洋次
https://motion-gallery.net/projects/ginreihall


あなた方 ギンレイホール館主の加藤忠氏、社員やギンレイホールを愛する人たち

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


正式に神楽町から神楽坂に|昭和26年

文学と神楽坂

 新宿区「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(新宿区教育委員会、昭和51年)では…

 神楽坂とは、国鉄飯田橋駅九段口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代からあった名称である。

 歴史博物館「新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(平成22年、新宿歴史博物館)では

 JR飯田橋駅西口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。
 この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。
隣区の肴町 文京区駒込肴町と混同したのでしょう。現在は文京区駒込肴町ではなく、文京区向丘1丁目か2丁目になります。

 実際の陳情書は昭和30年「新宿区史」766頁に書いてあります。以下は旧漢字を新漢字に書き換え、読みにくい漢字を平仮名に変えた等をしたものです。

     陳  情  書
 江戸名所図絵や江戸砂子などに残る古き牛込村は、丘陵起伏する武蔵野の一部、往昔は放牧の地であったとさえ、ある記錄は伝えている。徳川時代に入ってようやく人煙を増すに至ったものの『神楽坂』と『牛込』との限界はすこぶる不明確のまま、その名のみ人々の意識の中に深く刻まれて今日に及び明治初期の行政区画によって丁目と町名とは一応整ったが、

  坂上に下宮比町としばしば混同される上宮比町がありこれに接して隣区肴町と誤認され易き牛込肴町が横たわり更に西方へ数丁通寺町が伸びている 等

捕捉に苦しむ所が多い。これがため行政区画とは別に肴町、上宮比町、通寺町等の住民は、数十年来『神楽坂通り』と云う総称を用い、大衆もまたこれを肯定して日常の要務を弁じている。殊に通寺町の如きは戦災に遭って全町焼土と化するや、直ちに『大神楽坂商店街』と誇示するに至った。神楽坂より六、七丁をへだたった通寺町においてさえかくの如き実状であるため、関係町民と他区域より来訪する人々とが日常の生活上や取引上幾多の煩雑不利を招きつつあるとは枚学にいとまなき所、どこよりどこまでが神楽坂か何人も明答すること能わざるのが現実である。
 数百年来、あまねく知られた名を慕ふのは人情の常、その名を襲用して宣伝価値の昂揚を図るは商業者として当然の帰結、神楽町、上宮比町、肴町、通寺町等に居住する区民が行政区画上の町名を斥け、現実に即した『神楽坂何丁目』と左記の通り町名改称を熱望するに到った事は全く自然の趨勢であり土地発展の永久的対策というも断じて過言ではありませぬ。しかもこれが実現の暁、利便を享受するものはひとり関係住民のみでない事も瞭かであります。
 神楽坂附近一帯の堅実な復興と発展とを期し、あわせてひろく都民相互間の利益をもたらす本件実現のため、何卒格別の御明鑑を仰ぎ、一日も速かに御採択願度くひたすら御願申上げます。
 さらに関係各町住民の連署を以て陳情致します。
 (変更前の町名)    (変更後の町名)
  神楽町 一丁目     神楽坂一丁目
  同   二丁目     神楽坂二丁目
  同   三丁目     神楽坂三丁目
  上 宮 比 町     神楽坂四丁目
  肴     町     神楽坂五丁目
  通  寺  町     神楽坂六丁目
昭和25年  月  日

往昔 おうせき。過ぎ去った昔。いにしえ。往古。
人煙 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。

 これを受けて昭和26年5月1日、正式の町名になりました。

通称牛込“神楽坂”で親しまれる地域は行政上の正式町名とは違っているのでこれを通称通りとすることになり28日の区議会にかけて可決すれば5月1日からつぎの通り呼ぶ(カッコ内は旧町名)
 神楽坂一〜三丁目(神楽町一〜三丁目)神楽坂四丁目(上宮比町)神楽坂五丁目(肴町)神楽坂六丁目(通寺町)
読売新聞 1951年=昭和26年2月27日



牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

ラムラ 昭和59年、飯田橋のセントラルプラザビル(店舗、事務所、住宅機能をもった大規模複合ビル)が完成。うち、セントラルプラザビルの1、2、20階を占めるショッピングセンターは「ラムラ」と呼ぶ。(株式会社セントラルプラザ

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー



漱石と『硝子戸の中』17

文学と神楽坂

 十七

 私はその東家をよく覚えていた。従兄いとこうちのついむこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかつたけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合つては、寝そべつたり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云つて、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。といつた風の調子であった。
 はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方に引込ひっこんでばかりいた。それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。
 一週間ほどつてから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云つた。私は小倉こくらはかま穿いて四角張つていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。
「僕はぜにがないからいやだ」
「好いわ、わたしが持つてるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういい、綺麗きれい襦袢じゅばんそででしきりに薄赤くなつた二重瞼ふたえまぶちこすっていた。
 その私は「御作おさくが好い御客に引かされた」といううわさを、従兄いとこうちで聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経つて、私が例の達人たつじんといつしょに、芝の山内さんない勧工場かんこうばへ行つたら、そこでまたぱつたり御作に出会った。こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女のそばについていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知つてるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありや私のめいでさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作はくなりましたよ、旦那」
私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつつて、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

二番目の兄 漱石の兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で死亡)の4兄と、さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で死亡)の姉がいました。二番目の兄は栄之助です。大一と栄之助の2人の兄は漱石21歳の時に結核で死亡します。栄之助は漱石の10歳年上です。
庄さん 福田庄兵衛。漱石の従兄で姉婿で、芸者屋「吾妻屋」の旦那です。これは夏目伸六氏の『父・夏目漱石』「漱石の母とその里」に出ています。
芸者 昔は神楽坂は芸者がいっぱいにいました。
竹格子 細竹を組み合わせて作った格子
小倉 「小倉織り」。良質で丈夫な木綿布
例の達人 漱石全集(岩波書店)によれば、「太田(おおた)達人(たつと)。慶応2(1866)~昭和20(1945)年。漱石と達人は明治16年成立学舎で同期となり、17年に大学予備門に入学した。達人は岩手県盛岡生まれ。帝国大学理科大学物理学科卒」と書かれています。
芝の山内の勧工場 勧工場は建物1棟に種々の商品を陳列、販売した所。明治政府から芝の山内全域が芝公園と指定され、東の平地には勧工場(下図)ができました。現在の港区役所と共立薬科大学を併せた巨大な敷地でした、勧工場は明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。しかし、「勧工場もの」という言葉が、安物の代名詞とし広がり始めると、大正3年(1914)にはわずか5か所にまで減り、衰退していきます。かわって高級品を扱うデパートがでてきます。芝公園勧工場
浦塩 ウラジオ。ロシアの日本海岸にあるウラジオストクのことで、日本の札幌市とほぼ同緯度。もとは日本人の居留人が多いところでした。

本多横丁|近江屋ビル~宮崎ビル

文学と神楽坂

 本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。

(左)Google地図(右)商店街マップ

(左)Google地図(右)商店街マップ



 最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。

➊古老の記憶による関東大震災前の形
本多横丁

 ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。

 次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。

➋戦前の本多横丁

 ❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。

➌戦前

 次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。

➍戦後

 次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。

➎1960年

 では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。

➏1990年

 まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。

住所3-23-23-53-63-73-8
建物近江ビルたつみや神楽坂Tkビル海老屋ビル紅小路宮崎ビル
大震災前竹川靴貴金属岡本山本コーヒー洋服屋/洗い貼り唐物朋月堂
戦前竹川靴店染物・中村屋そば・海老屋せんべい明月堂
1952近江屋ハキモノ3蒲焼・たつみ家京染 そば・海老屋松月堂・菓子
1960酒やかた明月堂パン
1963
1990近江屋ハキモノ栗原宮崎ビル

 なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●竹内小学校は結構な学校でした。
おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳
  私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。
 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。
 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。
 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳
 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。
 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。
 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。
 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」神楽坂1丁目~2丁目辺りで

海老屋(そば屋)
 お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。


新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。

昭和37年 加藤医院

⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。

神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期

文学と神楽坂

 大正~昭和初期における神楽坂3,4丁目の写真です。まずは大正15年、毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)から。これは坂上、3丁目の商店街です。坂下と比べて、立派な構えの店が多いと地元の方。私もそう思います。

神楽坂の今昔

中央線がまだ甲武鉄道のころから、文士や学生に愛されたためだろう 情緒豊かなうちにも文化の匂いがここにはあった(大正15年)

神楽坂の今昔

 また、当時の商店街を出しておきます。 岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図 昭和5年」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から一部改編したもの。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」
洋品 西洋風の品物。特に、洋装に必要な衣類・装身具や身の回り品など。舶来品。
サムライ洋品 サムライ洋品の商売の仕方が書いています。
銀行 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。この建物は石造りで、第二次世界大戦中でも頑丈で、壊れず、おそらく昭和30年以降になって新建物になりました。また「昼夜営業」と書いていますが、銀行内に質屋などがあったのか、あるいはサムライ洋品のPRかもしれません。
春月 そば店。詳しくはここで
田原屋 この建物、果物屋の田原屋だと思えると地元の人。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)で道の両側がでています。左側が神楽坂3丁目、右側が4丁目に当たります。

大東京写真案内

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到るさかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

大東京写真案内

銀行(白) 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。
花柳病 性病。性感染症の巻看板。その下の「間部医院」の場所は袋町5番目。
斉藤医院 皮膚科・婦人科。神楽坂4丁目8番地にあります。

昭和12年『火災保険特殊地図』

昭和12年『火災保険特殊地図』

きそば そば粉だけで打ったそば。また、小麦粉などの混ぜものが少ないそば。これは「春月そば」の袖看板。
キリン おそらく田原屋の袖看板
アーケード 洋風建築で、アーチ形の天井をもつ構造物。その下の通路。拱廊きょうろう。歩道にかける屋根のような覆いや、覆いつきの商店街。一昔の緑門ではなさそう。
銀行(赤) 東京貯蓄銀行の神楽坂店
幟旗? のぼり旗。長方形の縦長の布を棒に括り付けた表示物。集客効果を高め、情報を知らせるため、目印として立てる旗。ここはたぶんモスリン屋の「警世文」
大東京写真案内
三好野甘味 三好野。おしるこなどの甘味屋。「お金持ちで、家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられて、うらやましかった。(年上の子がいたそうです)」と地元の人。
一寸一杯 ちょっといっぱい。居酒屋や飲み屋でよく使う言葉。さて、どの店舗が「一寸一杯」を使ったのか。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会では魚国鮮魚店か旧勧工場。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では魚国鮮魚店か山形屋支店。山形屋支店はどんな店舗なのか、わかりませんが(海苔問屋らしい。下を参照)、山形屋支店に一票いれたいと思います。
加藤荒物店 平屋(一階建て)。荒物は家庭用の雑貨類を売る商売。
メイセン屋 銘仙屋か? でも、それらしい漢字はなさそう。銘仙屋は平織りの絹織物を売る店舗。メイセン屋は反物や呉服を扱っていた。
橋本オモチャ 玩具店
山本喫茶店 詳しくはここで。「コーヒー」や「うなぎの御飯」もここでしょうね。しかし、「うなぎの御飯」まで売るとは、すごい。
竹川靴店 靴店は多くは下駄店や履物店と同じ。ただし、横文字を使っているので、靴だけを売っていた?



兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

道路通称名

文学と神楽坂

地元の方からです

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り外堀通りでしょう。

都道

早稲田通り 千代田区九段北の靖国通り(田安門交差点)から西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草の青梅街道(井草八幡前交差点)に至る。
大久保通り 新宿区飯田橋(飯田橋交差点)から新宿区百人町、中野区中野などを経由し、杉並区高円寺南(大久保通り入口交差点)に至る。
外堀通り 東京駅八重洲口の中央区八重洲二丁目が起終点。全線が都道405号外濠環状線になる。

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。

帯取の池|半七捕物帳

文学と神楽坂


 岡本綺堂氏の小説「半七捕物帳」です。1917年、氏はシャーロック・ホームズに影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物「半七捕物帳」を執筆。それから1936年までの20年にわたり断続的にこの捕物帳を発表しています。

 これは「半七捕物帳」の「帯取の池」の最初の部分です。ここで出てくる「帯取の池」は市ヶ谷の月桂寺の西側にありました。でも、それってどこ? 本当にあるの?

「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取の池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい、これですよ」
 半七老人は万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下におびとりの池という、可成かな大きそうな池が水色に染められてあった。
京都の近所にも同じような故蹟こせきがあるそうですが、江戸の絵図にもこの通りしるしてありますから嘘じゃありません。この池を帯取というのは、昔からういう不思議な伝説があるからです。勿論、遠い昔のことでしょうが、この池の上に美しいの帯が浮いているのを、通りがかりの旅人などが見付けて、それを取ろうとしてうっかり近寄ると、たちまちその帯に巻き込まれて、池の底へ沈められてしまうんです。なんでも池のぬしが錦の帯に化けて、通りがかりの人間を引寄ひきよせるんだと云うんです」

帯取 おびとり。太刀を腰につけるためのひも
万延版の江戸絵図 以下は国際日本文化研究センターの「萬延江戸図」(1860年)です。中央部に月桂寺が描かれています。その西の「尾張ドノ」は現在の東京女子医科大学です。

万延江戸図

万延江戸図

 現在の地図で、中央下の赤黒色の地図マーカーが「正覚山月桂寺」。

女子医大と月桂寺

現在の女子医大と月桂寺

大きそうな池 残念ながら「萬延江戸図」の附近では池は書いていません(上図)。万延元年「礫川牛込小日向絵図」(1860年)には月桂寺そのものがありません。嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」(1854年)では月桂寺の中に多分青いかわらきの建物数棟がありました(下図)。でも、池があるのかは、不明です。青色を拡大すると瓦だと思います。また尾刕(=尾張、尾州)殿には池は描いていません。

月桂寺

月桂寺。「牛込市谷大久保絵図」から

京都の近所 秋里籬島氏の『都名所図会』(安永九年、1780年)では「帯とり池。広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ」と書かれています。場所は左上の青い地図マーカーで。現在は「弁慶池」となっていました。

故蹟 古跡。歴史に残るような有名な事件や建物などがあったあと。遺跡。旧跡。古址
 様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称

「大きいにしきへびでも棲んでいたんでしょう」と、わたしは学者めかして云った。
「そんなことかも知れませんよ」と、半七老人はさからわずに首肯うなずいた。「又ある説によると、大蛇が水の底に棲んでいる筈はない。これは水練に達した盗賊が水の底にかくれていて、錦の帯をおとりに往来の旅人を引摺ひきずり込んで、その懐中ふところ物や着物をみんなぎ取るのだろうと云うんです。まあ、どっちにしても気味のよくない所で、むかしは大変に広い池であったのを、江戸時代になってだんだんにせばめられたのだそうで、わたくしどもの知っている時分には、岸の方はもう浅い泥沼のようになって、夏になると葦などが生えていました。それでも帯取の池といういやな伝説が残っているもんですから、誰もそこへ行ってさかなを捕る者も無し、泳ぐ者もなかったようでした。すると或時あるとき、その帯取の池に女の帯が浮いていたもんだから、みんな驚いて大騒ぎになったんですよ」

錦蛇 にしきへび。ニシキヘビ亜科のヘビの総称。インド・東南アジア・オーストラリア・アフリカの熱帯地方に約20種。全て無毒。
水練  水泳の練習。水泳の技術。水泳の名人。

 帯取の池はあったのでしょうか? 嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」に青い絵がありますが、これは瓦葺きの屋根でしょう。現在の私は、この池は岡本綺堂氏が小説のため作り出したものだと思っています。

神楽坂であの子は

文学と神楽坂


内田春菊

内田春菊

 内田春菊氏の『レイル・ロード・ムービーズ』(講談社、2009年)の一節です。
 氏は漫画家、小説家。慶應義塾大学通信教育課程に入学・退学。その後、印刷会社の写植、ホステス、ウェイトレスを経て、1984年、エッチ漫画『シーラカンス・ブレイン』でデビュー。1993年の自伝小説『ファザーファッカー』と1995年の『キオミ』は直木賞候補。生年は1959年8月7日。

神楽坂であの子は
  不思議な音楽を奏でる

 彼女の死を知らされたのは、つい昨日のことです。
 電話が嗚ったそのあたりから、僕の峙計の針は奇妙にねじれてまともな時を告げてくれません。
 誰だって自分より年下の人聞か先に死ぬことは普通想像しないものだし、ましてやあの彼女が死ぬなんて。(略)

 翌日僕は、神楽坂に行く用事がありました。この用事の後に、彼女の家へ行こうと思っていました。
 彼女に借りたままのスイカもちゃんとポケッ卜の中に入っています。考えてみたらこんなものを借りっぱなしっていうのも、僕のだらしなさ、そして子どもっぽさの証拠なのに違いありません。
 どうするんだ。今返して。彼女はもう死んでしまったというのに。

 毘沙門天びしゃもんてんにふらふらと吸い込まれるように入って行きました。まだ現実感がありません。何をまつる場所なのかもよく知らないまま、夢中で手を合わせました。
 僕は神楽坂のことを何も知らなかった。でっかい肉まんの売ってる街、くらいの認識しかなかったのです。
 何度か来ているはずなのに、まるきり違う街に見えます。
 いや、これからしばらくは、何を見ても今までと違って見えるのかも知れません。

 おそらく主人公が神楽坂に来た駅は、JRや東京メトロの飯田橋駅ではなく、地下鉄の神楽坂駅(東京メトロ東西線)か牛込神楽坂駅(東京都交通局大江戸線)でした。その後、毘沙門天にはいったのです。

スイカ もちろん、JR東日本のカード。「Suica定期券」「My Suica」「Suicaカード」の3種類があります。
肉まん 五十番が売っている肉まんでしょう。昔は図2の所にありました。現在は本多横丁を渡ってすぐの場所にあります。

図1。神楽坂駅神楽坂駅

 あの時彼女の言ったこと、彼女のいつかの表情、こんなものが好きだった、そんな断片が、僕の中に浮かんでは消えます。
 素敵な和菓子屋で、手土産を買いました。浮き雲という名のメレンゲのお菓子と、さくらさくらという名の、桜の形のお菓子です。
 手土産を持って、もう向かうだけだというのに、ある店のショウウインドウをぼんやり眺めていました。
 ブリキのおもちゃが沢山並んでいます。木琴を叩いている女の子が彼女に似ていると思いました。
 でも、今は何を見てもそう思うのかもしれません。
 彼女の家は、線路沿いの道を歩いてすぐです。何度か見た風景です。だけどそれも違って見えます。
 まだ死んだ彼女の顔も以てないのに、こんなで大丈夫なのだろうか? 彼女の顔を見たら僕は壊れてしまうのではないだろうか? 怖くなってきました。心臓が口から飛び出そうです。

 それから和菓子を買い、ブリキのおもちゃなどを売っている太陽堂を見て、外堀通りにでる。
 でも、和菓子の店はどこなの? 順序よく行ける和菓子屋はありません。梅花亭か五十鈴なのですが、私は「梅花亭ポルタ神楽坂」に一票をいれます。なお、梅花堂の本店は神楽坂6丁目15番地(上図)にあります。

図2。神楽坂下(五十鈴、毘沙門、五十番、太陽堂、梅花堂ポルタ神楽坂)神楽坂下’(太陽堂、梅花堂、毘沙門)

和菓子屋 東京都新宿区神楽坂6-15か神楽坂2-6の「神楽坂 梅花亭」か神楽坂5-34の「五十鈴」でしょう。
浮き雲 梅花亭の食べ物。「白」と「抹茶」の2種類があり、「白はフワフワの焼メレンゲに小倉餡入り。抹茶は白あんベースに抹茶を加えた抹茶餡に丹波大納言小豆を散らして」あるもの。
メレンゲ 卵白と砂糖を混ぜて泡立てたもの。
さくらさくら 現在は梅花亭も五十鈴も「さくらさくら」という名前の和菓子はありません。
ある店 神楽坂2丁目の太陽堂でしょう。本来は陶器店、現在はレトロなおもちゃが沢山。
線路沿いの道 外堀通りでしょう。正式には東京都市計画道路環状第2号線。

山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。
 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸


婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



湯島の境内②|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は「婦系図」の小説(1907年)では入っておらず、戯曲(1914年)で新しく加わりました。ここは戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店の「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻。早瀬の話に出てきた「おれ」や「先生」とはドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生。小芳は芸妓で、酒井の愛人でした。

早瀬 実は柏家かしわや奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!——死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえて出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、——四の五の云うな、一も二もない——俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ——と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。


柏家 柳橋にあった芸者置屋おきやか料亭。置屋とは料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
奥座敷 家の奥のほうにある座敷。私生活にあてる座敷。
匕首 あいくち。つばのない短刀。
小芳 芸妓。ドイツ文学者酒井俊蔵の愛人。酒井俊蔵は早瀬主税の先生。
縋る すがる。 頼みとしてとりつく。しっかりとつかまる。しがみつく。
こがれ死に 焦がれ死に。恋い慕うあまり病気になって死ぬこと。
二の句 次に言いだす言葉。
気色ばむ 怒ったようすを表情に現す。むっとして顔色を変える。
わけしり 訳知り。遊里の事情によく通じていること。また、その人。
 まこと。うそや偽りでないこと。人に対して誠実で欺かないこと。偽りのない心。まごころ。
蔦吉 芸名、名。「吉」「太郎」「奴」などをつけて男名前を使うことが多かった。
押し返す おしかえす。押してきた相手を逆にこちらから押す。押し戻す。相手の言葉を受けて返す。裏返す。
尽未来際 じんみらいさい。仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。

お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれ且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
〽見る度ごとに面痩おもやて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ——それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。


男が立つ 男としての名誉が保たれる。面目が保たれる。男の名誉が守られる。
事を分ける ことをわける。筋道を立てて詳しく説明する。条理を尽くす。
きれぎれ 細かくいくつにも切れて。切れそうになって、からくもつながっている
且つ 一方では。ちょっと。わずかに。そのうえ。それに加えて。
面痩せる おもやせる。顔がやせてほっそりした感じになる。顔がやつれる。
えいられねば 不明。「永」はエイ、ながい。「映ずる」は光や物の影が他のものの表面にうつる。「えいら…」はありません。
見納め みおさめ。見収め。これで見るのが最後だ。
替う かう。換う。代う。「える」の文語形。
斉しく ひとしく。等しく。そのことが起こったのと同時に。するや否や。
擲つ なげうつ。抛つ。捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない。
髷形 女性が髷を結うとき、形を整えるために髷の中に入れる紙製のしん。髷入れ。
拗ねる すねる。すなおに人に従わないで、不平がましい態度をとる。

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

漱石と市谷の小学校

文学と神楽坂

 夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。

 北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺文学会、2011年)では…

 1876年、養父母の離婚が成立し、養母とともに実家へ引き取られた漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった。当時は市谷柳町交差点を少し南へ行った、市谷柳町16番地にあった。家から1km余の距離である。
 現在の市ヶ谷小学校(新宿区市谷山伏町)とは別系統で、愛日小学校(新宿区北町)の前身になる。愛日小学校は1880年、吉井小学校(1870年創立。市谷加賀町16番地)と漱石の通った市ヶ谷小学校(1874年創立)が合併し、現在地につくられたものである。 1878年4月、市ヶ谷小学校を卒業した漱石は、錦華学校小学尋常科に入学した。

「漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった」と書いてありますが、実は「市ヶ谷学校」が正しく、「小」は不要です。では、もう1つ。「市ヶ谷学校」の場所は、本当に市谷柳町16番地なのか、それとも柳町69番地か、山伏町2番地なのか、どうなのか、という問題です。ここで柳町69番地と山伏町2番地は、荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂』(集英社、1984年)にでています(下線は私がつけたもの)。

 明治九年(1876)10歳
★5月30日(火)(不確かな推定)、戸田学校下等小学校第四級を修了したかもしれぬ。
★6月頃(推定)、市谷学(牛込区市が谷山伏町2番地、現・新宿区市が谷山伏町)の下等小学第三級に転校したかも知れぬ。同窓に、島崎友輔(柳塢りゆうお)・桑原喜・山口弘一・篠本二郎・中川某(不詳)らいて親しく交わる。

脚注
◇第一大学区東京府管内第三中学区第四番小学市が谷学校。明治6年設立。生徒数男児82人、女児38人。旧民家を校舎にしたもので、程度は戸田学校より低かった。明治九、十年頃までに、牛込区柳町69番地(当時、69番扱所)に移る。金之助が通ったのはここかもしれぬ。明治13年公立小学(第二番)吉井学校と合併し、「愛日小学校」となる。現在の新宿区立愛日小学校(新宿区北町26番地)である。
◇「喜いちゃん」と呼ばれる友人から、蜀山人の自筆と称する『南畝なんぼ莠言ゆうげん』を買わされたことがある。翌日取りもどしに来たので、本は返したが、代金は受取らない。

 はじめに「柳町69番地」はまず違います。当時の地図を見ても、柳町には48番地が最大でした。柳町69番地はありえません、では「山伏町2番地」はどうでしょうか。

 唐澤るり子氏の「モノが語る明治教育維新 第27回-双六から見えてくる東京小学校事情 (5)」(三省堂、2018年8月)では「明治7年に開校した『市ヶ谷学校』は、明治8年に生徒増加のため市谷柳町(現・新宿区市谷柳町)の民家を買収し移転しました」と書いてあります。

市ヶ谷学校

市ヶ谷学校。東京小学校教授雙録。新宿区教育委員会『新宿区教育百年史資料編』(1979年)の口絵から。

 新宿区愛日小学校の歴史では「明治7年3月23日、第一大学区に第四番公立小学 市ヶ谷学校が開校される(市谷柳町16)」と書き、また、新宿区の『新宿区史 資料編 区成立五〇周年記念』(新宿区、1998年)でも下図となり、同様です。

公立小学校沿革一覧

公立小学校沿革一覧。一部を改編

 どうも市谷柳町16が正しいようです。でも、わからない場合も残っている。その場合、聞いてみます。唐澤るり子氏にこの質問をお送りしました。以下はその回答です。

 市ヶ谷学校に関してですが、私の調べによれば明治7年3月に市ヶ谷山伏町に開校、明治8年4月1日に生徒増加のために市谷柳町16番地の民家を買収、移転したとなります。
 漱石が戸田学校から市ヶ谷学校下等小学第3級に転校したのは、明治9年5月から10月の間ですから、「6月頃(推定)、市が谷学校(牛込区市が谷山伏町2番地)」とありますが、この時期には移転しており、山伏町とは考えられないと思います。
 三省堂のブログは出典を明記しておりませんが、開校に関しては『小学校の歴史Ⅲ』(倉沢剛著)、移転に関しては『新宿区教育百年史』を参考にしております。

 なるほど。市谷柳町16番地の民家を買収し、漱石も柳町16番地の小学校に通っていたんですね。

柳町16

柳町16。東京実測図。明治28年。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

[漱石雑事]

1枚の写真(上田屋履物)

文学と神楽坂

 改造社の『日本地理大系』(1929年)で「昭和5年の神楽坂通り」の写真です。問題はどこを撮ったの?

神楽坂通

神楽坂通

 絵の右側にはは「上田屋履物店」がはっきりと見えます。その次に看板の「濱田」とのぼり旗の「〇田メリヤス店」。さらに「岡澤菓子店」も見えます。のぼり旗や垂れ幕などが異常に無数に立っています。メリヤス店の直下には何か屋台もあるようです。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を見ると、右手に「上田屋履物」と「浜田メリヤス店」「岡沢菓子店」が見えます。ここでしょう。

5丁目の商店

 現代の写真は
5丁目の商店街

 でも。現在と昭和5年の写真を比べると、下の赤の建物は何でしょう?

向こうに見える建物はなに

向こうに見える建物はなに

 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の昭和5年と比べて見ると、こう見えたのでしょうか? それともアーチ状の屋根が一見建物に見えたのでしょうか? よくわかりません。まだ疑問を残したまま、仕方なく、終わりにします。(と書きましたが、わかりました!!! 図の下に)

昭和5年、あの建物は

昭和5年「牛込区全図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 これは緑門(グリーンアーチ)でした。嘉村礒多氏の「神楽坂の散歩」(昭和7年。再版は南雲堂桜楓社、昭和40年)で……

 いつの間にか年末が近づいた。さかな電車線路で隔てた手前の通寺町との歳の市聯合売出しの装飾をこらした緑門アーチが、二三日前に出来上つた。が、去年の暮のやうに幔幕を引きめぐらした両側の店々の軒から軒へと絲瓜へちまだなのやうに五色の電燈が縦横に架やられるやうな贅沢な飾りは、世上が不景気のせゐからか、今年はまだ見られない。

肴町 現在は神楽坂五丁目に。神楽坂三・四丁目の西側の地域。
電車線路 現在は大久保通りに。
通寺町 現在は神楽坂六丁目に。神楽坂五丁目の西側の地域。
歳の市 としのいち。年末に立つ市。年神祭の用具や正月用の飾物,雑貨,衣類,海産物の類を売る市場。
緑門 祝賀の際などに建てる、常緑樹の葉で包んだ弓形の門。グリーンアーチ。

グリーンアーチ

グリーンアーチ

幔幕 まんまく。縦にだんだらの筋のある幕
絲瓜棚 へちまだな。糸瓜棚。庭園の棚や柵に栽植する。へちまの幼果は食用にする。
世上 せじょう。世の中。世間

へちま棚

へちま棚

 最後にまとめると……。ただし「菱屋糸店」ではなく「ひしや糸〇店」となります。〇は不明ですが、「分店」でいいかも。また、猫のお面がたくさんありますが、「吾輩は猫である」のイベントだと面白い、と地元の方。


2016年8月28日→2020年3月4日